[2-5-3] 開拓期以降 Ver. 6.00

3. 私説・開拓史

 「開拓」という言葉にロマンを感じる方は多いと思います。特に初めて、そ
して観光客として北海道を訪れた方は、道内のあちこちにある記念碑や記念建
造物に、ドラマに描かれた英雄的な人々の姿を重ねて感動された方もおられる
かもしれません。

 ただ、大抵の物事と同じように、北海道開拓史にも「光」と「影」がありま
す。そして通りすがりの観光客の目に止まるのは、殆どの場合は「光」の部分
だけです。

 しかし、だからと言って殊更に「影」の部分にばかりこだわって告発調になっ
てしまうのも、当事者*ではない*者の行動としては必ずしも妥当とは言えない…
と筆者は思っています。どんな出来事にも原因があり、必然性があるのですか
ら、「光」は「光」と「影」は「影」と認めた上で、単に『誰が悪いのか』を
責めるのではなく、『なぜそうなったのか』を考えるのが、歴史を考える上で
あるべき姿ではないでしょうか。

 以下では通常の年表のように「出来事を起こった順番にひたすら並べる」と
いう構成は避け、以下の各点に焦点を当てる形で話を進めます。

  3.a 「内地」という言葉
  3.b 樺太(サハリン)・千島(クリル)の領有をめぐって
  3.c 屯田兵の話
  3.d 移民制度と土地
  3.e 教育について
  3.f 交通史を考える
  3.g 忘れてはいけないこと


 本章で述べる点についての事実関係〜when/where/who/what〜は、基本的に

   榎本守恵「北海道の歴史」(北海道新聞社)
   北海道歴史教育研究会「北海道の歴史散歩」(山川出版社)

の記載を元にしています。


3.a 「内地」という言葉

  道内に住む年配者の中には、道外の日本〜特に本州〜のことを『内地』と呼
ぶ人がいます。そしてこの言葉を裏返した

      北海道=外地(=植民地)

という意味に注目し、繰返し

      「道外を『内地』と呼ぶのをやめよう」

と唱えている識者もいます。

 今では既に(少なくとも法的地位において)北海道と他の都府県に差はなく、
「内地・外地」と言う言葉の本来の意味は失われていますが、1947(昭和22)年
に「地方自治法」が制定されるまで北海道は他の都府県と対等*でなく*、道内
の市町村は道外の市町村と権限において対等*でなかった*点は、記憶しておく
べきでしょう。

 なお、上記では一括して「道外」と書いてしまいましたが、正確に言えば廃
藩置県からアメリカ軍による占領までの「沖縄県」と、同県内の市町村も北海
道と同様の境遇でした。

 ここでは、明治維新から地方自治法の施行を受けるまでの期間における道内
での政治体制の変遷の概要について述べます。

        *

- 幻?の『蝦夷共和国』

  幕末になってロシアの南下に対応するため、松前藩と幕府との間で蝦夷地(*1)
の支配権が行ったり来たりした経緯については、別項(注:"3.b"ならびに"2.2.
2")に譲ります。

  (*1)渡島半島の南部を除く北海道本体 :-)と、周辺の島を含む地域に対す
   る江戸時代の呼称です。 詳しくは"2.1.2"を参照。

 1868(明治元)年に入ると共に始まった「戊辰戦争」の中で、8月には松前藩
内では若手を主とした「正議隊」が決起して反対派を倒し、新政府支持を表明
しました。

 これに対して幕臣である榎本武揚は艦隊を率いて江戸湾を脱走し、現在の茅
部郡森町の鷲の木に上陸するとともに南下を開始し、当時の道内としては唯一
最大(^^;の要衝であった箱館(注:現在の函館)を目指しました。

 これに先立つ幕末期の蝦夷地には、ロシアの侵入に備えて東北諸藩の将兵が
駐屯してしましたが、彼等は戊辰戦争の開始と共に相次いで帰国し、松前藩士
は数に優る榎本軍に抗しきれず、敗走を繰り返すことになりました。

 こうして榎本軍が箱館を占領したのは同年11月で、12月には榎本は『全道平
定』と『独立』を宣言しました。

 これから翌年5月の榎本軍の降伏までの期間を『蝦夷共和国』と認めるどう
か…については諸説あるのですが、列国は榎本政権に対して"Authoritiies de-
facto"である〜要するに領土と領民がいる〜こと*だけ*は認めたものの国交を
樹立しようとはせず、逆に榎本政権の『独立』宣言の直後に中央政府に対する
支持を表明している点から考えて、「独立は不成立」と考えるのが自然と思わ
れます。


- 開拓使時代

 榎本軍の降伏直後である1869(明治2)年7月には東京で政府内に「開拓使」が
設置され、同年の8月15日には渡島・後志・石狩・胆振・日高・天塩・十勝・
釧路・根室・北見・千島の11ヶ国86郡からなる『北海道』がスタートしました。
なお、1866(慶応2)年の協定で「日露共有」とされた樺太は北海道開拓使の直
轄領とされたため、この「11ヶ国86郡」には含まれていません。

 記録の上での初代の開拓使長官は前・佐賀藩主の鍋島直正(なべしまなおま
さ)なのですが、彼は2ヶ月で離任したために一度も道内に足を踏み入れてはい
ません。2代目の長官である東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は函館まで来ま
したが、実質的な開拓の指揮をとることはありませんでした。

 1870(明治3)年に開拓使次官となった黒田清隆(くろだきよたか)は、就任後
間もなく上司である東久世が転出して不在となったため、実質的な長官として
権勢を振るうようになりました。

 黒田には「現状を放置すれば数年で(北海道だけでなく)日本全体がは外国の
支配下に入ることを免れない」という危機感と、「自らの判断で政策を進めら
れれば、20年で北海道の開拓は完了する」という強烈な自負があり、欧米技術
の大胆な導入によって一気に開拓の実は挙がる…と考えていたようです。

 このように考える黒田が事実上の専制君主として君臨していた開拓使は、短
期間に数多くの国営企業を設立しましたが、実際には資金不足やインフラの軽
視、あるいは政商の暗躍といった問題が時間が経つにつれて深刻化し、10年近
く経っても黒田が期待したような成果は挙がりませんでした。

 そして政府内部の形勢が「開拓使の廃止やむなし」に傾いた時、おそらく自
らの理想とする『開拓』を続けるため…という理由で、黒田は多数の国有財産
を自らの息のかかった企業に格安の価格で払い下げようとしました。これが後
に「官有物払下げ事件」と呼ばれるようになった問題であり、ある意味ではこ
の問題こそが開拓使の廃止を決定づけたと言えます。


- 三県一局時代

 黒田の理想が先走って自滅した…ともいえる開拓使は1882(明治15)年2月に
廃止され、北海道は函館・札幌・根室の3県に分割されました。当時の函館県
は渡島・檜山地方、根室県が釧路・根室・北見・網走地方と千島列島、そして
札幌県が「残り全部」という分割であったため、襟裳岬と宗谷岬の双方、そし
て内陸の大半が札幌県に含まれていました。

 1883(明治16)年になると、屯田兵を除く殆どの官営事業は農商務省に新設さ
れた「北海道事業管理局」の配下におかれることになりました(注:当時の「県」
な内務省の下部組織)。このため、黒田の独断で決めることができた開拓使時
代には、数々の不正や疑惑を伴いながらも何とか進んでいた官営の開拓事業が、
この時代には内務省と農商務省の、問題によっては(屯田兵を掌握する)陸軍省
まで巻き込んだ権限争いで一気に停滞した…とされています。


- 「北海道庁」の成立

 政府としては上記の三県一局時代の停滞に懲りたのか、1886(明治19)年に三
県は廃止され、内務省の配下である「北海道庁」が発足しました。

 これによって権限は再び長官に集中した訳ですが、開拓使時代の失敗に鑑み
て、開拓の方針を「何でも官営」から「官は基盤整備に専念し、実務は民間に
任せる」というものに大転換し、積極的に道外資本の移入を図りました。この
結果、たとえば札幌の人口は三県時代の1885(明治18)年と比べて5年後には2.3
倍、同じ期間に全道の人口は1.5倍に増えた…とされています。

 しかし、後述する「拓殖計画」が実施されるまで続いた道庁の民間資本の導
入促進〜あるいは優遇〜策のもつ一面として、多くの土地が道外の不在地主の
所有となった…という点も挙げなくてはなりません。この結果、道内の農家に
占める自作農の割合は、1896(明治29)年の65%が1925(大正14)年には30%台に落
ち込み、これに加えて少なからぬ数の入殖者が開拓を断念して離農したために
農業人口は大幅に減少しました。


- (明治)憲法の陰で

 1890(明治23)年には東京で「帝国議会」が招集されましたが、北海道民には
(沖縄県民と同様に)選挙権も披選挙権も与えられず、道内では三権の全てが開
拓使以来の「戸長役場」に握られていました

 これを不満とする道民は小樽・札幌・函館の都市部を中心に粘り強く運動を
続け、ようやく衆議院議員については1899(明治32)年に小樽・札幌・函館の3
選挙区が設定され、続く1900(明治33)年には全道で17の「一級町村」が、1902
(明治35)年に62の「二級町村」が設置されました。

 しかし実際には一級町村でも(当時の道外の町村に比べて)裁量権は限定され
ており、二級町村では住民の公民権自体が認められていませんでした。しかも、
どちらにも属さない広大な地域では依然として戸長役場の支配下にあり、依然
として道庁長官が全権を持つ「植民地」であったと言えます。

 なお、戸長役場が廃止されたのは1924(大正13)年であり、一・二級町村制が
廃止されたのは、さらに遅れて1943(昭和18)年のことでした。しかしこれで道
外の町村と同格になった訳*ではなく*、政令や通達による自治への制限は1947
(昭和22)年の地方自治法まで残りました。

 衆議院議員の選挙権/被選挙権の付与に続く1901(明治34)年には、千島を含
む21区の代表からなる「道会」選挙が実施されたものの、これはあくまで長官
の諮問機関であって、長官の決定に対する拒否権も長官の不信任の権限もあり
ませんでした。

 この道会には、1922(大正11)年から道庁長官の建議に対する拒否権を有する
「参事会」が設置されるようになりましたが、それでも(沖縄を除く)他の都府
県とは別格〜というか格下〜扱いであることは同じでした。

  こういった点で、北海道は(今日の観点で見れば限定的ながら)少なくとも理
念のレベルでは「地方自治」を認めていた明治憲法の埒(らち)外に置かれた…
という意味で、法の支配が及ばない『植民地』であったということになります。

#  で、やっと冒頭の話に繋がる訳なのですが(^^;。

  繰返しになりますが、1947(昭和22)年の「地方自治法」までは北海道および
道内の市町村は、道外の都府県および市町村と同等の権限を持つことはなく、
「内地・外地」というのは観念の問題だけ*ではなく*、現実の問題でもあった
訳です。


3.b 樺太(サハリン)・千島(クリル)の領有をめぐって

- 探検期

 現存する記録の上では、先住民*以外*で最初に千島列島に到達したのは、1643
(寛永20)年に樺太とウルップ島に到達した、オランダ東インド会社のフリーズ
である…とされています。ちなみに彼は厚岸にも上陸していますが、日本側に
彼との接触の記録は残されていない…ようです。

# なお、厚岸には1640(寛永17)年にもオランダ船の寄港があったことが記録
#されています。

 フリーズは1643年の到達時に(現在の)ウルップ島の領有を「宣言」し、帰国
後にオランダで作られた地図(注:ただし極めて不正確)には択捉島やウルップ
島が載っています。これに対して日本側で作られた千島列島が載った地図は、
1700(元禄13)年に松前藩が幕府に提出した「元禄御国絵図」が最古…とされて
います。

 18世紀初頭には幕府の内部でも(経済的観点から)「蝦夷地開拓」を説く意見
が現れましたが、18世紀終わり頃までに幕府で考えられていた「開拓」という
のは、非人や無宿人を送り込んで江戸時代の初期で枯渇していた金銀の採掘を
させる…といった空想的〜あるいは非現実的〜なものであったのも事実です。

 その間にも1711(正徳元)年にはロシアが北千島のシムシュ島やパラムシル島
を占拠し、1739(元文4)年にはスパンベルグの探検隊が千島列島の地理の全貌
を解明していました。これに対して日本側の千島探検は、記録にある限り1785
(天明5)年に派遣された最上徳内の率いる一隊が最初とされています。

 その後の1792(寛政4)年にロシアのラクスマン、1796(寛政8)年にイギリスの
ブロートンの来航を受けて幕府は1798(寛政10)年に改めて探検隊を派遣し、択
捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てて領有を宣言した…とされています。

 そして今の日本政府は、この故事を「北方領土」領有の根拠(の一つ)として
掲げていますが、歴史的に見て間違いないのは「18世紀末の時点で択捉島をロ
シア帝国が実効支配していなかった」ということだけで、決して現地が無人島
だった訳でも、「初めて到達した非先住民が和人だった」という訳でもない…
という点だけは、ご記憶頂けると幸いです。

# 仮に『先に領有を宣言した』ことが領有の根拠となるのなら、少なくとも
#ウルップ島はオランダ領になってしまいますし、最初に『地理的な全容を解
#明した』ことが領有の根拠となるのなら、千島列島全体がロシア領であるこ
#とになってしまいます(^^;。


- 蝦夷地の直轄化と摩擦

 1799(寛政11)年には、幕府は松前藩から北海道のほぼ南半分に相当する「東
蝦夷地」(注:範囲については"2.1.2"を参照)を取り上げて幕府直轄とし、津軽/
南部の両藩に出兵を命じました。そして箱館〜現在の函館〜から根室に達する
陸路と、現在も各地に地名として残る「駅逓」が整備されたのは、この直轄時
代である…とされています。

 その一方、それまでの松前藩の統治が「蝦夷は蝦夷しだい」の放任を原則に
していたのに対し、ロシアからのキリスト教の侵入を恐れた幕府は1804(文化
元)年に有珠・様似・厚岸に寺を新設しました。そもそも元禄年間には幕府自
身が新たな寺の建設を禁止する措置を取っていた訳ですから、この一事をもっ
て幕府の慌てぶりが窺われます。

 同じ1804(文化元)年にはロシア皇帝の命を受けた使節のレザノフが国交を求
めて長崎に来航しましたが、彼は半年待たされた挙げ句に「門前払い」を食らっ
た…とされています。

 この帰路にレザノフは宗谷地方や樺太を探検し、蝦夷地の防備の手薄を知り
ました。1806(文化3)年から翌年にかけて、レザノフの命を受けた部下のフォ
ストフは樺太・択捉・利尻を襲いました。

 ただし、これはロシア帝国の政策の発動*ではなく*レザノフの個人的な遺恨
によるものとされ、フォストフ他は帰着先のカムチャッカでロシア官憲に処罰
されました。

 この事態に慌てた幕府は、松前藩領として残されていた「西蝦夷地」(注:範
囲については"2.1.2"を参照)も1807(文化4)年に取り上げて直轄とし、松前藩
は奥州梁川(注:現在の福島県内)に移されました。

 それとともに幕府は南部・津軽・秋田・庄内の4藩に出兵を命じたのですが、
この場当たり的な出兵で特に津軽藩士に多くの病没者を出したとされています
(注:この話については"3.c"を参照)。

 その後の1811(文化8)年には、千島列島の測量にやってきたゴローニン他が
上記のフォストフ等の起こした事件の報復として日本側に捕らえられる…とい
う事件も発生しました。

 この事件で両国間に緊張が高まったものの、国後−択捉間の航路の発見や箱
館発展の立役者であった豪商で、ロシア側からの信頼が篤かった高田屋嘉兵衛
が仲介に奔走した結果、1813(文化10)年にロシア側からシベリア総督・オホー
ツク長官連名の謝罪文が提出されることと引換えに両国関係は正常化され、ゴ
ローニンは釈放されました。

 そしてこの後の1821(文政4)年に、幕府は蝦夷地全体を松前藩に返還しまし
た。


- 「無二念打払令」(*2)の時代

  (*2)中学/高校の歴史の教科書では「外国船打払い令」となっていると思
   います。

 この時代には(ロシア以外にも)通商を求めて来航する外国船が相次いだため、
幕府は1825(文政8)年に「無二念打払令」を出して、来航する外国船に対する
先制攻撃を命じました。その一方で北海道の沿岸では「無二念打払令」に先立
つ1823(文政6)年、1825(文政8)年、1831(天保2)年、1832(天保3)年と『国籍不
明船』が出現や乗員の上陸が記録されており、中には松前藩兵と交戦した事例
もある…とされています。

 ちなみに、この時代の北太平洋では英米の捕鯨船(注:海賊対策のために武装
していた)も多数活動していたため、これらの不審船をロシア*だけ*と結び付
けることはできません。一方、これらの事件に続く1836(天保7)年と1843(天保
14)年にはロシアから相次いで漂流者が送還されてきており、松前藩とロシア
との関係に限って見れば、むしろゴローニン事件以前よりは良好だった…と言
えると思います。

 1853(嘉永6)年には江戸湾の浦賀に来航した米国のペリーに続いて、ロシア
のプチャーチンが長崎に来航し、49年前のレザノフに続いて国交樹立を迫った
のですが、再び却下されました。

 そして同じ頃、樺太南端近くの久春古丹でロシア兵による占拠事件が起こり
ました。この件を前記のレザノフ&フォストフの件から「国交樹立に失敗した
報復」と考えるのも理論上 :-)は可能なのですが、交通/通信手段が未発達で
あった当時のことですから、長崎で行われていた交渉の状況をカムチャッカで
知る術(すべ)はなかった筈です。したがってこの事件は、古今の国境未確定地
域に付き物 :-(の「実効支配圏」の確保を目指した行動…と考えるのが自然だ
と思います。

# 先年のボスニア内戦でも、和平交渉の期間中の方が戦闘が激しかったのを
#ご記憶の方も多いかと思います。

ちなみに、当時の樺太は先住民・ロシア人・和人が混住していたものの農耕や
定住は行われず、どこの統治も及んでいなかった…とされています。

 それでもロシア軍による久春古丹の占拠に対抗して松前藩が出兵したため、
最悪の場合には両国の全面衝突に発展する恐れもあったのですが、ロシアはヨー
ロッパで起こったクリミア戦争への対処を優先するために樺太から撤兵したた
め、この紛争の本格化は回避されました。


- 開港以後

 1854(安政元)年にプチャーチンは再び来航し、交渉の末に日露通好条約の締
結に至りました。

 この直後に幕府は開港地である箱館と、その付近を松前藩から取り上げて直
轄とし、その翌年には蝦夷地全体を(再び)松前藩から取り上げた上で、松前・
仙台・南部・津軽・秋田の各藩に分担警備させることになりました。松前藩に
は蝦夷地返上の補償として、奥州梁川と出羽東根の合わせて3万石が与えられ
ました。

 1860年代に入ると、再びロシアの南下は本格化しました。この背景には大陸
における清国との国境が1858(安政5)年に確定したため、ロシア側に余力 :-)
が出てきた…ということがあります。

 日露間の国境については、1862(文久2)年には日本側から「北緯50度線」(注:
樺太の中心付近)を国境とする案を提示しましたがロシアは受け入れず、翌年
にはロシア側から宗谷海峡を国境とする案が示されましたが、幕府は受け入れ
ませんでした。

 そして1866(慶応2)年から翌年にわたった交渉の結果、樺太は日露の『共有
地』となりました。

 この交渉の過程で再びロシア軍が樺太・久春古丹に迫り、仙台・会津・庄内・
秋田の各藩兵が出動するという一幕もありましたが、これとて交渉の最中に自
らの主張する「国境」まで支配域を広げようとした…という*だけ*のことであ
り、歴史的に見れば別に珍しいことではありません :-(。

 そして樺太の領有権の確定は、1875(明治8)年の「千島樺太交換条約」まで
持ち越されました。

 「国」の観点で見た場合には、国境の確定というのは(ある程度)不利な条件
を受け入れたとしても両国関係の安定に繋がるので望ましいことであるのです
が、「千島樺太交換条約」の陰では先住民に多くの悲劇が引き起こされました。
この点については"2.1.4"で述べたとおりです。


3.c 屯田兵の話

  読者の皆様には、「屯田兵」という言葉をご存じの方も多いと思います。要
するに日常は開拓に従事し、戦時には兵士となって従軍することを義務づけら
れていた移民のことす。

        *

- 幕府時代

  記録に残っている限り、現在の北海道に対して最初に「屯田兵」と呼べる者
が派遣されたのは、外国船が蝦夷地の周囲に出没するようになった1800(寛政12)
年に勇払(注:現在の苫小牧)等に入殖した「八王子千人同心」まで遡ります。

 ただし、この時は「千人」と言いながら実際に入殖したのは合わせて130人
ほどであり、しかも酷寒と疫病?のために最初の1年で19人が死亡し、さらに
病気帰郷者も続出したため、3年後に残ったのは85人であった…とされていま
す。

# なお、先祖伝来の土地を手放し、一族を挙げての移転…という例は殆どな
#く、次三男の単身移住が大多数だった…とされている点から見ても、この派
#遣の目的は「領土防衛」や「開拓」よりも単なる『口減らし』だった可能性
#もあります。

 この後、ロシアの千島への南下に対応するために東北地方の諸藩を動員した
のは、おそらく千人同心の教訓を顧みて、寒さに慣れている(筈の)諸藩の将兵
に期待したのでしょう。

 しかし実際の寒気は予想を遥かに越えるものであり、1807(文化4)年に斜里
に出陣した津軽藩士100人は最初の冬に85人が病死し、翌年の樺太への出陣で
は708人の内の119人が病死した…とされています。

  現時点では他の藩の犠牲については判りません。

 その後に本格化したロシアの南下に慌てた幕府は、1859(安政6)年に松前藩
から蝦夷地を取り上げて直轄とし、秋田・庄内・津軽・会津・仙台・南部の6
藩に開拓と防衛を命じました。この時には同時に江戸に住む旗本・御家人から
も入殖者を募ったようですが、おそらく江戸では千人同心の悲劇が広く伝わっ
ていたのでしょう。募集に応ずる者は殆どなかった…とされています。


- 第1期(仮称)

 明治維新の直後である1868(明治元)年に箱館(注:現在の函館)で、当時は日
露共有地であった樺太への移民を募集した例があり、これも入殖先を考えれば
屯田兵に相当するものであったと考えられます。

 また、翌年の「開拓使」の発足時にも東京府を通じて募集した移民を入殖さ
せたものの、これらが定着したという記録は残っていません。

#  したがって、早期に失敗→離散したと推定されます。

  開拓使としては、過去の失敗から「小人数を分散配置したのでは効果がない」
という点を考えるようになったのか、1874(明治7)年10月に「屯田兵例則」を
制定し、これに基づいて士族を募集しました。実際の入殖は、965人を1875(明
治8)年に琴似に、1174人を1876(明治9)年に琴似・発寒・山鼻に、それぞれ行
われました。この頃の入殖地がいずれも札幌近郊の平坦地なのは、軍事上の理
由というよりも、開拓への貢献を優先したためだと推定されます。

#  ちなみに現在の「琴似神社」の境内に当時の兵舎が保存されています。

 その直後である1877(明治10)年の西南戦争の際には、琴似・山鼻の屯田兵が
動員されて54人の戦死者を出した…とされています。医療が未発達な時代です
から、54人の戦死者と共に多数の〜おそらく数倍に及ぶ〜戦傷による身体障害
者が生まれた筈であり、開墾労働者としての屯田兵の価値は大きく下がったも
のと推定されます。

  また、西南戦争がもたらした『優秀な武器があって集団戦法が採れるならば、
平民出身の兵士でも士族に対抗できる』との教訓から、おそらく政府部内で屯
田兵の募集/支援に国費を費やすことへの非難が起こったのでしょう。西南戦
争の後で屯田兵の募集は中止されました。


- 第2期(仮称)

 1882(明治15)年に開拓使が廃止されて「三県一局」時代となると、士族の移
民は「移住士族取扱規則」に基づいて行われるようになりました。

 ちなみに、開拓使時代の屯田兵が(少なくとも制度上では)『本業は軍人。開
拓は片手間』であったのに対し、この時期の士族移民は『士族ではあっても軍
籍はなく、あくまで開拓者』であった点が異なります。

# ちなみに、この時代の道内は徴兵制の適用対象外でした。

 しかし、この「移住士族取扱規則」に基づく殖民政策は開始早々に躓いたよ
うで、1884(明治17)年になると西南戦争の時から中止されていた(本来の)屯田
兵の募集が再開され、1887(明治20)年以降は屯田兵の募集*だけ*が行われるよ
うになりました。

 ところで、開拓使時代の屯田兵は「開拓使直轄」であったためか、前記のと
おり任務としては防衛よりも開拓の成果を挙げることが優先されていたと思わ
れます。そしてこのことは、入殖地が海岸から離れた琴似や発寒であったこと
からも推定されます。

 これに対して、道庁発足後の屯田兵は陸軍省の管轄となったため、入殖先の
選定には「国防上の必要性」が優先されたのでしょう。営農の観点で見ると極
めて条件が悪い場所に入殖させられた例が珍しくありませんでした。特に輪西
(注:現在の室蘭市)、太田(注:現在の厚岸町)、和田(注:現在の根室市)などで
の開拓は困難を極め、当時の入殖者の殆どが屯田兵制度の廃止と共に離散し
た…とされています。

  そしてこの時期のもう一つの側面として、全道各地で道路や鉄道の建設への
囚人の動員が本格化した…という点があります(注:詳しくは"3.g"で触れます)。
こういった状況下で屯田兵の中には「警備」という名の囚人監視に動員され、
結果的に開拓の先駆者から、圧政への加担者へと不幸な転身を遂げてしまった
者も少なくありません。

#  この時代に道内の刑務施設に送られた「囚人」には、自由民権運動で投獄
#された政治犯も多かったので…。


- 第3期(仮称)

 1890(明治23)年からは屯田兵の募集に際して「士族に限る」という制限は撤
廃され、応募者は「平民」、それも郷里で稲作の経験を持つ農家の出身者が大
半を占めるようになりました。

 話は前後しますが、開拓使も(当初の)札幌農学校も道内での稲作には極めて
否定的でした。このため、基本的に官員〜今で言うなら国家公務員〜である屯
田兵の稲作は罰則付きで厳重に禁止されていました。しかし

    a)1892(明治25)年頃からの道庁の「稲作容認」への方針変更
    b)寒冷に強い新品種の稲の発見
    c)「直播法」といった新技術の登場

といった事態の中で、夏の気温が高い石狩・空知地方に配置された農家出身の
兵士の中から呼び寄せた家族に(こっそり)米作をさせ、しかも成功する…とい
う事例が相次いだため、次第に稲作は「兵村」と呼ばれた屯田兵の居住地から
周囲の開拓地へと拡大していった訳です。

 この後に起こった日清戦争(注:1896〜)に際しては、全道の屯田兵を主力と
した臨時第七師団が編成され、出征しました。なお、西南戦争と違って日清戦
争での戦没者の数は伝えられていません。

 ただ、後の日露戦争に参戦した野幌第二中隊の例で言えば、約200名が出動
して32名が戦死…という数字が残されており、西南戦争の頃に比べると兵器の
「発達」によって損耗率が格段に高くなったことが窺われます。

 また、負傷による廃疾者が死者と同数だとしても、3割を超す屯田兵の家庭
が働き手を失ったことが推定されます。ましてや「人手など、いくらあっても
足りない」開拓集落からこれだけの働き手が喪われたとすれば、以後は開拓ど
ころか集落の維持さえ不可能になった…のではないでしょうか。

  ところで、北海道は元々「徴兵令」の適用対象から外されていました。これ
は、おそらく開拓者の移入を促進するための優遇処置…だったと思われます。
また、1884(明治17)年に屯田兵の募集を再開したのも、徴兵制を導入しないま
まで必要な兵力を確保するための方策だった…と思われます。

  しかし内外の情勢の変化に遭って、政府は1896(明治29)年に道内への徴兵制
の導入と、第七師団が常設化を決定しました。これを受けて1899(明治32)年で
新たな屯田兵の募集/入殖は打ち切られ、1904(明治37)年には屯田兵という制
度そのものが廃止されました。

 この背景には前述の遺族援護の問題に加えて、日清/日露戦争の結果として、
もはや北海道が「前線」*ではなくなった*という点がある…と考えられます。


3.d 移民制度と土地

 北海道における農業移民の歴史というのは、以下の3期に分けて考えること
ができると思います。


- 団体移民の時代

 初期の移民の主力は、1871(明治4)年の廃藩置県によって地位と収入を失い、
「士族」という名前だけが残された旧・武士階級でした。

 この時代の移民は旧・主君を奉じて「お家再興」という意識で結束していた
グループが多かったようです。たとえば有珠郡に入殖して「亘理伊達家」と呼
ばれた伊達邦成の一党や、余市郡に入殖した旧・会津藩の一部、静内郡に入殖
した徳島藩の稲田邦直の一党などがあります。

 他にも山越郡八雲町の尾張徳川家、岩内郡の加賀前田家のように、旧・藩主
が失業した藩士の救済のために私費で土地を買って入殖させた例もあります。

 これに続いて現れたのが、同志の集合としての団体の入殖です。

 1880(明治13)年8月には、神戸で北海道開拓を目指す「赤心社」が発足し、
1881(明治14)年に54戸が浦河郡に、翌1882(明治15)年にも第2陣として約80人
が再び浦河郡に入殖しました。ちなみに同社の幹部は皆クリスチャンだった…
とされています。

 続く1881(明治14)年に発足した「晩成社」は、1883(明治16)年に13戸が下帯
広に入殖したものの2ヶ月で3戸が脱落したり、イナゴの被害にあったりして、
結局長続きしませんでした。「理想に走って現実を見ていなかった」というの
が、晩成社を語る際に使われる決まり文句となっています。

 話は前後しますが、行政の側では1882(明治15)年の北海道庁の発足と共に
「北海道土地払下規則」を制定し、1889(明治22)年から全道の原野で殖民地区
画事業が始められました。

# 「xx原野m線n号」という、あの地名が付されたのは、この時です。

この事業によって各地で入殖が進んだのも確かですが、一部の地域では本来な
らば先駆者であった開拓者が『無願』〜今で言えば「不法占拠」〜を理由に追
い出されるという不条理も生じた…とされています。また、この「原野」と呼
ばれる土地は、先住民であるアイヌにとっては原野であるがゆえに生活の基盤
であり、その開拓がアイヌを追い詰めて行った…という点も、忘れてはいけな
いと思います。


- 大地主の発生

 同じ1889(明治22)年10月には、雨竜原野の一角に5万町歩(注:約49600ha)を
占める「華族組合農場」が設立されました。しかし道庁の全面的なバックアッ
プにもかかわらず、この農場は3年で解散してしまいました。

 1897(明治30)年には「北海道国有未開地処分法」が公布されました。

 これ以前に有効であった北海道土地払下規則では(原則的に)

    - 1人10万坪まで・1000坪1円

の有償払下げであったのに対し、北海道国有未開地処分法では

  - 開墾目的ならば1人あたり150万坪まで、
  - 牧畜用は250万坪まで

という広さであり、しかも*無償*でした。このため、北海道土地払下規則が有
効であった11年間に比べて、北海道国有未開地処分法が制定されてからの11年
間で民間に払下げられた土地は3倍以上に達し、その相当部分が道外の不在地
主の物となった訳です。

# なんせ制度上は「無償」ではあっても、実際に誰に払い下げるか…は道庁
#が決定権を握っていましたから…(以下自粛(^^;)。

 1908(明治41)年になって北海道国有未開地処分法は改正されましたが、この
後も大地主への農地の集中は止まらなかったようで、前記のとおり1896(明治29)
年には道内の農家の65%を占めていた自作農が、1925(大正14)年には30%台に落
ち込んでしまいました。


- 拓殖計画の時代

 1910(明治43)年から、後に「第一期拓殖計画」と呼ばれることになる「拓殖
十五年計画」(注:実際には2年延長された)が開始されました。この計画には特
に道内への移住の促進策は含まれていなかったものの、この計画を通じて鉄道/
道路の整備が飛躍的に進んだため、開拓が奥地へと進んだのも事実です。

 1927(昭和2)年から、20年計画の「第二期拓殖計画」が開始されました。

 第二期拓殖計画を特徴づけるものに「許可移民」(あるいは「補助移民」)が
あります。

 これは1923(大正12)年の関東大震災の被災者の救済のため…という名分で予
算付けされたものです。多額の国費を投じる計画であるだけに、表向きは各都
府県に離散していた被災者の中から開拓者として有望な者を選抜して入殖させ
る…ということになっていたのですが、実際には農業経験に乏しい〜あるいは
全くない〜者が選ばれた場合も珍しくなく、しかも入殖地が気候の厳しい根釧
地方が主であったため、数多くの悲劇が生まれました。

 この許可移民の不振から停止していた公的支援付きの入殖は、第二次大戦の
敗戦直前になって、戦災に遭った人々を対象にした「疎開者戦力要項」によっ
て復活し、敗戦直後の1945(昭和20)年11月からは罹災者と海外からの引揚者を
対象とした「緊急開拓事業実施要項」として本格化しました。

 ちなみにこれは北海道だけを対象にした計画ではなかったのですが、道内に
限らず、この時期まで残されていた未開の土地というのは、元々「開拓の見込
みなし」と判断されていた土地か、あるいは先人が開拓を諦めた土地ばかりで
す。いかに制度面での支援が行われたとはいえ、農業のエキスパート*ではない*
入殖者の手に負えるものではなく、この時代の入殖者の殆どが早期に離農を余
儀なくされた…と言われています。

 結果論であることを承知で言えば、生活困窮者に僅かな補助を与えた*だけ*
で、本質的に膨大な資本と労力とを要する新規開墾をさせようという行政の発
想は、実質的には「棄民」としか呼びようがないものでした。そして、それに
もかかわらず努力と才覚とで定着に成功した数少ない人々の努力に対して、我々
はもっと敬意を払うべきでしょう。


3.e 教育について

 従来、北海道の開拓期の教育というと「札幌農学校」ばかりが注目されてき
た感がありますが、ここでは一歩下がった立場から考えてみたいと思います。


- 札幌農学校*以前*の時代

 ご存じの方も多いかと思いますが、実は札幌農学校は北海道最初の学校では
ありません。

 学校の機能の内で「知識を伝達する」という点に注目するならば、道内にお
ける最初の巨大なエポックとなったのは、幕末の開港直後の1856(安政3)年に、
幕府の直轄地となった箱館〜現在の函館〜に開設された「諸術調所」でしょう。
これ以前の道内にも寺子屋ぐらいはあった筈ですが、詳しいことは判りません。

 諸術調所は箱館奉行所の管轄下にあり、誰でも学べる…といったものではあ
りませんでしたが、道内における専門教育の発祥にあたることは間違いなく、
その功績として

  - 自ら建造した洋式船による海外渡航
  - 西洋式の築城である五稜郭
  - 家屋へのガラス窓やストーブの導入

といった様々な点での「日本初」を実現したことが挙げられます。

 明治維新を経て「開拓使」が設置された後の1871(明治4)年には、官吏の子
弟養成を目指す教育機関として「函館学校」や札幌の「資性学校」が設立され
ました。ちなみに同年の時点で、全道を合わせると107の私塾/寺子屋があった…
とされていますが、当時の和人の人口分布を考えれば、その大半が渡島南部に
集中していたものと推定されます。

 1872(明治5)年に施行された「学制」は、(少なくとも制度としては)『全国
一律』を目指すものでした。しかし実際には道内は「特例」とされたため、開
拓使が廃止された1882(明治15)年の時点での就学率で見ると、全国平均が49%
だったのに対し道内は31%に留まった…とされています。


- そして札幌農学校

 最初は東京に設置された「開拓使仮学校」は後に札幌に転じ、1876(明治9)
年9月に「札幌農学校」が開校しました。初代の教頭〜実質的には校長〜だっ
たのが、あまりにも有名なW.S.クラーク博士です。

# しかし彼が実際に札幌で指導にあたったのは正味で約8ヶ月間だけである
#ため、直に指導を受けたのは第1期生だけ…ということになります。

 しかし、クラーク自身も含めて1890年頃までの札幌農学校は、道内における
稲作に関しては、1860年代の先駆者の業績に目を向けず、一貫して否定的でし
た。したがって今の『上川百万石』と呼ばれる道内での稲作は、札幌農学校と
は無関係な一部の先駆的な研究者と、最後まで稲作を諦めなかった篤農家とが
生み出したもの…と言えると思います。

 なお、クラーク自身の演説によれば「良吏を養成する」ことを目標にした札
幌農学校では、開拓使長官〜したがって当時の北海道の盟主〜である黒田清隆
の抵抗を押し切って、キリスト教を全面に押し出した教育が行われました。こ
のため、16名の第1期生の全員と、第2期生の大半が敬虔なクリスチャンであっ
たのに対し、続く第3期生は全員が熱心な*反*クリスチャンであった…とされ
ています。

# これなどは、良い意味でも悪い意味でも「教育とはカリキュラムで行うも
#のではなく、教師自身の生き様で行うもの」という説を裏付ける好例かと思
#います。

 しかし、当時の道内の殆どを占めていた開拓地の住民にとってみれば、札幌
農学校がキリスト教精神に溢れていようと国粋主義の牙城だろうと関係なかっ
た…というのが現実だと思います。何と言っても人口が極めて希薄な上に、子
供であっても10歳ぐらいになれば「労力」として開墾に貢献することが期待さ
れ、しかも一部の都市*以外*では、徒歩と馬しか陸上交通手段がない…という
状況下では、正規の学校*ではない*私塾に教育の全てを委ね、それも出来ない
地域では「学校教育」と関わることなく成人してしまう者が出るのも仕方のな
いことでしょうから。


- 「拓殖精神」と、その後

 道内におけるの教育の問題が再び、そして全道的な意味で表面に出て来たの
は、1930年代に入ってからです。

 この背景には第一次大戦期の好況の反動で始まり、その後も延々と続いた不
況があります。

 この状況の中で道内への移住/定着は減少し、逆に道外への流出や道内で流
浪する者の数が増えていきました。この不況自体は別に北海道に限った訳では
なかったのですが、元々の経済基盤が弱いだけに影響が深刻だった訳です。

 この不況による農村の疲弊と、道内も含めて全国的に多発するようになった
「小作争議」や「労働争議」を不安視した政府は、1930(昭和5)年から全国的
に「郷土教育」を提唱するようになりました。

 これを精神面での支柱とする経済更生運動は(道外においては)「疲弊した共
同体の再興を目指したもの」とされていますが、元々の人口密度が極めて低い
うえに共有地が殆どないために強固な地縁が存在せず、入殖から期間が短いた
めに近隣での血縁も薄かった(当時の)道内では、最初から再興すべき「共同体」
など存在せず、そのために開拓からの離脱が容易であった…という言い方も可
能かもしれません。

 そしてこの「郷土教育」は、道内においては『拓殖精神』として語られるよ
うになりました。

 これは読んで字のごとく精神運動を主体としたものであり、はたして直面す
る現実に対する効果があったかどうか、筆者には疑問です。それどころか「郷
土の輝かしい開拓の歴史」を説くあまり、当時の子供に先住民であるアイヌに
対する差別意識を植え付ける「効果」をもたらした疑いまであります。

 そしてこの『拓殖精神』は、経済更生運動の行き詰まりから満州〜現在の中
国東北部〜の開拓がクローズ・アップされる頃になると、今度は『屯田精神』
と言い換えられるようになりました。

 結果論を承知で言えば『拓殖精神』にしろ『屯田精神』にしろ、多くの入殖
者の努力や犠牲にもかかわらず、現実を顧みない行政指導のせいで大した成果
が得られなかった明治以降の歴史の成功面*だけ*に着目し、それの精神面を過
大評価したものだった…訳です。

 その後、日本全体が破局へと向かう中で、道内の教育界でも「綴方教育連盟
事件」や「生活図画研究会事件」、「北海道農業研究会事件」といった思想弾
圧事件が続きました。ただ、この時代の唯一ともいえる美点として、

  - 1941(昭和16)年の「国民学校令」によって、道内の初等教育の水準が従
   来の簡便な植民地教育から道外と同じレベルまで引き上げられたこと
  - 中等教育を受けられない青年〜ただし男子のみ〜のための青年学校が、
   全道各地に作られたこと

を挙げておくべきでしょう。

# それでも多くの開拓地では、農繁期の度に国民学校を「家庭の事情」で何ヶ
#月も欠席する子供は後を絶たなかったようですが。


3.f 交通史を考える

 広大な北海道において、交通が発達するまでは「広さ」は入殖者にとって恩
恵であるよりも災厄でした。開拓使の官営工場の不振も晩成社の破綻も、交通/
輸送の問題を軽視(あるいは無視)した点に大きな要因があったと考えられます。
この章では、道内の交通の変遷史の概略を辿ってみたいと思います。


- 船の時代

 江戸時代の半ば過ぎにロシアとの関係が緊張し、幕府が松前藩から領地を取
り上げて箱館〜現在の函館〜から根室へと通じる道路が拓かれるまで、和人が
多くいた渡島半島南部を除いた道内には、ほとんど道はなかった…とされてい
ます。

 というのも、道内の陸地の殆どが原生林か原野であり、先住民であるアイヌ
は運搬手段として牛馬を用いず、和人の殆どが海岸に住んでいたため、誰も陸
路で大量の荷物を動かす必要がなかったのです。

 その一方で道内にいた和人はもとより、江戸時代の半ば以降は大半が奴隷的
な漁業労働者の地位に追い込まれていたアイヌも、本州から移入される米なし
では生活できなくなっており、陸路が発達するまで海運は文字どおりの「命綱」
でした。

 こうした中で、19世紀初頭から20世紀初頭まで広く使われた「北前船」〜あ
るいは弁財船〜は、沿岸沿いにしか航海できない帆船ではあったものの、波の
穏やかな季節さえ選べば、1回の航海で留萠・宗谷地方から日本海に沿って本
州を縦断し、下関から瀬戸内海、大阪を経て江戸まで達することができる船で
した。

# 蝦夷地→江戸の場合には明らかに東回りの方が近いのですが、三陸沖から
#房総まで黒潮に逆らって進むことになるので、沿岸ギリギリを航行できる小
#型船*以外*では航行が困難だった…と思われます。

 また、北前船が広く使われる前の18世紀前半から、嵐に遭って難破した船の
乗組員が数ヶ月にわたる漂流の後に外国船に救助される…という事例が幾つも
見られるようになりました。このことは、「鎖国のために外航が出来なかった
ため、技術が立ち遅れた」と決めつけられがちな当時の和船でも、耐久性にお
いて当時の世界水準に達していたことを示すものでしょう。

 とはいえ、千島・樺太の領有をめぐってロシアとの関係が緊張する中にあっ
ては、悪天候でも通行できる陸路の価値が見直され、前記のとおり幕府の直轄
時代に箱館〜後の函館〜から根室へと通ずる陸路が整備されました。

 もっとも、この時代の陸路は「整備された」とは言っても「徒歩か馬でしか
通れない険路」や「橋がなく、渡し舟しかない川」が多かったため、輸送の主
役が依然として船であったことは変わりません。


- 鉄道の登場

 1855(安政2)年の開港の後、外国船や在留外国人の間で燃料としての石炭の
需要が起こり、これに応えるべく幕府は翌年から釧路のオソツナイ、さらに翌
年には現・白糠郡白糠町のシリエト岬(注:後に「石炭岬」とも呼ばれた)での
石炭の採掘が始まりました。

 しかし白糠から箱館まで運ばれる過程での石炭の品質劣化が問題となったた
め、箱館の近くで炭田の探査が盛んに行われました。その結果、1864(元治元)
年からは現・岩内郡岩内町の「茅沼炭砿」での生産に移りました。

 続いて1868(明治元)年には、内陸の幌内(注:現・三笠市)に大規模な鉱脈が
発見されました。しかし幌内から海岸まで石炭を輸送するためには、途中にあ
る広大な湿地を越える必要があったため、本格的な開発は後回しにされました。

 その後も石炭への需要が増え続ける状況の下で幌内炭田の開発は再開され、
幌内−手宮(注:現・小樽市)の鉄道建設が計画されました。

 この鉄道の内で最初に完成したのは手宮−札幌で、開通は日本で3番目にあ
たる1880(明治13)年11月。続いて1881(明治14)年6月には札幌−江別の区間が、
1882(明治15)年11月には残りの江別−幌内が開通しました。

 なお、1881(明治14)年には樺戸(注:現在の月形町)に「集治監」と呼ばれる
刑務施設が設置されました。したがって難航が伝えられる江別−幌内の鉄道工
事には、相当数の囚人の動員と犠牲とがあったことが推定されます。

 そしてこの鉄道のもたらした最大の効果として、札幌と道外各地との往来が
函館を経由*しないで*可能になった…という点が挙げられます。

 鉄道開通までの小樽〜札幌間には張碓(注:小樽市)の断崖を越える陸路がな
かったため、小樽から札幌へ向かうには小船しか通れない石狩川を遡らねばな
らず、札幌への物流は函館−森−室蘭経由が主体でした。

 これに対して、鉄道開通後は小樽が札幌だけでなく、道央・道北への窓口と
も言える立場に立ちました。そしてこれは、道内経済の覇権を握る者が函館商
人から小樽商人へと変わった…ということでもありました。


- 完成期

 日清戦争で鉄道の価値を再認識した政府と道庁は、1896(明治29)年に「北海
道鉄道敷設法」を制定しました。これを受けて明治の終わりまでの期間だけで
も空知太(注:現在の岩見沢)−旭川−富良野−帯広−釧路、池田−野付牛(注:
現在の北見)−網走、深川−留萠といった区間が相次いで開通しました。これ
によって、1869(明治2)年の開拓使の発足時には郡同士の境界さえ定かでなかっ
た広大な内陸部も、本格的な開拓の対象となった訳です。

 ただし、この建設の過程で多数の労働者が「タコ部屋」と呼ばれた強制労働
の犠牲になったこと、そして開拓の内陸部への進行によって、それまで辛うじ
て存続してきた先住民族であるアイヌの社会や文化が決定的なダメージを被っ
た…という点を見落とすべきではありません。

# タコ部屋の問題については"3.g"で触れることにします。

 日露戦争後の1906(明治39)年に施行された「鉄道国有化法」によって、道内
を含む日本の主な鉄道は国有化されました。続く1908(明治41)年には、国営航
路としての青函連絡船が運航を開始しました。

 当初は車輌は乗せない小型船だったものの、当時としては最新鋭のタービン
船で、函館−青森の片道の所要時間が約4時間〜巡航速度で15ノット弱〜とい
うのは、現代の同規模の船と比べても見劣りしない水準であると言えます。

# その代わり、さぞ凄い乗り心地だったと思いますが(^^;。

 大正時代になっても国鉄の〜したがって国費による鉄道の〜路線拡大は続き、
その一方で「拓殖十五年計画」(注:"3.d"を参照)に基づく道路網の拡張が絶え
間なく行われました。

 逆に言えば「前年比増」を至上価値とする(悪い意味での :-))行政官の論理
によって計画が立案/実行されたために、この時代には営農の可能性の乏しい
地にまで「開拓地」の範囲が拡大されました。この結果、多額の国費を投じて
道路が建設され、入殖者へ補助が支出されたものの、数年を経ずして営農断念
に至る…という高度成長期まで続いた「挫折の歴史」の原形が確立したのが、
この拓殖計画の時代だった…とも言えます。

 それでも道路だけは残ったのですから、旅人である我々が文句を言う筋合い
ではない…のかもしれませんが(^^;。


3.g 忘れてはいけないこと

 以下は、非常に重い話になりますし、郷土資料館の類でこの問題について触
れている例は殆どないと思います。しかし、この問題も北海道の歴史を考える
際に避けて通ることは許されないことの1つである…と、少なくとも筆者は考
えています。

 読者の皆様の中には、明治時代の北海道の開拓に囚人が動員されたことをご
存じの方も多いかと思います。しかし、現在までに判っているだけでも、過去
に道内で行われてきた非人道的な強制労働は、囚人労働に限った訳だけではあ
りませんでした。

 ここでは道内での強制労働の問題の片鱗に触れてみたいと思います。

# ここでいう「強制労働」とは、とりあえず「本人の意志による離脱が不可
#能だった労働」を総称するものとします。

    *

- 集治監の時代

 明治期の北海道にだけ存在した刑務施設に「集治監」というものがあります。
これは開拓使時代の1879(明治12)年に伊藤博文の建議によって始まり、

  - 1881(明治14)年に樺戸(注:現在の月形町):目的は農業開拓
  - 1882(明治15)年に空知(注:現在の三笠市):目的は幌内炭坑での使役
  - 1885(明治18)年に釧路(注:現在の標茶町):目的は跡佐登硫黄鉱山での使役

が、設置されました。これらは「働かせること」を目的として造られた施設で
あるために囚人も強健な者が選抜され、結果的に明治初期から西南戦争まで続
いた士族の蜂起で「反乱軍」となった者達が多かった…とされています。

 しかしこの時代には、少なくとも「方針」のレベルでは、囚人の教誨/更生
と刑期満了時には『良民』として引き続き入殖させることを目指していたこと
が「救い」と言えないこともありません。

 それが急転したのは「北海道庁」の発足後のことです。

 開拓使時代には多数の官営工場が建設されましたが、その殆どが経営的には
失敗に終わりました。この原因を道庁は社会基盤の未整備に求め、さしあたっ
て札幌−北見−釧路の道路の確保を急務と考えました。

 そしてこの時代のもう一つの側面として、自由民権運動の活発化による「政
治犯」の増加があります。

 明治初めの士族の反乱には、その背景に「薩長の専横」としか言いようのな
い実態があったことは政府部内でも理解されており、反乱者に同情する意見も
根強くあったようです。これに対して自由民権運動は(当時の)権力者から見れ
ば理解不能な狂信思想であり、その信奉者である囚人は

   更生不可能であり、使い捨てて構わないもの

であった訳です。

 そして上記の札幌−北見−釧路の道路工事のために、1891(明治24)年にはルー
ト途中にある網走に釧路集治監の「網走外役所」(注:後の「網走監獄」)が設
置されました。そしてこの工事の中でも現在の石北峠を越えるルートは困難を
極め、動員された約2000人の囚人の内で、完成までに約240人が病気や事故の
犠牲になり、あるいは脱走を図って看守に殺された…とされています。

 なお、地元の口伝によれば「死んだ囚人は、そのまま道路の下に埋められた」
とされています。したがって現在の国道39号線は、その人々の墓標でもある訳
です。

 上記の道路建設に限らず、この時代に「外役」と呼ばれた刑務所外での労働
に従事させられた囚人は、たとえ病気になっても労働を(多少)軽減されただけ
で治療を受けることは出来ず、事故や病気で死んでも(元気だった頃に付けら
れた)脱走防止の鎖のまま埋められた…とされています。

 第二次大戦後の道路整備の際に、国道243号線沿いの数箇所で、このような
犠牲者の埋葬地が発見されたようですが、いずれも正確な場所は伝えられてい
ません。今はただ「鎖塚」(注)という言葉だけが、標茶あたりの古老の間に残っ
ているだけです。

  注: 酸性土壌のために遺骨も消滅し、ボロボロになった獄衣と鉄鎖だけが
   折り重なって発見されたので、こう呼ばれた

 なお、空知集治監の開設から廃止までの囚人の死者は累計で1067人、樺戸集
治監〜後の樺戸監獄〜での囚人の死者の累計は1046人とされています。釧路集
治監の死者の累計は伝えられていませんが、跡佐登での硫黄採掘は看守にまで
亜硫酸ガス中毒による殉職者を出した…という危険極まるものであったため、
囚人の犠牲は想像を絶するものであったと推定されます。


- タコ部屋の時代

 日清戦争(注:1896〜)の頃になると従来の囚人労働を「人道上の問題」とし
て、あるいは囚人労働に頼った開拓そのものが「『文明国』にふさわしくない」
という理由で政府部内で問題視されるようになり、徐々に道内の懲役囚に対す
る労働条件や待遇が道外の刑務所のものに近づけられるようになりました。

 しかし、それに代わって登場してきたのが「タコ部屋」と呼ばれた、民間企
業による強制労働でした。

 入殖者に対する保護と同時に監視も徹底していた開拓使の時代が終わり、今
ふうに言えば「自己責任」を強調する道庁の時代になると、道内では入殖した
ものの営農に失敗し、季節ごとに土木工事の現場を点々と移動する労働者が現
われました。

# 地方によっては「稼業人」と呼ばれたようです。

 そしてこれらの中には自らが働くだけでなく、同じ様な境遇の労働者を集め
て建設会社に派遣する業者も現われました。元・入殖者にしてみれば、人力に
よる開墾も(当時)の土木工事も労働強度において大した差はない訳ですから、
それはそれで「適材適所」だった…と言えなくもありません。

 その後、1900(明治33)年から始まった「北海道十年計画」、あるいは1910
(明治43)年から始まった「拓殖十五年計画」(注:後に「第一期拓殖計画」と呼
ばれた)と続く時代の中で、道内は「建設ラッシュ」と呼ぶべき様相となりま
した。そして、これに呼応して本州資本の建設会社が大挙して参入するように
なると、道内の労働需給も逼迫してきました。そしてそこに付け込む形で参入
してきたのが、本州で労働者を集めて道内の工事現場に斡旋する業者でした。

 無論、当時の法律の下では労働者の斡旋そのものに問題はなかったのですが、
問題は労働需給の逼迫を背景に「とにかく人数さえ揃えれば…」という理由で、
土木作業の経験のない者を騙し、高額の「前借金」を負わせて現場に送り込む
極めて悪質な斡旋業者が数多く現われたことでした。

 経験のある方ならご理解頂けると思いますが、土木作業における「生産性」
には大きな個人差があります。だからと言って労働者の数が揃わないと、工事
そのものができません。逆に労働者の数だけ集めても、工事が完成しなければ
業者の収益にはなりません。このため、現場では

  - 優秀な労働者は(それなり)に優遇する
  - そうでない労働者は徹底的に虐待し、恐怖心で働かせる

という慣習が横行するようになり、その結果として土木作業に不適応だった労
働者に多くの犠牲が出た訳です。

 そしてこの悪習は開拓期に特有のもの*ではなく*、道内に長く残りました。
記録によれば、最後に確認〜というか摘発〜された「タコ部屋労働」は、1947
(昭和22)年、札幌市真駒内でのアメリカ軍用施設の建設の際であった…とされ
ています。

 そしてこの約50年間の犠牲の全貌は、もはや誰にも判りません。

 手元にある例を1つだけ挙げれば、常呂郡留辺蘂町と紋別郡生田原町の間に
ある現在のJR石北本線・常紋トンネルの場合、地元の有志によって遺骨が収集
された分だけでも既に56柱、口伝によれば3年間の工事期間の犠牲者の合計は
200人に迫る…ともされています。

 地区によっては「事故死」を警察が取り扱ったり、地元の良心的な医師が検
案書を残した例もありますが、実際には現場の監督者によって殺害されたのに
記録の上では「病死」として処理されたり、あるいは記録の上では「退職」と
された例も多い筈です。

 そしておそらく、明治末〜第二次大戦の頃に建設された道路や鉄道の内、地
形的に建設が困難であった場所の殆ど全てに、こういった犠牲が伴っている筈
です。


- 戦時下の問題

 第二次大戦の敗色が濃くなると、道内の産業も労働力不足・資材不足・輸送
力低下のトリプルパンチを受けて生産力が落ちて来ました。そしてその一方で、
「決戦」に備えてオホーツク海の沿岸では相次いで飛行場の建設が始まりまし
た。

 ちなみに現在の中標津空港や自衛隊の計根別飛行場は当時の飛行場を拡張/
再利用したものであり、猿払村にあった旧・JR天北線の「飛行場前」も、これ
に由来するものです。

 なお道外の場合、飛行場建設のような(比較的)軽い工事は学生・生徒の勤労
動員で賄われた例が多いのですが、建設地が極端に人口希薄であった道内では
これらの建設にも上記の強制労働が伴った筈です。

 それとともにエネルギー資源の確保のために各地の炭坑では増産が強調され、
ダム工事も進められました。この問題については、たとえば

http://www2.justnet.ne.jp/~m_tukamoto/KYOSEI.HTM

のような研究報告がなされております。

 さて、前記のとおり「タコ部屋」の悪習が残っていた道内にこういった要件
が加わった時、労働力不足への「解決策」として採られたのは中国・朝鮮人、
そして連合国軍捕虜の強制労働でした。

 中国人ならびに連合国軍捕虜の場合は「敵性国人」という理由で動員数・死
者数・生存者数といったデータが憲兵隊によって収集/記録されましたが、韓
国・朝鮮人の場合は(法的には)「民間人と民間企業との雇用契約」という形を
取っていたため、現在でも総数さえ判りません。

 全道を平均すると、この時期に強制労働に従事させられた中国人労働者の死
亡率は18.7%とされていますが、室蘭における港湾荷役での

   就労者数1861人の内、死者564人

という事例もあるため、はたして「平均」に意味があるのか…という気もしま
す。

 さらに悪いことに、戦後の石炭産業の(事実上の)崩壊と、開拓困難地にあり
がちな人口流動の速さが災いして、現在ではこれらの問題に対するまとまった
記録はもとより、口伝さえも殆ど残っていないのが実情です。また、道内の開
拓困難地では

   「(戦時中の)配給制度で、それ以前より食生活が改善された」

などどいう笑えない実情も少なくないだけに、古老の中には「タコ部屋」を含
む強制労働の犠牲者に同情*しない*人がいるのも、残念ながら事実です。

# そういう人々が割合として「多い」か「少ない」かは判りませんが。

 ともあれ、

   明治から第二次大戦までの「開拓」の歴史というものは、少なくともそ
  の一面において強制労働の歴史でもあった

ということだけは、忘れてはいけないと思います。

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