[2-5-2] Ver. 6.00

2. 先住民の時代

 明治維新まで、現在の北海道・サハリン・千島を含む一帯にはアイヌを主体
としたギリヤーク、ウルチといった先住民族の活躍する地でした。

 無論、江戸時代には道南の一角に「松前藩」が存在し、また18世紀にはカム
チャッカ方面から千島・樺太へのロシア人の進入もありましたが、人数から言っ
ても実効支配していた面積から言っても、19世紀半ばまでの北海道は先住民の
土地であり、時代であった訳です。

 この章では

  2.1 アイヌ史の概要
  2.2 アイヌの周辺

に分けて考えてみたいと思います。

# アイヌ以外の先住民については、残念ながら筆者には語れるだけの知識が
#ありません。


2.1 アイヌ史の概要

 現時点で、そして考古学的に確かめられる範囲では、([2-5-1]で述べた擦文
文化とは異なる)アイヌ文化の成立というのは、概ね13世紀〜通常の「日本史」
の用語で言えば鎌倉時代〜のこと、とされています。そして文化の面で分類す
るなら、この時代というのは

  - 内耳土器文化(推定13〜16世紀)
  - チャシ文化(推定16〜18世紀)
  - 近世アイヌ文化(推定18世紀〜)

の3段階に分けられます。ここでは上記の概要を辿ると共に、明治以降に先住
民であるアイヌの身の上に起こった事についても軽く触れておきます。


2.1.1 内耳土器文化

 発見された「もの」から歴史を考える…という考古学の観点で言えば、この
時期の道内というのは、本州以南の遺跡で多数発見されている内耳鉄鍋(*1)の
模作と考えられる土器に代表される文化の時代であると言えます。

  (*1)歴史上、初めて取っ手を付けるための「耳」が付けられた鋳鉄の鍋で
   す。当時の鋳造技術では取っ手を付けるための「耳」を縁の上には付け
   られず、鍋の内側に「耳」が付けられたために、こう呼ばれます。

 そしてある意味では、この時期こそが最も純粋なアイヌ文化の時代…と言え
るかもしれません。なお、この時代の遺跡では後世のアイヌ文化の遺跡よりも
鍋の発見例が多い点から考えると、現在まで伝わる近世アイヌ文化に比べて農
耕の比重が高かった可能性も指摘されています。

 墓標の形態からこの時代のアイヌ文化は

   a)南樺太の東海岸を本拠とする東エンジウ
   b)樺太西海岸と余市、枝幸、網走を本拠とする西エンジウ
   c)道南を本拠とするシュムクル
   d)石狩川上流を本拠とするペニウンクル
   e)道東から日高を本拠とするメナシクル
   f)室蘭から静内までを本拠とするサムンクル

という6つの独立したグループがあったと考えられています。

 その一方で14世紀半ばに記された「諏訪大明神画詞」によれば、蝦夷ヶ千島
には「日の本」「唐子」「渡党」という3つの(和人とは異なる)民族(あるいは
部族)がいた…とされています。古来、漠然と「日の本」が北海道アイヌ、
「唐子」が樺太アイヌ、「渡党」が本州から渡った者と、その子孫だろうと考
えられて来ましたが、「渡党」はともかく「日の本」と「唐子」が実際にどの
グループに対応するのか…は、現時点では定説に達してはいないようです。

 一方、この時代の本州北部に目を転じれば、15世紀の半ばには「蝦夷管領」
であった安東家の内紛から津軽地方は内乱状態となり、それに乗じて八戸から
南部家が侵攻してきたため、安東家は2度にわたって蝦夷島に逃れた…という
事件もありました。

# 余談ながら、少なからぬ津軽人は、この一件に加えて明治の廃藩置県の際
#に弘前が県庁所在地に*ならなかった*事を理由に、今でも旧・南部藩を嫌っ
#ている…のだそうです。

 そしてこの時代には、既に現在の函館市〜上ノ国町にわたって12の館〜和人
の砦〜があったとされており、この地域には当時から漁民を主体とした相当数
の和人がいたと考えられます。

 こうしてアイヌと和人との接触が増えるにしたがって、摩擦も増加してきま
した。農耕を主体とする文化に達して1000年を越える和人は、農民でなくとも
土地に執着するのに対し、猟場としての使用権は命より大事にしても土地その
ものの所有権という概念のないアイヌ。打ち続く戦乱の中で「裏切りこそ人間
関係の基本」と化した和人に対し、正々堂々の決闘の結果ならば相手を殺して
も問題にならない。その代わりに他人を騙した者は死を以って報いられるアイ
ヌ…。これは決して単純な善悪や「進歩」の度合いの問題ではなく、「文化の
違い」としか言いようがない問題であり、こういう両者が同じ場所に居た以上
は不幸は避けられなかった…と少なくとも筆者は考えています。

 この時代の和人〜の少なくとも一部〜の悪辣さを示す言葉として「メノコ勘
定」というの伝わっています。これは、たとえばアイヌが和人との交易で何か
(^^;と干鮭10匹を交換することで話が纏まった際に、和人は

   「はじまり・1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・おわり」

という数え方をして12匹を取り上げた…というものです。

 近代以降の日本人の感覚からすると「数が数えられない」なんて理解できな
いかもしれませんが、ものの本(^^;によれば現代でも遊牧民の中には家畜を数
えることがタブーとなっている部族が少なくなく、(学校)教育を受ける機会の
なかった老人などは、老いてなお数100頭の家畜の1頭ごとの顔と特徴を覚えて
いる程の記憶力や観察力があっても、数が数えられない者が珍しくない…よう
です。

 こういう文化の違いから起こった摩擦の最初の暴発…と言えるのが、1457
(長禄元)年のコシャマインの蜂起でした。

 この時は、和人の根拠であった12の館の内の10までがコシャマインの軍勢に
敗れた…とされています。しかし、この蜂起では和人側が守り抜いた「花沢館」
の客将だった武田信広(たけだのぶひろ)の奮戦でコシャマインは倒され、道内
での和人の勢力は盛り返しました。なお、この武田信広は後に館主の蠣崎季繁
(かきざきすえしげ)の養女を娶って蠣崎姓を継ぎました。後世の松前氏は信広
を「初代」として扱っています。

 そしてアイヌの側から見ると、コシャマインの蜂起の失敗というのは後に続
く果てしない「耐乏の時代」の幕開けでもあった訳です。


2.1.2 チャシ文化

 古来「チャシ=砦」だとする研究者が多いのですが、発掘の結果チャシに
「柵」や「堀」があったことは確かめられても、実際の戦闘に備えた城である
ことが確かめられた例となると極めて稀なようです。

# なんせ「軍勢」と呼べるものが立てこもるには狭過ぎる例が多い。

現在までに全道で341個所のチャシが確認されていますが、既に破壊された分
を含めれば、実際には700個所ほどが存在したと推定されています。

 ただ、コシャマインの蜂起自体は失敗に終わったとはいえ、和人勢力の根拠
地であった渡島南部においても、1550(天文19)年に蠣崎季広(かきざきすえひ
ろ・松前家では4代目としている)とハシタイン、チコモタインの2人のアイヌ
の酋長の間で和解が成立するまでは、毎年のようにアイヌと和人との間で戦闘
が続いた…とされており、この陰で和人によるアイヌ側の拠点への攻撃も行わ
れたであろうことは想像できます。したがって、この時代に多数のチャシが建
設されたということは、用途が何であれチャシが和人からの攻撃に備えたもの
であったということは間違いないと思います。

 一方、この時代の和人の側の状況に目を転じれば、1593(文禄2)年に豊臣秀
吉が蠣崎慶広(かきざきよしひろ・松前家では5代目としている)に与えた朱印
状によって、蠣崎〜1599(慶長4)年に『松前』に改姓〜氏は「蝦夷国主」と認
められました。しかし初期の松前藩が実効支配していたのは「松前地」と呼ば
れる渡島半島の南部の一角に限られ、「東蝦夷地」「西蝦夷地」と呼ばれた残
りの地域は、引続き先住民のものであった訳です。

 注:
   松前地: 現在の熊石町、乙部町、厚沢部町、江差町、上ノ国町、松前
       町、福島町、知内町、木古内町、上磯町、函館市、大野町全域
       および七飯町の南部
   西蝦夷地:現在の網走・宗谷・留萌・上川・石狩・空知の各支庁全域と
       黒松内町の南部を除く後志支庁全域、および熊石・乙部・厚沢
       部・江差・上ノ国を除く檜山支庁の範囲
   東蝦夷地:現在の根室・釧路・十勝・日高・胆振の各支庁の全域と黒松
       内町の南部、八雲町、長万部町、砂原町、森町、鹿部町、南茅
       部町、恵山町、椴法華村、戸井町、七飯町の北部
   なお、後に八雲以南の東蝦夷地は松前地に編入されました。

 1604(慶長9)年に徳川家康は蝦夷地との交易を松前氏*だけ*に認める決定を
下し、これを受けて松前藩は蝦夷地への和人の居住を認めないことにしました。
とはいえ、実際には「砂金で一攫千金」を目指して蝦夷地の奥に入り込む和人
は後を絶たず、中にはアイヌの首長の補佐役となった者も少なからずいた…よ
うです。

 蝦夷地への和人の居住を認めない…という政策は「蝦夷は蝦夷しだい」とい
う言い方であらわされたため、一見するとアイヌの自治を認めたように見えま
すが、実際には和人が松前藩の許可なく蝦夷地に入ってアイヌと交易すること
だけでなく、アイヌが独自に取引きをすることも認めませんでした。

 このため、既にアイヌの間に浸透していた酒・煙草といった習慣性のある嗜
好品だけでなく、米や鉄製品なしでは生活が成り立たなくなっていた(この時
代の)アイヌにとって、松前藩*以外*の和人との交易を禁じられることは生存
環境の悪化以外の何物でもなかった訳です

# もっとも、実際には日本海沿岸地方のアイヌは大陸と交易をしていた訳で
#すが。

 さて、アイヌとの交易の独占権を得た松前藩は、蝦夷地の各地に相次いで
「場所」と呼ばれるアイヌとの交易所を設置しました。この「場所」は年を追
うにつれて増え、しばらく後の寛政年間(注:1789年〜)には東蝦夷地に45個所、
西蝦夷地には43個所が設置されていた…とされています。そしてこれらの「場
所」からの収益こそが、領内に農地を持たない松前藩にとっては収入の殆どを
占める存在であった訳です。

 1660年代末になると、従来の重要な財源であった砂金の枯渇が表面化し、そ
れに加えて藩内の混乱で松前藩の財政が極度に悪化しました。この問題に対し
て、松前藩はアイヌ搾取の強化によって危機を乗り越えようとしました。

 これに対して、静内〜厚岸に至る大勢力を持つグループを率いていたシャク
シャインは、1669(寛文9)年に和人の追放を唱えて蜂起しました。これに対し
ては、猟場を巡ってシャクシャインのグループと長年対立していたグループか
らも呼応して蜂起する者が多くあり、(ほぼ)全道で松前藩の船が襲撃されまし
た。

 これに対して松前藩(と幕府)は「島原の乱の後では最大規模」とされる兵力
を投入して徹底的な弾圧を実施したため、この蜂起は(結果的には)アイヌの衰
退に拍車をかけた…と言えます。そしてこの蜂起の失敗でアイヌの和人に対す
る隷属は決定的となり、少なくとも和人に対する反抗の拠点となりうる砦、あ
るいはそれに似たものであるチャシの建設など不可能になったのではないか…
と、筆者は推定しています。


2.1.3 近世アイヌ文化

 現在、各地の資料館等で見られる「アイヌ文化」の殆どが、実はこの時代の
発祥と言われています。

 そしてこの時代は、和人との関係の善し悪しによってアイヌ社会の内部での
格差が拡大し、階層分化が進むと共に和人の横暴や疫病の蔓延でアイヌ人口自
体が急減し、全体として奴隷的な漁業労働者へと没落していった文字どおり受
難の時代と言えます。

 当初の「場所」での交易は、その「場所」の知行主〜藩主直轄の「場所」で
ある場合は藩主の代理〜であった上級藩士自らが、現地のアイヌの首長を表敬
訪問する形式で行われていました。しかし商売に不慣れな武士としては、アイ
ヌに渡す米や酒を調達するのも、あるいはアイヌから得た干鮭や昆布を売って
金にするのも城下の商人に頼らざるを得ず、しかもこの交易は商品相場の変動
による損失や、船の遭難といった危険が伴う取引きのため、実際には収益を上
げることは相当に難しかった…ようです。

# そして起こった藩財政の悪化をアイヌ搾取の強化で切り抜けようとした結
#果、シャクシャインの蜂起を招いた訳です。

 後の享保年間(注:1716年〜)になると、アイヌとの交易は「場所請負人」と
呼ばれる豪商の手に握られ、松前藩は「上乗役」と呼ばれる取引きの立会人
〜実際には最下級の武士である足軽が多かったとされる〜を派遣し、一定の
「運上金」を受け取るだけ…という形態になっていました。この民営化 :-)は、
おそらくは松前藩の、あるいは各「場所」の知行主である藩士の借金の抵当と
して認めさせられられたもの…と推定されています。

 さらに後の天明年間(注:1781〜)になると、本州以南での飢饉に伴う米価の
急騰を受けて、場所請負人の中にも窮迫する者が現われました。そしてこの状
況への「対策」として起こったのが、アイヌに対する搾取の強化でした。

 これに耐えかねた国後アイヌが蜂起したのが、1789(寛政元)年の「国後・目
梨の乱」です。しかし、この蜂起は主としてアイヌ側の足並みの乱れから広い
範囲には広がらず、松前藩とは一戦も交えることなく降伏してしまいました。

 ちょうど120年前のシャクシャインの蜂起の際には、多くのグループが〜場
合によっては大酋長の意向に反する形で〜独自の判断で蜂起に参加したのに対
し、この時は最初に蜂起した国後のグループに呼応したのは、古くから国後の
グループと交流があった目梨のグループだけ、両方あわせても僅かに200人程
であった…とされています。

 この蜂起がアイヌ全体に広まらなかった点に対する評価として様々なものが
可能ですが、この時代には厚岸や国後から多くのアイヌが日本・ロシアのどち
らの勢力も及んでいなかった択捉やウルップへ*自発的な*出稼ぎに行っており
(*2)、かつそれらのグループのリーダが蜂起したアイヌの説得にあたった…と
いう点を考えれば、もはやこの時代のアイヌは和人との交易なしでは社会が存
続できない状況であった…と考えられます。

  (*2)この後の時代になると、場所請負人によるアイヌの強制連行/強制労
   働が行われた訳ですが。

 さて、蜂起自体は失敗に終わったものの、この時期はロシアの千島列島への
南下が始まっていたために幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄とし、
同時に同地の場所請負も廃止して、(以前よりは :-))公正な「御救貿易」が行
われるようになりました。しかし西蝦夷地では、場所請負制度は実質的には1876
(明治9)年まで生き続けました。

 前述のとおり、蝦夷地との交易自体が本質的にハイリスク・ハイリターンな
「投機的」とも言える本質を持ったものであるがゆえに、19世紀に入ると場所
請負人同士の間でも「勝ち組・負け組」の差が顕著に現れ始め、幾つもの場所
を兼営する超・豪商が出現するようになりました。そしてこの時代になると
(労働力としての)アイヌの強制移住と、事実上の無報酬(*3)での強制労働が行
われるようになり、和人によって持ち込まれた疫病の流行と重なって民族とし
てのアイヌに決定的なダメージを与えた…と考えられています。

  (*3)屋外作業が不可能な厳冬期*以外*をずっと拘束して働かせておいて、
   その報酬では自らのコタンに帰る食料も得られなかった…とされている
   のですから、『無報酬』と言って差し支えないと思います。

 筆者は読んだことがないのですが、当時の探検家である松浦武四郎の著作
「久摺(くすり)日誌」「知床日誌」等に、この時代のアイヌの実状についての
報告が述べられている…そうです。


2.1.4 失われた土地

 1875(明治8)年5月の「千島樺太交換条約」によって(その時点での)日本とロ
シアの国境は確定した訳ですが、それと同時に従来は黙認されていた北千島と
カムチャッカとの往来が認められなくなりました。

 この時点でのカムチャッカには、海獣を追って北千島のアイヌ多数が入り込
んでいた…とされています。そして少なくとも条約の上では、千島・樺太地区
の先住民は自らの希望する国に移住できることになっていたのですが、カム
チャッカにいた彼らに引揚げの手が指し延べられたことも、彼らの希望を聴取
したことも(少なくとも記録の上では)見当たらず、北千島に遺された家族の声
だけが今に伝えられています。

 アイヌを見舞った災禍は、これに止まりませんでした。

 条約の結果ロシア領となった樺太からは、樺太アイヌの内で和人と共に日本
への帰属を希望した者の引揚げも行われました。

 引揚げた樺太アイヌの大多数は移住先として樺太と気候が似ており、故郷と
同様の生活が営める(ことが見込まれる)オホーツク海沿岸を希望した…とされ
ています。これに対して開拓使は「ロシア側との密通の恐れ」を理由にオホー
ツク海沿岸への居住を認めず、841人が石狩国対雁(注:現在の江別市)を強制移
住させられました。

 同じ道内とはいえ、気候の違いと間もなく襲った疫病〜天然痘とされていま
す〜の流行で、移住させられた樺太あいぬの多くが犠牲となりました。また、
この条約がもたらした悲劇はこれにとどまらず、1884(明治17)年になってから
北千島の占守島のアイヌが南千島の色丹島に強制移住されられる、という悲劇
も続きました。

 そして何と言っても最大の災禍となったのは、政府の土地政策でしょう。

 明治になってすぐに行われた「地租改正」そのものが

   1)私有地には税金をかける
   2)私有地以外は国有とする

という本質を持つものであり、しかも所有権と占有的使用権を一体化したもの
であったため、道外でも長年にわたって共同使用されてきた土地〜「入会地」
という〜が国有化され、住民の利用を認めなくなったために各地で大混乱を来
たしました。

 この政策が、もともと土地に対して「所有」という概念を持っていなかった
アイヌに降りかかった時、起こるのは

   「未登記による国有化」
   「国有地内での『密猟』という汚名と処罰」

であるのは、言うまでもありません。そしてその後に行われた開拓者への土地
払下げは、極言すれば

   政府が自ら盗品を売りつけた

のに等しい訳です。

 無論、実際に開拓に従事した人々の労苦を軽視する気はありませんが、筆者
が道内の各地で見られる「開基xx年」という表現に好感を持てないでいるの
は、こういう事情によります。

 アイヌのことを呼ぶ「旧土人」が官庁用語として登場したのは、開拓使の末
期である1876(明治11)年である…とされています。

 こういう呼び方を用いた反面、開拓使は和人猟師の鹿猟への規制や、アイヌ
への猟銃の貸与といった形で「それなり」の保護を行い、仮学校や農業伝習所
への受け入れといった形で和人社会との同化を目指したのですが、結果的に上
手く進んだとは言えません。というのも狩猟/漁労こそがアイヌ文化の本質で
あることを見失っていた以上、仕方のないことかもしれませんが。

 1876(明治11)年の冬には全道的な大雪で鹿が激減したのに加え、続く三県時
代の札幌県は資源保護のために十勝川の上〜中流の鮭が禁猟になったため、特
に十勝アイヌは困窮を極め、1882(明治17)年には多数の餓死者を出した…とさ
れています。

 この事態に対して札幌県では「旧土人救済方法」を制定して10年計画で農業
で定着させようとしましたが、この計画は三県の廃止と共に立ち消えとなりま
した。

 道庁成立後の1897(明治32)年に政府は「旧土人保護法」を制定して、アイヌ
の農民化を目指すことを決定しました。これは土地の「給付」と教育の実施を
骨子とするものでしたが、何と言っても与えられた土地は

   1戸あたり最大で5町歩(=4.96ha)

に過ぎませんでした。これに対して同時期の「北海道土地払下規則」では、和
人の入植者に対して

   1人あたり最大10万坪(=33.06ha)

が払い下げられたことを考え合わせれば、はたしてこれで『保護』の名に値す
るのかどうか、少なくとも筆者には疑問です。

 なお、同法は38年後の「改正」によって土地の給付は打ち切られ、1941(昭
和16)年の「国民学校令」によってアイヌ向けの教育も行われなくなったので
すが、法律そのものは1997年まで残り、廃止と共に制定された「アイヌ文化振
興法」でも『先住権』は明文化されませんでした。アイヌ民族の問題は、依然
として「今・そこにある」のです。


2.2 アイヌの周辺

 前章でも述べたように、アイヌ文化というのは外の世界と交流/影響を強く
受ける形で進んできました。ここでは

  - 松前藩前史
  - 松前藩小史
  - ロシアの東進政策

について考えます。


2.2.1 松前藩前史

 日本の(公式の)史書に最初に「蝦夷」という言葉が現われたのは、日本書紀
の斉明天皇4(658)年の項に見られる、阿部臣の遠征とされています。ちなみに、
最初の青函連絡船である「比羅夫丸」の元になった阿部比羅夫(あべのひらふ)
が戦ったのは粛慎(みしはせ)と呼ばれる相手であって、「蝦夷」あるいは「蝦
夷国」という言葉は記されておらず、むしろ粛慎は「陸奥の蝦夷」と敵対して
いた存在である…ようです。

 ちなみに「蝦夷」の読みとして『エゾ』が登場するのは平安時代末期からで、
それまでは『エミシ』と読み、「朝廷への敵対者」という意味を持つ言葉でし
た。

 したがって1051〜1062年の「前九年の役」で源頼義・義家に屈した阿部頼時
(よりとき)・貞任(さだとう)親子もレッキとした「蝦夷」であったことになり
ますが、少なくとも考古学や人類学が示す限り、当時の彼らの配下にあった地
域の人々がアイヌの祖…という訳ではありません。

 「公式の史書」で見る限り、9世紀初めの坂上田村麻呂(さかのうえのたむら
まろ)以来、奥羽の『エミシ』は連戦連敗であるかのように描かれていますが、
視点を変えれば何度「征伐」されても一定の期間が過ぎれば朝廷を脅かす水準
まで勢力を盛り返せるからこそ、衝突が繰り返されてきた訳です。何よりも平
安時代の末期、日本で平家に支配*されなかった*地は、奥羽から北だけであっ
た…ということは、見落としてはならないでしょう。

 鎌倉時代に入って(奥州)藤原氏が滅亡すると、それまでは出羽国の一部であっ
た津軽地方は陸奥国の一部とされ、津軽の一部と考えられていた蝦夷ヶ島も陸
奥国に属することになりました。

 (奥州)藤原氏と言えば「騙し討ち」にあって非業の最期を遂げた源義経の存
在を忘れることはできませんし、道内の各地には沿岸部を中心に彼に関する伝
承が遺されており、これを起源と称する神社もあちこちにあります。

 この説話ガ事実によって裏付けられれば面白いのですが、実際には起源を辿っ
て追って行っても江戸時代の初めまでしか辿れません。その一方で室町時代の
成立とされる御伽草紙(おとぎぞうし)には少年期の義経が『えぞがしま』に渡っ
て兵法を学び、その成果を用いて平家を打ち破った…という話が伝えられてい
るため、おそらくこれらの説話は和人の侵入が本格化した江戸時代になって、
アイヌのオキクルミ・サマイクルの神話と結びついて創作されたものである…
と考えるのが定説のようです。

 その後、前九年の役で敗れた阿部貞任の子孫を名乗り、津軽の土豪となって
いた安東氏が「蝦夷管領」を任ぜられました。一度は『謀叛人』とされながら
も、その商才と、一時は津軽から若狭に至る日本海沿岸を制圧した海上兵力に
は幕府も一目おかざるを得なかったようです。

 その後、鎌倉時代の末に安東家は「上国(かみのくに)家」と「下国(しもの
くに)家」分裂して「津軽大乱」と呼ばれる動乱期に突入し、15世紀半ばには
この混乱に乗じた隣の南部家の侵入に安東家は屈し、主な人々は蝦夷ヶ島に、
そして一部は分家筋を頼って土崎(注:現在の秋田県)に逃れました。

 津軽を逐われて蝦夷ヶ島に移った安東家および一門は、現在の函館市・上磯
町・木古内町・知内町・福島町・松前町・上ノ国町に、合わせて12の館を建て
ました。

 なお、ここでは「館」と書きましたが、この時代には現代の我々が「城」と
いう言葉で連想するような堀・石垣・天守閣の3点セット :-)を持った城郭は
本州にもなく、あるのは自然の地形を利用した「砦」か、あるいは普通の屋敷
に塀と堀、せいぜい櫓を持つ「館」だけでした。

# ただし、この時代に安東家が建てた「館」の中には、実際には「砦」とし
#か言いようがない物も含まれています。

 この狭い範囲に、これだけ密集して館を設けたということは、安東家の人々
が南部家の追撃を本気で警戒していたか、あるいは津軽の奪還を目指していた
か…のいずれかと考えるのが自然でしょう。

 前章で述べたコシャマインの蜂起(注:1457年)を制圧した武田信広に対して
和人社会での評価は高まり、武田信広は安東家の家臣であった蠣崎(かきざき)
家の養女を娶(めと)って蠣崎家を継ぎました。その後の15世紀の終わりには、
主家であった安東家も没落して蠣崎家に臣従するようになりました。渡島では
畿内に先駆けて「下克上」の時代となった訳です。

 なお後の松前家では、この武田信広をもって『初代』としています。

 さらに1514(永正11)年には、信広は出羽国にいた安東家の残党〜といっても
鎌倉時代以来の「蝦夷管領」家〜である安東尋季(ひろすえ)に働きかけて蠣崎
家を「蝦夷島代官」であることを認めさせ、これで以後の蠣崎家は蝦夷ヶ島に
おける和人社会の支配者であることを確立したことになります。


2.2.2 松前藩小史

 1590(天正18)年の「天下統一」に対して蠣崎慶広(よしひろ)は、名目上とは
いえ主家であった秋田(安東)実季(さねすえ)と共に上洛して豊臣秀吉に謁見し
ました。実質的には、この時点で蠣崎家が安東家の家臣*ではなく*独立の大名
として認められたことになります。

 続く1593(文禄2)年に蠣崎慶広は再び豊臣秀吉に謁見し、公式に「蝦夷島主」
であることを認められました。

 豊臣秀吉の死の直後にあたる1599(慶長4)年になると、蠣崎慶広は今度は徳
川家康に謁見して姓を「松前」に改めることを認められ、翌年には松前藩によ
るアイヌとの交易の独占を認められました。

 当時、領域内で米作が行われていないせいもあって、松前藩は「検地」の後
も石高(こくだか)が示さなかった唯一の藩ですが、将軍家での冠婚葬祭の際に
は1万石の藩に相当する負担を負わされることが通例だった…とされています。

 その一方で幕末の安政年間(注:1855〜)に蝦夷地を取り上げられた際には、
松前藩には補償として奥州梁川と出羽東根の合わせて3万石を与えられたのに
もかかわらず、当時の17代藩主の松前崇広(たかひろ)が(あくまでも)蝦夷地の
返還を願い続けた…とされる点から考えて、実際には蝦夷地の領有と交易の独
占には3万石を越えるメリットがあった…と考えられます。

 当初の松前藩では、福山(注:現在の松前町)の城下を中心に東西25里の範囲
を「松前地」、それ以外を「蝦夷地」としました。

# 「松前地」と「蝦夷地」の範囲については"2.1.2"を参照。

 漁民を主とする和人の居住は松前地だけに認め、本州以南と同様に村役人を
置いて五人組制度を敷いた…とされています。和人の蝦夷地への居住を認めな
かったことは(おそらく)アイヌの保護*ではなく*、交易の独占を確立するため
だと思われます。なお、後の1786(天明6)年の段階で松前地には76の村があり、
その内で32の村は藩主の直領とされました。

 松前藩の成立期になると、16世紀の半ばまでのようなアイヌと和人との衝突
が伝えられなくなるのは、おそらくこの時期には「松前地」からアイヌの勢力
が一掃されていたからではないか…と推定されますが、根拠はありません。

 松前藩では蝦夷地の各地に商場(あきないば)〜「場所」という〜を設け、ア
イヌとの交易を行うことにしました。上記の場所には藩主の直営のものと有力
家臣に経営が任されたものがあり、最盛期の寛政期(注:1789〜)には全道で藩
主直営が22箇所、家臣に任されたのが66箇所であったとされています。

 松前藩にとっては、アイヌとの交易の他にも鷹狩のための鷹のヒナの捕獲や、
砂金の採掘、そしてアスナロ/トウヒといった木材の伐採と販売も重要な収入
源でした。

 これらの内でも、特に砂金は産地が現在の羽幌(注:留萌支庁)や大樹(注:十
勝支庁)といった蝦夷地の奥深くにあったため、「金掘り人足」として本州以
南での取締まりを逃れたキリシタン多数が入り込んだ…とされています。

 当初はこれ見逃してきた(と思われる)松前藩は、砂金資源の枯渇が進むと態
度を改め、1639(寛永16)年には106人のキリシタンを処刑したとされています。

 17世紀半ばになると松前家中では、8代目の氏広(うじひろ)が20歳で藩主と
なって8年後に死去、9代目の高広(たかひろ)は6歳で藩主となって17年後に死
去と「偶然」と呼ぶには怪し過ぎる時代が続き、10代目の矩広(のりひろ)は7歳
で藩主となりました(注:シャクシャインの蜂起は矩広が11歳の時)。したがっ
て、この時代の松前家中では凄まじい権力闘争が続いていた筈であり、当然の
結果として財政は窮迫しました。

 これに対する「解決策」として家老の蠣崎広林(かきざきひろしげ)が行った
のがアイヌ搾取の強化であり、これに耐え兼ねて蜂起したのがシャクシャイン
であった…訳です。

 幸い?なことに矩広は55年にわたって藩主の座にあったものの、藩政改革の
実はあがらず、11代目の邦広(くにひろ)の代になって、漸く藩内の「改革」は
本格化しました。とはいっても実際には漁民への増税、流通統制の強化、「場
所」経営の商人への委託といったものが主であり、アイヌにとっては何のメリッ
トもなかった…と言っても過言ではないと思います。

 これに続く天明の飢饉による米価の急騰と、当時は大半がゼイタク品であっ
た蝦夷地での産品の価格低迷…といった事態にもかかわらず、松前藩は場所の
経営を委託した商人〜「場所請負人」と呼ばれた〜に対しては規定どおりの額
の運上金を求め、それを捻出するために場所請負人はアイヌへの搾取を強化し…
という形で抑圧は伝播しました。これに耐えかねた国後アイヌがシャクシャイ
ンの蜂起から120年ぶりに蜂起したのが「国後・目梨の乱」と呼ばれる事件で
す。

 こういう失政に加えて、ロシアの南下を受けて幕府は1799(寛政11)年に東蝦
夷地を松前藩から取り上げて直轄とし、場所請負制を廃止して(松前藩時代よ
りは公正な)「御救交易」を始めました。この処置の背景として、ロシア経由
でアイヌの間にキリスト教が浸透するのを恐れたため…とされています。

 続く1807(文化4)年には西蝦夷地も松前藩から取り上げて直轄としましたが、
こちらの場所請負は手付かずで残りました。

 そして1812(文化9)年には東蝦夷地でも場所請負制は復活しました。

 結果としては、この段階で場所請負制度を廃止*しなかった*ことが、後に場
所請負人の間での「勝ち組」と「負け組」の分裂をもたらし、多数の場所を抱
える強大な請負人は多数の季節労働者を必要とし、最終的には19世紀半ばに松
浦武四郎が記した斜里・紋別のアイヌに対する強制労働の遠因であった…と言
えるかもしれません。

 一方、従来の松前地と奥州梁川に領土が分けられていた松前藩は、度重なる
復領運動と国際情勢の変化を受けて、松前家14代目の章広(あきひろ)の時代で
ある1821(文政4)年に蝦夷地は松前藩に返還されました。

 この時代には全島が藩主の直領となりましたが、アイヌにとって状況は何ら
変わらなかった…ようです。

 1854(安政元)年の「日米和親条約」を受けて、幕府は今度は開港地である函
館(注:元々の「松前地」の一部)を直轄とし、さらに翌年には蝦夷地を再び直
轄に変えました。この結果、道内における松前藩の領地は当初の「松前地」を
大きく下回ることになりました。

 2度めの幕府直領時代には、蝦夷地は1859(安政6)年から秋田・庄内・津軽・
会津・仙台・南部の6藩で分割されて警備されることになり、それまでとは比
較にならない数の和人の侵入が起こりました。

 にもかかわらず、この時期は不思議なことにアイヌと和人との目立ったトラ
ブルは伝えられていません。

 これはおそらく、この時代に入り込んだ和人が交易目的*ではなかった*ので
アイヌと接触する〜というか騙す〜必要がなかったこと、そして1868(明治元)
年の「戊辰戦争」の勃発と共に東北6藩から派遣されていた将兵の殆どが引き
揚げてしまったため、アイヌとの接触が少なかった点が挙げられると思います。

 その戊辰戦争の中で、松前藩内では若手を主とした「正議隊」が決起して反
対派を倒し、新政府支持を表明しました。このため、東北諸藩のように「朝敵」
とされることはありませんでしたが、それでも幕臣・榎本武揚(えのもとたけ
あき)の率いる部隊の侵攻にあって領土を失い、18代目の藩主・徳広(のりひろ)
が避難先の津軽で間もなく死去したことで、松前藩は歴史から最終的に姿を消
しました。


2.2.3 ロシアの東進政策

 16〜17世紀の「海を制する者が世界を制する」という傾向の中で、ロマノフ
朝・ロシア〜面倒なので以下は単に「ロシア」〜の建国以来の悲願は

   「流氷に閉ざされない海への出口の確保」

でした。とは言っても西にはヨーロッパがあり、北は北極海…という状態では、
向かうことができるのは黒海、あるいはオホーツク海や日本海北部を含む北太
平洋…ということになります。そしてロシア軍は黒海をめぐって度々ウクライ
ナやペルシャ(注:当時)と衝突を繰り返し、その一方で一部は東に向かいまし
た。

 ここで「コサック」の存在に触れておく必要があると思います。

 トルコ語で『自由人』を意味する「カザーク」と呼ばれたコサックは、元々
は14世紀に領主の圧政に耐えかねた農民が南方の辺境地帯に逃れ、自衛のため
に武装したのが発祥…とされています。とはいえ、彼等が逃れた地に皇帝の威
令が及ばなかったのは、要するに「領土とする価値もない場所」だったからで
あり、彼等にとって決して安住の地とは言えませんでした。

 その一方で、彼等のロシア正教に対する忠誠は極めて強かったため、ロシア
帝国の首脳部は、安住できる地を求めて彷徨うコサックを

   「新たに占領した土地では『領主』として認める」
   「東方の異教徒にロシア正教を広めるのは、信者の崇高な使命である」

という物心両面から駆り立てて、東へと向かわせた訳です。

 そしてコサックは東へ向かった訳ですが、南下を図る度に先住のトルコ系の
ウイグル族やカザフ族、あるいはモンゴル族や満州族と衝突し、実際に得られ
た領土というのは、人口が極めて少ないために(比較的)抵抗が少なかった、シ
ベリアの森林地帯だけでした。

 こうして(後の)沿海州からカムチャッカに至るユーラシア大陸の東岸へと達
したロシアですが、得られた海岸はいずれも流氷に閉ざされる地であり、所期
の目的のためには更なる南下を必要としていました。

 とはいえ、西アジアでは無敵だったコサック騎兵も補給が届かずに自給自足
を強いられる〜ある意味では屯田兵の元祖ともいえる〜状況の中では、カム
チャッカや北千島の先住民を圧倒することはできても、南千島や北海道へと本
格的に侵攻することは出来ず、そこで打ち出されたのが威嚇と融和を併せた対
日接近でした。

 しかし、なにせ相手は鎖国していた日本なので情報収集は難しく、皇帝はオ
ホーツク長官に対して「アイヌへのキリスト教の布教による懐柔」と「越境者/
漂流者の保護と聴取」を命じた…とされています。また、17世紀の末にはペテ
ルブルグに「日本語学校」が設立されました。

 1778(安永7)年に最初のロシア使節がノッカマプ(注:現在の根室市)に来て通
商を希望しましたが、幕府は拒絶しました。

 その後、貨物を積んで江戸へ向かっていた「神昌丸」が嵐に遭って漂流し、
アリューシャン列島のアムトチカ島まで流されました。

 この海難の生存者はカムチャッカ半島からオホーツク、ヤクーツクを経由し
て、シベリア第一の都市であるイルクーツクまでたどりつき、ここで彼等はシ
ベリア総督による保護〜あるいは監視〜下におかれた訳です。この時代のイル
クーツクには当初ペテルブルクに建設された日本語学校が移転しており、当時
のロシアにおける日本研究の中心地であった訳です。

 帰国すれば(国禁を破っての渡航にあたるため)命の保障がないことが判って
いても、それでも帰国を願い続けた神昌丸の生存者である伊勢の大黒屋光太夫
と彼の同調者は、自然科学者のキリル・ラクスマンの助けを借りて、ペテルス
ブルクまで行って当時の皇帝・エカテリーナ2世に謁見し、帰国の許可を得る
ことに成功しました。おそらくロシア帝国政府には

   「自国民を送還に来た使節ならば、門前払いは出来ない筈」

という計算があったに違いありません。

 光太夫達はキリル・ラクスマンの子であるアダム・ラクスマンを代表とする
使節と共に軍艦エカテリーナ号で日本に向かいました。

 当時のオホーツク海沿岸のロシア領はオホーツク長官の支配下であったため、
エカテリーナ号は東蝦夷地の中心であり、オホーツクにも近いノッカマプに向
かいました。エカテリーナ号がノッカマプに着いたのは、国後・目梨でのアイ
ヌの蜂起の3年後にあたる1792(寛政4)年のことです。

 松前藩から報せを受けた幕府は宣諭使(せんゆし)を松前に派遣し、ラクスマ
ンと宣諭使は松前藩の本拠である福山(注:現在の松前町)で会見しましたが、
幕府は「国書は長崎でしか受け取れない」という理由で本格交渉を拒否し、使
節団は光太夫らを幕府に引き渡して帰還しました。幕府としては、国後・目梨
での蜂起の直後でもあり、国後の近くにロシア船を長期間留めおくことで、ア
イヌの中の「不穏分子」がロシアと接触する可能性を恐れた…のかもしれませ
ん。

# この後、幕府によって幽閉された光太夫を桂川甫周が訪ねて聞き書きした
#のが「北槎聞略」であり、後代に小説としてまとめられたのが「おろしや国
#酔夢譚」です。

 こういう背景があって、"3.b"で述べた1804(文化元)年のレザノフの長崎へ
の来航がある訳であり、そのレザノフは長崎で半年待たされた挙げ句に門前払
いを食らった訳ですから、少なくとも後世の目から見れば幕府の対外政策が
「無定見かつ無礼」であったという誹りは免れないと思います。

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