[2-5-1] 古代〜アイヌ以前の北海道〜 Ver. 6.00 1. 古代の北海道 ここでは本当にサワリしか触れません。興味をお持ちの方は、この章のネタ 本 :-)である以下をご覧ください。 宇田川洋「北海道の考古学」北海道出版企画センター 千代肇 「続縄文文化」考古学ライブラリー25 ニュー・サイエンス社 横山英介「擦文文化」 考古学ライブラリー59 ニュー・サイエンス社 この章では以下について概説します。 1.1 旧石器時代 1.2 縄文時代 1.3 続縄文時代 1.4 擦文/オホーツク文化時代 1.1 旧石器時代 なんか「日本最古の土器」というのは数年おきに記録が更新されているよう な気もするのですが、ここでは定説にしたがって旧石器時代を「土器を持たな かった時代」のことを指すものとします。北海道では概ね7〜8000年前まで続 きました。 # 「いつ」始まったかは、諸説あって収拾がつきません(^^;。 この時代は洪積世ウルム氷期〜俗にいう「氷河期」の内で最後のもの〜にあ たります。このため、海面が現在よりも100m以上も低く、現在の「日本海」は 巨大な湖であり、後の津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡等は全て陸地であった… とされています。 こういう状況下で当時の人類はユーラシア大陸から動物を追って現在の北海 道に入り込み、さらに一部は現在の津軽海峡にあたる地を通って南下した…と 考えられています。したがって 日本最古の遺跡は北海道にある 可能性が高いんですが、なんせこの時代は人口密度があまりにも低かった〜一 説によれば1km2あたり0.02人程度である〜うえ、この時代の人々は住居を持た ずに放浪していたようなので、実際の「最古の遺跡」は永久に見つからない可 能性もあります。 この時代は、判っている範囲だけでも2万年に及ぶ長期のため、本項では便宜 的に「前期」「中期」「後期」に分けて解説します。 1.1.1 前期 近くにある適当な石を、別の石に叩きつけて割った(だけ :-)の)最も原始的 な石器しか発見されない時代です。おそらく、それを素手で掴んだり、木の枝 に括り付けて武器にしたのでしょう。 道内で代表的なのは、常呂郡常呂町の岐阜第二遺跡や河西郡更別村の勢雄 (せお)遺跡であり、いずれも「約3万年前」のものとされています。もう少し 新しい(笑)例としては、「約2万年前」とされる河東郡上士幌町の嶋木遺跡、 千歳市の祝梅遺跡といったものがあります。 1.1.2 中期 ガラス質の石を細かく割って作った「細石刃(さいせきじん)」と呼ばれる石 器を特徴とする時代です。概ね16000〜9000年前と推定されます。 前期の旧石器が基本的に「鈍器」であったのに対し、この細石刃を動物の骨 や木の枝に取り付けたものはレッキとした「刃物」でした。この点に格段の進 歩(笑)が見られるのですが、この時代の道内では槍・弓矢といった飛び道具 :-) は発明されていなかったようで、どこの遺跡からも見出されていません。 # 細石刃文化の本場であるシベリアでは、この時代に槍が発明されていたよ #うです。 この細石刃という物は、道内だけでなく本州中部の同時代の遺跡からも広く 発見されています。したがって、この時代の人々の交流(あるいは移動)という のは、後世の我々の想像を越えていたのかもしれません。 この文化圏に属する道内の遺跡は、現在までに発見されているだけでも北は 宗谷郡猿払村から南は山越郡八雲町まで、東は常呂郡端野町まで広まっていま す。 道内で発見される細石刃の大半が原料を現在の紋別郡白滝村に頼っており、 同地を中心と同時代の遺跡が集中しているため、当時の道内ではこの地が中心 であったと考える説もあります。 道内で代表的なのは、上記の紋別郡白滝村にあるホロカ沢遺跡や遠間(とおま) 遺跡、西興部村の札滑(さっこつ)遺跡、遠軽町のタチカルシュナイ遺跡、常呂 郡端野町の吉田遺跡、磯谷郡蘭越町の立川遺跡、虻田郡倶知安町の峠下遺跡、 等です。 ちなみに、本州の一部ではこの時代に既に土器が作られていたようですが、 この時代の土器は道内の遺跡からは発見されていません。 1.1.3 後期 最初の飛び道具(笑)である槍と、石の一部を磨いて刃をつけた「局部磨石斧」 そして少数ながら「竪穴住居」の登場に象徴される時代です。概ね8000年前を 中心とした短い期間です。 この時代になると、本州以南では各地で盛んに土器が使われ始めているので すが、道内では依然として土器は作られていません。ただ、この時代の(竪穴) 住居の存在は、「定住」を可能にするだけの安定した食料の確保が可能になっ た…ということを意味する訳ですから、将来は道内の後期旧石器時代の遺跡か らも土器が発見される可能性はあります。 # もっとも、土器が発見されるようでは「旧石器時代」とは呼ばない訳です #が(^^;。 道内で代表的なのは、紋別郡滝上町の札久留遺跡、白滝村の鴻上遺跡、常呂 郡端野町の上口遺跡、磯谷郡蘭越町の立川遺跡、等です。 1.2 縄文時代 本州以南に比べると道内での土器の登場は遅く、概ね7〜8000年前までしか 辿れません。そしてこの時代が終わるのは、概ね紀元前2世紀頃までです。 # 後述しますが、1950年頃までの北海道考古学界では「北海道の縄文時代は #8世紀まで続いた」と考えられていたため、凄く古い資料を使った解説書に #は以下と違うことが書いてあるかもしれません。 通常の考古学においては本州以南の縄文時代を「草創期」「早期」「前期」 「中期」「後期」「晩期」に分けて考えますが、遅れて始まった道内の縄文文 化には草創期が存在しなかった…というのが現在の定説です。 この時代の道内の文化は(ほぼ)*東西*に二分されており(*1)、西側の文化は 本州東北地方〜中国東北地方と、東側の文化はシベリア極東部と、それぞれ共 通する特色を持っていました。 (*1)両者の境界は生物学で提唱された「積算温度」〜実質的に夏の長さと 暑さを示す〜の違いと一致する…とされています。 1.2.1 早期 旧石器時代には例外的な存在であった竪穴住居が一般化した時代です。 便宜上「縄文文化」と呼んでいますが、道内のこの時代の遺跡から発見され る土器の表面はサルボウやアカガイの殻で引っ掻いて付けた…と推定される模 様があり、分類上「貝殻文土器」と呼ばれます。 道東・道北地方の遺跡から発見されるこの時代の土器は底が平なのに対し、 道央・道南地方の遺跡から発見されるこの時代の土器は底が尖っている…とい う形態上の大きな違いがありますが、表面の模様は似ています。 この時代の終わりには、平底の土器が道内を席巻しました。 道東・道北地方の遺跡として代表的なのは釧路市の東釧路貝塚が、道央・道 南地方の遺跡として代表的なのは函館市の住吉町遺跡があります。 東釧路貝塚の一部は、現在では「貝塚公園」として整備されています。 東釧路貝塚ではイルカの頭骨が(単なる遺棄ではなく)「埋葬」されたと考え られる事例が発見されており、宗教/信仰の発生という見地でも注目すべき遺 跡かと思います。 この時代の道東・道北地方の遺跡の幾つかからは、日本ではこの地域だけ、 世界的に見てもシベリア・アムール川流域のノボペトロフカ文化圏の遺跡だけ で発見されている「石刃鏃」という極めて特殊な石製の鏃(やじり)が発見され ています。この時代には氷河期は終わっており、まだ帆船も発明されていなかっ た〜とされる(^^;〜時代ですが、人間はオホーツク海を越えて往来していたと 考えられます。 1.2.2 前期 この時代にあたる5〜6000年前は世界的に気温が高く、海水面は現在より3〜6m 高かった…とされています。このため、現在の釧路湿原は大半が海底でしたし、 網走湖は湾であったとされています。 この時代を土器から見ると a)表面に文字どおりの『縄文』が見られる「撚糸文土器」 b)刻みを付けた棒を押し付けて整形した(と思われる)「押型文土器」 c)道南だけに見られる「円筒下層式土器」 に分類され、それぞれの違いが文化圏の違いを現していると考えられます。 # ただし撚糸文土器の文化圏と押型文土器の文化圏は明確に分かれてはいま #せん。 最初のパターンである撚糸文土器の中には、本州以南の同時期の土器と同じ ように生地に繊維(*2)を入れ、底を尖らせた形にした例が多く見られます。 (*2)要するに草です。生地の練りが不足して気泡が残ると焼成時に砕けて しまうので、それを防いで歩留まりを向上させるため…と考えられてい ます。 余談ながら、この時代の土器の「底が尖っている」という点について、考古学 界では古くから a)「焚火の中に立てた場合の表面積を大きくして加熱効率を重視した」派 b)「運搬用具として背負った場合に体が楽だから」派 に分かれており、いまだに決着は着いていないようです。 この時代、「生地に繊維・底が尖っている」という特徴を持つ土器は(ほぼ) 全国に分布しているのですが、道内から発見されるこの時期の土器の中には、 器の成形後の生地の中に「黒曜石」と呼ばれるガラス質の鉱物を埋め込んだ例 が数多く見出されています。 # 黒曜石そのものは石器の材料として全国各地で使用されていますが、土器 #へ埋め込まれた例は道外では見出されていません。 道内の撚糸文土器の文化圏で代表的なのは函館市の春日町遺跡、静内郡静内 町の中野遺跡、空知郡栗沢町の加茂川遺跡、千歳市の美々貝塚、等です。美々 貝塚は現地に保存館(注:無人)があります。 第二のパターンである押型文土器には、尖底タイプのものと平底タイプのも のがあります。 尖底タイプの押型文土器を出す遺跡として代表的なのは、斜里郡斜里町の朱 円西遺跡や根室市のトーサムポロ遺跡、等です。もう一方の平底タイプの押型 文土器を出す遺跡として代表的なのは、上川郡東神楽町の神居遺跡や士別市の 多寄遺跡、等です。 # なお、朱円西遺跡からは様々な時代の遺構が発見されており、長年にわたっ #て人が住み着いていたことが判ります。 撚糸文土器の文化圏と押型文土器の文化圏が相当な範囲で重なっているのに 対し、第三のパターンである「円筒下層式土器」の文化圏は、石狩川に沿った 低湿地から西*だけ*に限られています。この点に注目して、この土器を初期の 農耕と結び付けて考える識者もいるようです。 円筒下層式土器と似た土器は本州東北地方での発見が多く、この時代になる と流れの急な津軽海峡を越えての交流が盛んだったことが窺われます。 円筒下層式土器の文化圏で代表的なのは、桧山郡江差町の椴川遺跡、岩内郡 岩内町の東山遺跡、等です。 1.2.3 中期 この時代には、全道…どころか日本全国の大抵の遺跡で、似たようなデザイ ンの円筒形で生地の厚い土器が見出されるようになりました。とは言っても、 道南では前期に続いて本州に起源があると思われる「円筒上層式土器」の文化 が支配的なのに対し、道東/道北では前時代から独自の発展を遂げたと思われ る「北筒式土器」(*3)が多勢となっており、引続き道内には二大勢力(^^;が拮 抗していたようです。 (*3)かつては「北海道式円筒土器」と呼ばれていました。本州東北部から 道南にかけての範囲で発見される円筒上層土器と北筒式土器の最大の違 いは、表面の装飾にあります。 その一方、押型文土器の文化が途絶えた後の道東北部では、平底・筒型なが ら生地に繊維を多く含む「モコト式土器」が広く使われるようになり、それに 続いて「北筒式土器」が大勢を占める時代となりました。 北筒式土器は時代を経るにしたがって技術が向上したようで、途中から生地 に繊維を含まなくなりますが、形態は大きく変わることはありませんでした。 モコト式土器が見出された遺跡として有名なのは、網走市の藻琴貝塚です。 それに続く北筒式土器を持つ文化の遺跡として代表的なのは、常呂郡常呂町の 常呂貝塚、稚内市のオニキリベツ遺跡等です。なお、この時代は(直前期に比べ ると)気候が急激に寒冷化したとされているため、冬は海が流氷に閉ざされてい た筈であり、さぞ生活は大変だったと思います。 道南で多く発見される円筒上層式土器は、上記の北筒式土器に比べて装飾が 凝っている物が多く、より高度な技術を持つグループが遺した物だと考えられ ます。また、本州でも東北地方を中心に、似たような形態・装飾を持つ土器が 多く見出されており、引続き海峡を越えた交流があったものと思われます。 円筒上層式文化の遺跡として道内で代表的なのは余市郡余市町の大谷地貝塚、 函館市の見晴町遺跡、上磯郡尻内町の森越遺跡等です。 1.2.4 後期 中期までの縄文土器の殆どが「細長いバケツ」のような形のものばかりだっ たのに対し、この時代になると壷・鉢・皿といった様々な形の土器が現われて きました。それと共に焼成温度が高くなって生地が堅くなったため、器の生地 が薄くなったり、凝った装飾が付けられたりするようになりました。 そして縄文中期までは道北/道東のグループと道南のグループは異なった文 化圏に属していたことを思わせる差があったのに対し、この時代になるとデザ イン上の差は殆ど失われました。 余談ながら、北海道の縄文時代が8世紀末まで続いていた…と考えられてい た北海道考古学の発祥期には「北海道式薄手縄文土器」という分類があり、こ れをもつ文化期を「前期・後期」に分けていました。古い資料では、ここで言 う縄文後期から晩期の文化を「前北式文化」と呼んでいる場合が多いです。 この時代を代表する道内の遺跡としては、静内郡静内町の御殿山遺跡、礼文 郡礼文町の船泊遺跡、斜里郡斜里町の栗沢遺跡、虻田郡ニセコ町のニセコ遺跡、 等があります。 ただし釧路地方では、この時代に限って極端に遺跡が少ないため、当時の生 態系に何らかの大変動があった…と考えられています。 なお、この時代の文化を特徴づけるものの1つに本格的な『墓地』の登場が あります。「埋葬」の発祥自体は旧石器時代まで溯ることができるのですが、 集落から離れた場所に設置され、長年にわたって埋葬地として使われる本格的 な共同墓地が登場したのは、この時代が初めてです。 また、この時代になると死者が生前使っていた(と思われる)道具をセットに して遺体と一緒に埋める習慣が現われ始めていることから、『あの世』という 概念が生まれたのも、この時代だと推定されています。 1.2.5 晩期 「晩期」という言葉からは何か落ちぶれた状態が想像されるかもしれません が、実際には縄文文化の最盛期と呼ぶべき時代です。 この時代には、青森県・津軽地方を中心とした「亀ヶ岡文化」の強い影響を 受けた勢力が宗谷・網走・根室・釧路の各地域を除く道内を席巻しました。こ の勢力は、高度な技術を駆使した土器や土偶(注:土製の人形)、大陸との交流 を窺わせる装身具や漆器が遺しています。 そしてこの時代になると集落間で、あるいは集落内での貧富の格差が相当に 大きくなってきた…というのも否めない事実です。 この文化を代表するのは上磯郡木古内町の札苅遺跡、夕張郡由仁町の東三川 遺跡、小樽市の桃内遺跡、等です。 この文化が及ばなかった地域では、従来の文化が「幣舞(ぬさまい)式土器」 「緑ヶ岡式土器」といった、亀ヶ岡文化とは異なった傾向の文化が発展しまし た。こちらの文化についても大陸東岸や千島の同時代の文化との関連を指摘す る声もありますが、発見された遺跡が少ないため詳しいことは判りません。 この文化を代表するのは、釧路市の緑ヶ岡遺跡、常呂郡常呂町の栄浦第二遺 跡、等です。 1.3 続縄文時代 本州以南での縄文文化と弥生文化とを比較すると、発見される遺跡や遺物に 『断絶』としか言いようがない程度の不連続があります。 これに対して稲作の導入が大きく遅れた(と考えられている)道内では、本州 以南の弥生文化の影響を受けながらも、総体としては縄文文化の伝統を受け継 いだ独自の文化が続きました。 道内でも地域差はあるのですが、概ね紀元前2世紀〜7世紀(注:本州以南で言 えば弥生〜飛鳥時代)に栄えたこの文化は「続縄文文化」と名付けられました。 # この名前は、この時代の土器の表面にも「縄文」が記されている例が多い #ことに由来します。 ところが、近年の調査において渡島半島の続縄文文化の遺跡から(本州)東北 地方の弥生式土器が見つかったり、あるいは東北地方の南部にあたる北上川の 河口近くの遺跡から続縄文文化に分類される土器が見つかったりしていますの で、現実は 「津軽海峡を境に2つの文化が存在した」という訳*ではなく* 弥生文化圏、あるいはそれから派生した(と考えられる)大和王権と、道内勢力 との間に持続的な交流があったことは間違いないと思います。ただ、その「交 流」が友好的な交易であったのか、それとも相互に侵略しあっていたのか…ま では現時点では判りませんが。 ちなみに、道内で石器が盛んに実用目的で使われたのは、この時代が最後だっ た…と考えられています。 旧石器時代や縄文時代に比べて極めて短く、たった1000年ほど :-)の続縄文 時代なのですが、専門家は I期前半・I期後半・II期・III期・IV期 に分ける場合が多いようです。ただし細かいことを言い出すと大変なので、本 項では「恵山文化」「江別文化」という分類を切り口に考えます。 1.3.1 恵山文化 亀田郡恵山町の恵山貝塚で最初に見出された文化です。 この文化は最盛期には渡島半島全域から青森県の下北半島にまで広まった… と考えられていますが、なぜか北には広まらず、4〜5世紀には南下してきた 「江別文化」に圧倒されて失われた…と考えられています。 # 『北に広まらなかった』という点から、何らかの暖地性作物の栽培を背景 #にした文化と考える研究者もいるようです。 この文化の遺跡から見出される土器は甕(かめ)・壷・鉢といったものが基本 であり、直前の縄文時代晩期と比べても『貯蔵』の比重が増しています。 この文化の成立期の遺物には、青森県の下北地方の弥生文化の影響が強く見 られる点から、この文化は渡島地方南部の縄文文化が独自の発展を遂げたもの *ではなく*、下北半島から渡来した人々が興した文化だ…と考える研究者もい るようです。 その一方で、この文化には墓にイルカやクマの頭を遺体といっしょに埋葬す る…という他の地域・他の時代に見られない(*4)特異な風習も見出されている ため、今でもスマートな説明はついていないようです。 (*4)強いて言えば、後述する「オホーツク文化」や、近世のアイヌ文化と 共通する風習です また、これも恵山文化*だけ*に見られる特徴として、クマをモチーフにした 土器の装飾が挙げられます。 ちなみにクマを神聖視する…という点では近世アイヌも同様ですが、アイヌ は基本的に偶像を作らないので、クマの像が作られることはありませんでした。 # 余談ながら「北海道みやげ」の定番?の木彫りの熊は、明治期以降の和人 #の発明です。 この文化圏を代表する遺跡は亀田郡恵山町の恵山貝塚、瀬棚郡瀬棚町の南川 遺跡、函館市の西桔梗B遺跡や、室蘭市の本輪西貝塚、等です。 なお、この時期のオホーツク海の沿岸に「宇津内文化」、太平洋沿岸に「下 田ノ沢文化」を想定し、それぞれが独自に縄文文化から発展した…と考える説 もあります。その一方で、宇津内文化や下田ノ沢文化を続縄文文化*ではなく* 末期の縄文文化の一部と考える研究者もおり、専門外の筆者には評価のしよう がありません。 宇津内文化を代表的するのは斜里郡斜里町の海別(うなべつ)遺跡や宇津内遺 跡、下田ノ沢文化を代表的するのは釧路市の下田ノ沢遺跡や国後島のアリョー ヒノ遺跡です。 1.3.2 江別文化 この文化のことを「後北文化」と呼ぶ場合もあります。 元々の後北文化とは"1.2.4"で述べた「前北文化」に対する言葉であり、 「後北文化」と呼ぶと恵山文化と一括した続縄文文化全体を指してしまうこと にも成り兼ねないので、この言い方はあまり使われなくなりました。 江別文化は4〜5世紀には全道に広がって道南にあった「恵山文化」を圧倒し、 津軽海峡を越えて現在の宮城県までの広大な範囲を席巻した…とされています。 # そして「日本書紀」にある阿部比羅夫の遠征は、江別文化を擁する部族と #大和王権との間で起こった東北地方の覇権を賭けた衝突であった…と理解す #るのが最近の通説のようです。 ただし、江別文化はたった2〜300年の間に隆盛を極めて、そのまま立ち消えて しまった文化だけに謎が多く、研究者の間では a)地域差に注目して「江別型」「北見型」に分ける説 b)北見型は前述の下田ノ沢文化の延長であって江別文化とは別…と考える 説 c)時系列の変遷に注目して「(純)江別式」と「北大式」に分ける説 の諸説が入り乱れており、さらに言えば前述の下田ノ沢文化と北見型を実際に は同じものと考える識者までいるので、専門家でない筆者には正直言って良く 判りません(^^;。 # 要は、遺跡・遺物における差が大きく、『これが江別文化の特徴だ』と言 #えるような共通項が見つけにくいのです。 ちなみに、小樽市の手宮洞窟や余市郡余市町のフゴッペ洞窟の壁に謎の壁画? を遺したのも、この江別文化圏に属するグループと考えられています。また、 (純)江別式土器には後世のアイヌが好んで用いた渦巻き模様や十字模様と共通 する意匠を持つものが見られます。ただしこの意匠は、後の時代(の土器)には 続きませんでした。 この文化を代表するのは江別市の江別太遺跡や坊主山遺跡、石狩市のワッカ オイC遺跡や、阿寒郡阿寒町のシュンクシタカラ遺跡、等です。 1.4 擦文/オホーツク文化時代 せっかく(^^;江別文化時代には(本州)東北地方を征圧した道内勢力なのです が、その後は本州王権の巻き返しに遭って、8世紀頃には現在の青森県の範囲 までの後退を余儀なくされると共に、文化的にも変容を余儀なくされました。 そしてこの時代は、近世アイヌ文化が道内を席巻する13世紀まで続きました。 この時代になると土器の表面から縄文は失われ、刷毛で擦ったような跡(*5) が主体になったため、「擦文文化」と呼ばれています。 (*5)実際には木片で掻いた…と考えられているようですが この章では、擦文文化の時代を9世紀半ばを境界に「前期・後期」に分けて 考えます。また、この時代には樺太を中心にユーラシア大陸東岸から千島列島 全域、そして道内のオホーツク海沿岸に広まった「オホーツク文化」があるの で、それについても触れます。最後にアイヌ文化との関係についても考えてみ ます。 長く見ても500年ほどしか続かなかった擦文文化の時代なのですが、それで も専門家は「早期・前期・中期・後期・晩期」という区分をしています。が、 細かく見るのは大変なので、ここでは大雑把に 8世紀 9〜13世紀 14世紀〜 道南・道央 :前記擦文文化 後期擦文文化 アイヌ文化 道北・道東 :続縄文文化 後期擦文文化 アイヌ文化 オホーツク海沿岸: オホーツク文化 アイヌ文化 に分けて考えます。 この時代になると、石器が実用には使われることは基本的になくなりました。 ただし、庶民の住居は縄文時代以来の伝統(^^;である竪穴式でした。 # この点については本州以南も同様であって、別に当時の道内が格段に遅れ #ていた…という訳ではありません。 しかし、その竪穴住居を詳しく見ると 縄文〜続縄文時代 擦文時代 ^^^^^^^^^^^^^^^^ ^^^^^^^^ 平面プラン 多角形 円形、楕円形、四角形 暖房 部屋の真ん中のイロリ 壁際のカマド という違いがあります。 この時代になって土器の表面から縄文が失われたことといい、上記の住居の 変化といい、7000年近くの伝統が急速に転化した訳ですから、革命的 :-)な変 化であることは間違いありません。 そしてこれだけ大きくて急速な変化であるだけに、この変化を内発なもの *ではなく*外部からの侵攻と占領の状況証拠と考えることも可能な訳です。 1.4.1 前期 この時期、石狩地方は続縄文文化とは明らかに異なった文化を持つ集団に占 拠されていました。この文化圏に属する江別市の後藤遺跡や恵庭市の柏木東遺 跡は、道内の他の地域/時代に類例のない貴重な「北海道式古墳」の事例とし て知られています。 # が、残念ながらいずれも現存しません。 この内、柏木東遺跡からは律令時代の『六位以下の貴族』を示す帯金具が発見 された点から考えれば、大和王権の側から石狩地方の擦文文化圏は「僻遠の地 にある友好国」として認められていた…のかもしれません。 ただし、これだけの材料では、当時の石狩地方の支配者が本州王権に帰順し たのか、それとも「征服者」が乗り込んで来て支配していたのか…までは判り ません。正史である「続日本紀」には出羽や陸奥のエミシの蜂起〜朝廷から見 れば「反乱」〜は記録されているものの、現在の北海道にあたる越度島(こし のわたりしま)は登場しないため、8〜9世紀の石狩地方を支配していた「貴族」 の正体は依然として謎のままなのです。 この時期の擦文文化の遺跡は、石狩地方を中心に渡島半島全域、さらに津軽 海峡を越えて現在の宮城県北部を南限とする北上川の流域にまで広がっていま した。これに対して、この文化の遺跡は道北では全く、道東でも例外的にしか 見出されておらず、これらの地域では引続き続縄文文化〜特に「北大式文化」 と呼ばれる場合もある〜の時代が続いていた…と考えられています。 発見される遺物で見ると、この時代の土器は(表面の「擦文」を除けば)同じ 時代の本州〜特に日本海沿岸地方〜の文化との共通性が極めて高いです。また、 この時期の道南では製鉄が行われなかった(筈な)のに、各地の遺跡から鉄製品 や、その破片が発見されているので、道内と道外は少なくとも日本海を通じた 頻繁な交流があったことが窺われます。 この文化圏では上記の北海道式古墳の他にも、函館市の湯ノ川遺跡、恵庭市 の西島松遺跡、空知郡栗沢町の由良遺跡、千歳市のウサクマイ遺跡、等が代表 的です。 1.4.2 後期 この頃になると擦文文化は全道を席巻し、千島・樺太の南部にまで達してい ました。その半面、本州でこの時代の擦文文化の遺跡が見出されるのは、現在 の青森県の津軽/下北地域だけとなりました。 そしてこの時代は、本州においても「荘園」が急増して律令制が崩壊に向かっ た時期でもあるだけに、道内の王権も朝廷への隷属から逃れて独自の拡大を果 たした時期…と言えるかもしれません。 この時期になると、遺跡から保存器具である甕(かめ)や炊飯器である甑(こ しき)が発見される例が多くなって来るので、おそらく道内ではこの時期に穀 物栽培が広く行われるようになったのでしょう。 # この時代の道内の遺跡から米が発見された例はあるものの、水田跡や稲作 #固有の農具が見出されていません。おそらく、この米は本州以南との交易に #よってもたらされた…と推定されています。 この文化を代表する遺跡としては、檜山郡厚沢部町の厚沢部川河口遺跡、常 呂郡常呂町の岐阜第二遺跡、礼文郡礼文町の香深井遺跡、等があります。 1.4.3 オホーツク文化 これまでに述べた続縄文/擦文文化の分布が道内および(本州)東北地方に限 られているのに対し、同時期のオホーツク海沿岸から日本海北部にかけての範 囲には漁労や海獣猟を主体とした全く別の文化圏があり、「オホーツク文化」 と呼ばれています。 # この文化圏は、樺太を中心にユーラシア大陸の東海岸から北海道のオホー #ツク海の沿岸地域一帯、そして千島列島全域と、天売・焼尻を南限とする日 #本海の島々までを含んでいるので『オホーツク文化』と呼ぶのは適当ではな #い…とする意見もあるようですが、ここでは定説に従うことにします。 この文化圏の人々は五角形または六角形の竪穴住居に住んで犬や豚(*6)を飼 い、「オホーツク土器」と呼ばれる独特の土器を持ち、海獣の牙で様々な偶像 を作っていました。 (*6)豚は基本的に大食いなので、一般に「豚の飼育=本格的な農耕の存在」 と考えられていますが、オホーツク文化においては農耕が行われた痕跡 は希薄です。 そしてまたオホーツク文化では、ユーラシア大陸内部から移入されたと考えら れる高度な金属製品と、伝統的な〜原始的ともいう(^^;〜石器や骨製の銛(も り)・鏃(やじり)・釣針といった道具が一緒に使われていたのが特徴です。 この文化圏においては、陸上動物の中で鹿とヒグマとが特に重視されていた ようです。この点について、後に続くアイヌ文化との連続性を見る研究者もい ますが、アイヌ文化に見られる火〜あるいはカマド〜への信仰の形跡がオホー ツク文化には見られない点から、この説には異論も少なくないようです。 この文化が滅亡した理由については諸説あるようですが、終焉の時期が「元」 のシベリアおよび樺太への侵攻と重なっているため、根拠地の喪失という説が 今では有力視されているようです。 この文化の遺跡としては網走市のモヨロ貝塚が最も有名ですが、稚内市のオ ンコロマナイ遺跡や、礼文郡礼文町の香深井遺跡、等も代表的です。また、こ の文化の地理的な南限に近い根室地方では、目梨郡羅臼町のトビニタイ遺跡、 根室市の東梅(とうばい)遺跡に代表される「トビニタイ文化」と呼ばれるオホー ツク文化の支流がありました。 1.4.4 アイヌ文化との関係 縄文時代から続縄文時代、あるいは続縄文時代から擦文時代への遷移が地理 的には徐々に起こった(と考えられる)のに対し、擦文時代の終焉とアイヌ文化 の台頭は、全道で(ほぼ)同時に起こった…と考えられています。 この「短期間での急激な変化」という点と、アイヌの側に発祥期の民族大移 動を示す神話が伝えられて*いない*ということから、現在では擦文文化の担い 手の子孫がアイヌ民族である…とする説が有力です。ただし、 a)擦文/オホーツク文化の住居は竪穴式であるのに、アイヌは違う b)擦文人の骨の発見が極端に少ないので、形質人類学的な判断ができない c)擦文人は相当な水準の農業を行っていたようだが、アイヌは殆ど農業を しない d)アイヌに見られる火/炉に対する信仰が擦文文化には見られない といった弱点があるため、まだ「定説」にはなっていないようです。ただし、 前記の「擦文文化=本州勢力による征服王朝の文化」説に立つならば、それを 打倒したアイヌ民族が擦文文化を継承*しなかった*のも自然な反応と言えるか もしれません。 # ちょうどアイヌ文化の成立期というのは、奥羽で朝廷に対する反乱が相次 #いだ時期でもあるので、京都からさらに遠い道内で旧来の権力に対する反乱 #が起こらなかった筈はないですので。