[2-6-1] Ver 6.09 改訂:2003.06.09 ★★★★★★★★★★★★★ 北海道の鉄道跡 ★★★★★★★★★★★★★ ★★★ 検索エンジン等でこのページを直接ヒットされた方へ ★★★ いきなり文字ばかりでびっくりされたことと思います。本ページは北海道の 情報を満載したガイド「ほっかいどガイド」の2-6-1章です。お問い合わせ先 や転載の基準等は以下の「ほっかいどガイド」のページをご覧下さい。 http://www.hokkaid.org/ なお、掲載路線・駅跡などの項目数は100以上に及びますが、各項目へのジ ャンプ機能は持っておりません。大変お手数ですが、「はじめに」の後の目次 をご参照の上、スクロールにてお進み下さい。 ★★★ はじめに ★★★ この章はメーリングリストのメンバーによる文献調査、実地調査の集大成で す。非常に長いです。以下のようにご覧下さい。 ・北海道における鉄道考古学研究(笑)の経験が乏しい方 → とりあえず第1章からご覧ください。 ・戦前を含めて国有線として建設された路線、 および買収された後に国鉄線として終焉を迎えた路線 → 第5章をご覧ください。 ・北海道特有の軽便鉄道である殖民軌道/簡易軌道 → 第6章をご覧ください。 ・国有/民有を問わず、奥地で伐採された木材の搬出を目的として建設された 森林鉄道 → 第7章をご覧ください。 ・これらに属さない通常の私営鉄道や(炭礦を含む)鉱山の専用鉄道 → 第8章をご覧ください。 ・各地で保存されている蒸気機関車(以下ではSL)の内で、メンバーが実際に 訪れて確かめたものの情報 → 第9章をご覧ください。 各章は先頭が「★★★★★」の行で始まっています。また、個別の路線の 記事は先頭が「★★」の行で始まっていますので、検索の際にご利用下さい。 なおご覧頂けばお判りのように、存在のみ確認されていて何の情報も得られ ていない路線が多数あります。読者の皆様のご支援/ご協力をお願い致します。 ★★★★★★★★★★★★★★★ 目次 ★★★★★★★★★★★★★★★ 1.鉄道考古学への誘い 2.鉄道考古学必需品 3.鉄道考古学に適した時期 4.北海道鉄道事始と手宮線跡 5.旧国鉄/JR北海道 5.1 廃止路線(あいうえお順) 相生線、 胆振線、 岩内線、 歌志内線、 興浜北線、 興浜南線、 根北線、 標津線、 士幌線、 渚滑線、 白糠線、 深名線、 瀬棚線、 手宮線、 天北線、 富内線、 名寄本線、 函館本線・旭川大町支線、 函館本線・上砂川支線、 羽幌線、 美幸線、 美幸線・興浜線延長計画区間、 広尾線、 幌内線、 松前線、 万字線、 湧網線 5.2 廃止区間、駅(あいうえお順) 札沼線 ・新十津川−石狩沼田、 石北本線・北旭川−南永山、天幕駅、中越駅、奥白滝駅 釧網本線・網走−鱒浦 宗谷本線・神路駅、稚内−稚内桟橋 千歳線 ・北広島−苗穂 根室本線・狩勝峠越え旧線、野花南−島の下、金山−東鹿越、 釧路−天寧→東釧路−天寧、釧路−浜釧路、厚岸−浜厚岸、 根室−根室 函館本線・上目名駅、石狩川鉄橋、近文−納内、桑園−札幌市場、 小樽築港−浜小樽、美唄−南美唄 日高本線・苫小牧−勇払 室蘭本線・覆道崩落跡、岩見沢−志文、室蘭−西室蘭、豊浦−大岸 夕張線 ・紅葉山−登川 6.殖民軌道 6.1 データバンク(エリアコード順) 真狩線、当別線、貫気別線、居辺線、弟子屈線、知安別線、阿歴内線、 久著呂線、標茶線(2次)→標茶町営軌道、 雪裡線・幌呂線→鶴居村営軌道、 茶内線・若松線・円朱別線→浜中町営軌道、仁々志別線、 計根別線・標茶線(1次)、 根室線(1次)、 根室線(2次)、 矢臼別線、 風蓮線→別海町営軌道、 忠類線、中春別線・上春別線・西別線・春別線、虹別線、養老牛線、 藻琴線→東藻琴村営軌道、斜里線、雄武線、 枝幸線・本幌別線・幌別線・歌登線→歌登村営軌道、 問寒別線→幌延町営軌道、沼川線・幌延線・幌沼線、勇知線、仁宇布線 6.2 調査報告 別海町の殖民軌道、東藻琴村営軌道、歌登村営軌道、関連ホームページ 6.3 保存車両 7.森林軌道 7.1 データバンク(エリアコード順) 早来軌道、 三井物産専用鉄道苫小牧軽便鉄道、 王子軽便鉄道(山線)、 幾春別森林鉄道、 主夕張森林鉄道、 下夕張森林鉄道/夕張岳森林軌道、 遠幌加別森林軌道、芦別森林鉄道、定山渓森林鉄道、漁(後の恵庭)森林軌道、 千歳鉱山美笛鉱業所専用軌道、落合森林鉄道、幾寅森林軌道、金山森林鉄道、 東京帝国大学農学部付属北海道演習林森林軌道、日高拓殖鉄道、 沙流鉄道、 層雲峡森林鉄道、 陸別・斗満森林鉄道、 足寄森林鉄道、 音更森林鉄道、 王子製紙十勝上川運材軌道/十勝上川森林鉄道、 上札鶴森林鉄道、 上尾幌森林軌道、 森林軌渚滑(後の濁川)森林鉄道、 武利森林鉄道、 (上)生田原森林鉄道、温根湯森林鉄道、岸尾木材店運材軌道、置戸森林鉄道、 津別森林鉄道、 羽幌森林鉄道、 古丹別森林鉄道、 達布(小平)森林鉄道、 ウツナイ(宇津内)森林軌道、 美深森林鉄道(仁宇布殖民軌道)、 珊瑠(下川)森林鉄道、奥名寄森林鉄道、士別軌道、 士別(天塩岳)森林鉄道 7.2 調査・研究報告 関連ホームページ、 王子軽便鉄道(山線)、 落合森林鉄道、上札鶴森林鉄道、 (上)生田原森林鉄道 8.その他の鉄道 8.1 道内に存在した私鉄(データ編) 8.2 道内の専用線(データ編) 8.3 調査報告 寿都鉄道、定山渓鉄道、三井砿山奈井江専用鉄道、美流渡・北星炭砿線、 赤平炭坑(跡)、三井芦別鉄道、 美唄鉄道、 夕張鉄道、 北海道炭砿汽船真谷地専用鉄道、三菱大夕張炭砿鉄道、 旭川電気軌道、 十勝鉄道、 北海道拓殖鉄道、 雄別炭坑鉄道、 雄別炭砿尺別鉄道、 明治鉱山西庶路鉱業所・本岐炭砿専用鉄道、 留萠鉄道、 天塩炭砿鉄道、 羽幌炭砿鉄道、 日曹炭砿専用線、 根室本線御影駅の採石場線 根室本線・帯広駅−自衛隊駐屯地、 根室本線利別駅の軍用路線 小清水町の鉄道史(北見鉄道と小清水軌道)、 小清水の軍用飛行場用鉄道 9.博物館、資料館、保存SL(エリアコード順) 室蘭駅旧駅舎、 追分鉄道資料館、 鵡川町・汐見の資材置場?、 岩見沢市・みなみ公園、 岩見沢市・朝日駅跡、 三笠市・三笠鉄道記念館、 美唄鉄道・東明駅跡、小樽交通記念館、美瑛・中町公園、富良野市・文化会館、 平取町・R237沿い、 平取町・振内鉄道記念館、 日高町・ひだか高原荘、 帯広市愛国町・愛国鉄道記念館、 大樹町・柏林公園、 鹿追町・鹿追駅跡、 音更町・大通交通公園、釧路市・幸町公園、阿寒町・雄鶴、中標津町・郷土館、 標津町・文化ホール、 別海町・別海町鉄道記念館、 留辺蕊ユース前、 湧別町・計呂地交通公園、 佐呂間町・佐呂間交通公園、 網走市・卯原内鉄道資料館、 中頓別町・寿公園、 名寄公園&北国博物館、 未確認だが健在であることが予想されるもの、 安否不明 10. 参考図書 ★★★★★ 1 鉄道考古学への誘い ★★★★★ 旅の一ジャンルとして「鉄道考古学」とか「廃線探訪」とか呼ばれる旅が定 着してきました。廃墟や古い車輌を発見した時にちょっとした感慨を感じるの はなかなか楽しいものです。 北海道の鉄道関連の遺跡を大きく分けると、 - 旧国鉄/JR北海道の路線 - それ以外の路線 ということになります。 ★1.1 旧国鉄/JR北海道の路線 道内では第2次大戦の頃まで「国防上の利便」「開拓の促進」の両面から 鉄道建設が進められ、戦後は「復興の源」「食料の確保」という目的で引き続 き建設が続けられました。 ところが1960年代の経済成長の中で石炭から石油へのエネルギー転換が進む のと同時に道路整備も進み、一部の都市圏を除けば人口希薄な道内では、大量 輸送を行ってこそ意味がある鉄道の存立基盤は、急速に危うくなりました。 そして道内のローカル線/亜幹線の命運を決したのが、公共企業体であった 国鉄の分割・民営化でした。それまではごく例外的にしか起こらなかった路線 の廃止が全道で相次ぎ、今では「大正時代なみ」と言われるまでに減りました。 ただし、この区分に属する路線の多くは1980年代前半までは生きていたため に資料も豊富で、遺跡を訪れるのも比較的容易です。第5章では、これらの内 でメーリングリストのメンバが訪れたことがある路線を中心に述べます。 ★1.2 国鉄以外の鉄道 今の北海道ではJR以外の鉄道は札幌の地下鉄や札幌/函館の市電ぐらいしか 残っていませんが、道路が未発達の時代の鉄道は文字どおり陸上交通の希望の 星であり、町と町を結ぶ動脈である国鉄線に接続する形で至る所に民間企業や 道庁や戦前の帝室林野局/戦後の林野庁によって敷設/運行される鉄道がありま した。これらの鉄道は、最初から人間よりも貨物の輸送に重点が置かれたのが 特徴といえます。というのも、開拓期以降の道内は穀物や木材、あるいは石炭 を始めとする鉱物の産地として期待されていたため、大量輸送のできる陸上輸 送機関がどうしても必要だったからです。 これらの路線の中には、変遷を経て国鉄線に格上げされたものもあります。 しかし、これらの路線も当時の国鉄線と同様に道路の整備の促進と石炭産業の 斜陽化の影響を受け、1970年代までに殆どが姿を消しました。 これらの鉄道の遺跡は風化が進んでいるものが多く、炭礦の閉山や今も続く 離農のために往時を知る人々の離散も進んでいます。これらの鉄道については 第6〜8章で集中的に取り上げます。 ★1.3 その他 道内には上記のような「ちゃんとした」鉄道以外にも、以下のような鉄道が ありました。 - 線路付け替え跡 峠越えや川沿いなどで、勾配やカーブのきつい路線を、技術の進歩と共 にトンネルなどに付け替えた後、放置された残骸。 - 軍用線 旧日本軍が建設/使用していた、駐屯地や軍事施設への引込線など。 - 工場内専用線(の跡) 工場や鉱山の構内/坑内に建設され、他の鉄道と連絡していなかった鉄道。 ★★★★★ 2 鉄道考古学必需品 ★★★★★ 朽ち果てた建物、背丈を超える草、すでに失われた道をたどり、埋もれた廃 墟を訪ねる方法は容易ではありません。その必需品とは…。 ★2.1 古地図 何と言っても地図にまさる手がかりはありません。古いドライブ地図も役に立 ちますが、地図と言えば国土地理院。国土地理院のサイトにある http://www.gsi-mc.go.jp/MAP/HISTORY/5-25/index.html から順次操作していくと「5万、2.5万分1地形図図歴」というページに移動する ようになっており、そこから図名をクリックすると該当図の図歴(注:それぞれに 地図が作成/修正/発行された日付のこと)が出てきます。このサイトから通信販 売で購入できますが、地図の改廃は実際の路線の改廃から遅れるのが常ですので、 知りたい路線がどの図番に載っているかは推定するしかありません。有名なとこ ろでは、糠平ダムに沈む前の士幌線の旧線はどの図にも載っていません。ですの で、国土地理院に出向いて閲覧した上で購入する方がベターと言えるでしょう。 閲覧場所、日時等も全て上記サイトに載っています。直接購入、通販とも1枚500 円(2002年4月現在)です。編者は東京の合同庁舎を何回か利用していますが、い つも検索方法、購入方法など親切に対応してくれます。 なお、最新の国土地理院地図は本屋さんで購入する他、日本地図センター http://www.jmc.or.jp で通信販売しています。 また古い地図の常ですが、戦前は航空測量を行わずに地図が作成されたため、 極論すれば「信用できるのは三角点の位置だけ」です。山深い場所だと尾根の 数が実際と合わないことも多いです。昭和30年代に発行された地図でも戦前 のデータを流用して作成している場合があり、図歴には細心の注意を要します。 こういう事情があるため、厳密な地図を求めるには所轄官庁に提出された文 書と、現地を管轄している法務局にある公図や登記簿との照合が必要となりま す。一般の乗客や貨物を運ぶ鉄道、あるいは国鉄線との相互乗り入れを行う鉄 道については、建設に際して行われた土地の測量図面が鉄道省(現在の国土交 通省)に提出されています。このため戦災で焼失していない限り、国土交通省 か、古いものなら東京・竹橋の国立公文書館に残っている筈です。 これに対して上記に該当しない工場や鉱山の専用鉄道の場合は公的記録に載 らなかった場合もあり、これらは廃業→会社の解散から年数が経つと殆どの資 料が散逸してしまうため、今となってはキロ数やルートといった基本的な情報 さえ判らなくなっている場合が珍しくありません。 ★2.2 情報収集力 ある程度の地図を手にしたら、いわゆる「地元の古老」に突撃インタビュー して聞いてみましょう。当地の博物館や郷土館の学芸員さん、観光案内所とか、 廃止区間を走るバスの運転手さんなども頼りになります。訊くときは、何で調 べているのかきちんと説明しましょう。嬉しく思ってくれたらいいのですが、 いきなり見ず知らずの人に訊かれて、警戒されてしまう場合もあります。 訊くのが恥ずかしい場合は図書館で郷土史を読みましょう。北海道は開拓50年 や100年などの節目に市町村史を発行するのが盛んなので、図書館には近隣自 治体の郷土史の本が置いてあります。これらがない地では、公民館が意外と (失礼)頼りになります。 ★2.3 歩きやすい靴 ソフトが揃ったら今度は必需ギア。相手は廃墟です。何が落ちてるか、何が 落ちてくるかわかりません。機敏に動ける格好を心がけましょう。冬はクロス カントリー(XC)スキーなども威力を発揮します。 # 無論、自分の足の延長として自由に取り回せないと逆効果ですが^^; ★2.4 露出度の少ない服 廃墟には旧国鉄の「鉄道記念公園」のようなライトなものから、朽ち果て忘 れ去られたヘビーなものまでいろいろあります。 ライトな方の調査なら観光する服装でいいのですが、ヘビーな方の調査、特 に夏の調査では草ぼうぼうの荒れ地を踏み分けることが多いです。葉っぱの縁 って意外と鋭くて切り傷になることがあります。また、藪蚊も多いし、足場が 悪いですから転びやすい。長袖にズボンが無難です。 ★2.5 危険度認識力 廃墟は危険がつきものです。メンテナンスなんてされてませんから、常に危 険と隣り合わせであることを肝に銘じて下さい。何が起こるかわかりません。 危険なもの(釘、ガラスなど)を踏んだり、危険なものが落ちてきたり、危険な 動物(熊、蛇、蚊など)が現れたりすることもあるでしょう。 また、トンネルや橋などは崩落の危険がありますので、たとえ閉鎖されて いなくても絶対に立ち入らないで下さい。 冬から春先の山間部では雪崩にも注意が必要です。 ★2.6 勘と経験 駅のあった場所というのは近くの国道や道道を走っていると「気配」がちゃ んとあります。特に比較的最近まで残っていた旧国鉄の場合は。 それまで畑や山林だった所からだんだん(あるいは急に)人家が増えだし、い ちばん賑やかそうになった所に信号のある十字路やT字路があり、その交差点 には必ず商店や郵便局があり、その交差点を曲がれば数十mで正面が駅…。 2.5万〜25万分の1の地図ぐらいしか持っていないと、駅の場所の特定まで はできないのですが、「この集落のこの道路の右(or左)側にあった筈」という ところまでわかればかなり高い確率で駅跡に巡り会えます。 このように市街地の中にある駅跡が(比較的)判りやすいのに対して、同じ平 地でも畑や牧草地を横切っていた線路跡を探すのは極めて困難です。というの も、積雪地における市街*以外*の場所の鉄道は、除雪の都合や融雪期の冠水を 避けるために周囲の地表よりも高い盛土の上に建設されるのか、あるいは幅広 い流雪溝に沿って建設されるのが常であり、どちらの場合も周囲の畑や牧草地 の持ち主から見れば廃線跡の盛土は「邪魔物」でしかない訳で、線路跡地が払 い下げられればすぐに壊されて整地されてしまうからなのです。 # 余談ながら土木業界では「盛土」と書いて「もりど」と読むのが通例です。 このため、遺構が残る可能性が高いのは - 鉄道廃止前に耕作が放棄されたり、元々開墾されなかった原野 - 流雪溝が用水路を兼ねている区間 - 鉄道の渡河地点の周辺 - 線路が広い道路に隣接していた区間 ぐらいに限られます。 鉄道橋は渡河地点に残りやすい一方、幅が狭くて道路橋への転用が難しく、 また河川敷に立っていた橋脚は流れを妨げるので「洪水予防のため」という理 由で撤去される場合も多くあります。 一方、山間地や起伏の大きな場所では遺構は比較的長く残る傾向があります。 鉄道は自動車に比べて急勾配を嫌う反面、線路は車道に比べると幅が狭いと いう特徴があります。また、鉄道が盛んに建設された時代には(近年と比べて) 架橋費用が相対的に高価だったため、「橋を短くするためには遠回りしても構 わない」というルート選定が(しばしば)行われました。 この結果、一般への開放を前提としないために道幅や保安設備に対する規制 が緩い専用林道に転換された路線や、元々隣接していた道路の改良に際して鉄 道用地が利用された場合*以外*は「廃線跡を拡幅するより新たに開削した方が 有利」という理由で放棄されました。 このため、山の中や起伏の大きな場所で、斜面を横切って(ほぼ)水平に続く (a)や、小さな谷を横切る(b)や、尾根の末端に掘り込まれた(c)のような地形 を見かけたら、それは廃線遺構である可能性があります。免許事業である国鉄 /JRや地方鉄道/軌道については近年までに(ほぼ)全貌が明らかになりました が、道内に多数存在した小規模鉱山の構内線や、1960年代までの大規模土木工 事には付き物であった仮設の作業線については纏った研究もなく、過疎化が進 んだ今となっては知る人もありません。 _/ / ̄\ \ / / / \ \_/ (a)片盛土 (b)両盛土 (c)切取 注:いずれも断面 もし余裕があったら上図中の"−"の部分の幅にも注目して下さい。この幅は 明治時代から使われてきた『土工定規』という規定で、単線の場合は「軽便鉄 道で2.2mまたは2.6m。それ以外〜国鉄線を含む〜では4.5m」と定められてお り、この数値から大きく外れている場合には鉄道跡*ではない*と判断できます。 # ただし、廃止から時間が経つと斜面の崩壊が進むため、往時よりも狭くな # っている場合もありますが。 ★2.7 マナー 土地には必ず所有者がいます。私有地へみだりに立ち入るのは絶対に慎まな ければなりません。残すのは足跡だけ、取るのは写真だけです。ゴミを残した り、遺跡の一部を持って帰るなどという行為も厳禁です。 逆に土地の所有者に気に入られると、とっておきの場所へ案内してくれる時 もありますので、くれぐれも言葉遣いは丁重に。調査 :-)への熱意を込めてお 願いしてみましょう。 一部の「ファン」の暴走が悪印象を振りまいてしまった大都市近郊や、JR深 名線沿線*以外*の地域では、実際に農作業の邪魔になる…といった状況でもな い限り、殆ど了解して貰えると思います。 ★★★★★ 3 鉄道考古学に適した時期 ★★★★★ 廃墟の楽しみ方は人それぞれですが、一般的に言って、 夏: ぼうぼうの草に前進をはばまれたり、藪蚊の大群を覚悟しなければ ならないが、一番廃墟が廃墟らしい季節 冬: 雪に埋もれてしまうので跡を見つけにくいが、XCスキーや輪かんじ きを使用すれば夏に近づけないところへも近づける です。見つけやすく、自然も厳しくない時期というと 雪解け直後: まだ草丈が伸びず、跡を見つけやすく、歩きやすい 雪の降る直前: 草が枯れ、(以下同文) ですが、冬以外の時期に注意しなければならないのはヒグマです。極端な山の 中や、平地であっても未開拓の原野が山まで続いているような地域では「彼ら」 に出会う危険がありますので、 ・鈴、携帯ラジオ等を用意する ・一人では入らない ・地元の人から*最新の*出没情報を得る などして下さい。特に雪解け直後(冬眠から覚めて空腹)や、雪の降る直前(冬 眠準備で食欲旺盛)は要注意です。 ★★★★★ 4 北海道鉄道事始と手宮線跡 (調査:1995.GW by H.O、修正:1997.5, 1999.12, 2000.4)★★ まずは北海道の鉄道の黎明期をごくごく簡単にご説明しましょう。苗穂工場 内の「北海道鉄道技術館」を見学した時に得た情報に、JR北海道にお勤めの方 のご指摘や文献(4.3章に掲載)などを加えて加筆修正しました。 ★4.1 北海道鉄道年表(北海道鉄道技術館の展示より) (明治 5(1872) 10.14 日本初の鉄道 新橋−横浜 開通) 明治 6(1873) 青函航路が定期航路となる(1旬1往復) 明治13(1880) 10.24 手宮−入舟町陸橋間、約5kmの試運転が行われる。 日本の第1号から遅れることわずか8年、北海道でも鉄道が開通しました。 手宮は小樽の郊外で、この時の線路は現在の小樽駅よりも海側の街中にちゃ んと残っています。入舟町は現在小樽市入船という町名で残っていますが、 区画変更されて線路よりかなり山側が町域になっています。 以下、"|"部は「北海道の鉄道」(坂本眞一=現JR北海道社長編纂)より引用。 | 最初の本格的な工事は、手宮・住吉(現南小樽)間の木製ハウストラス |入船町陸橋であった。 =中略= | 手宮・札幌間の工事は、小樽港の西端の手宮桟橋が起点で、左方へ回り、 |手宮駅から市街に沿って、水天宮裏第1トンネルと入船町陸橋を通って、住 |吉が設置される前の仮駅海運町に至り、さらに住吉第2トンネルを経て海岸 |に近づき、前進して若竹第3トンネル、熊碓第4トンネルを通過して浅里に |至る。この辺は海が山にせまるという岩山づたいで、トンネルといっても最 |長で150mくらいであったが箇所は多かった。 この鉄道はアメリカの技術導入によって作られました。試運転で使われたSL である弁慶号の前面には日章旗と星条旗が飾られ、クロフォード(米国より派 遣された技術者)と松本荘一郎(後の鉄道庁長官)が正装して座り、沿線住民の 喝采に応えたとのことです。さらに紅白の幕で覆われた客車には、開拓使の幹 部や小樽郡の高官など多くの招待客を乗せて走ったとのことです。 この時使われた弁慶号と客車(開拓使号)は、東京・秋葉原の交通博物館に展 示されています。以後の開拓使号は高級役人用の客車として使われました。当 時は北海道開拓をアメリカの西部開拓になぞらえたため、弁慶号や開拓使号は 号は完全なウエスタン調の作りです。また、日本初のトイレ付きの客車でした。 明治13(1880) 11.11 手宮−銭函 までレールが敷設される。 〃 11.18 手宮−軽川(現 手稲) 〃 〃 11.20 手宮−札幌 〃 〃 11.28 手宮−札幌 35.9km の汽車運転式が、弁慶号の僚機で ある義経号にて行われる。 この当時の白石駅(フラグステーション)付近の写真を見ると、うっそうとし た原生林の中に小さな小さな駅舎(人が2、3人座れる程度)が建っており、他 の人家はありません。しかも枕木は丸太がそのまま使われています。 明治15(1912) 11.13 札幌−幌内 55.3km 開業 幌内開通当初の駅は、札幌−白石−江別−幌内太(後の三笠)−幌内でした。 (注:展示ではそう書いてあったが、資料によれば銭函、岩見沢などもっと沢山 の駅があった。)現在の函館本線・小樽−岩見沢と、廃止された国鉄幌内線(岩 見沢−幌内)が直通になった線路です。地図を見ると岩見沢から旭川へ向かう 函館本線は北西へ大きくカーブしており、幌内線はまっすぐに伸びています。 このことからも、岩見沢から旭川方面は後から作られたことが判ります。 明治25(1892) 11. 1 追分−夕張 開業 明治30(1897) 7. 1 室蘭停車場 開業 明治31(1898) 11. 室蘭駅舎完成 明治36,45年に大改築されましたが、現在でも完成時の原型をとどめてい ます。1997年に新駅舎が隣駅の母恋寄り500mに完成した後は観光案内所と なりましたが、国の有形文化財指定を受けて保存されています。 室蘭は、室蘭−岩見沢間の起点です。勿論、現在の特急ライラックが走っ ている千歳線ではなく、室蘭本線のことです。今はローカル線になってしま いましたが、元々の室蘭本線は三笠/夕張の産地で産出する石炭を室蘭から 船積みするために作られた路線なのです。これで石炭輸送のために2つの路 線と、2つの港(小樽と室蘭)が確保されました。 明治37(1904) 函館−小樽 全通 明治39(1905) 7.20 釧路(現 浜釧路)開業 (注:展示以外の資料は明治34.7.20となっている。) 鉄道建設は小樽、室蘭、函館などの道南と三笠/夕張の山地を結ぶ目的で 進められる一方、釧路を起点としても開始されました。 浜釧路は、現在の釧路駅から少し港寄りの位置です。当初は白糠地区の炭 礦で採掘された石炭の船積みのために建設されました。その後の根室方面へ の延長に際して、浜釧路から延長したのでは釧路川の橋が長くなるだけでな く、釧路川を渡ってから別保まで北上しなくてはならないので、浜釧路の北 に現在の釧路駅が設置されました。 明治42(1909) 4. 札幌工場(現 苗穂工場)着工 明治43(1910) 〃 客貨車修繕を開始 なお、この年表を見て面白いことに気がつきました。殆ど全部、完成が10 月から11月なのです。人力や馬力に頼るしかなかった当時の土木技術では、 地表だけでなく地盤まで凍り付く厳冬期は工事が出来ず、雪解けを待って着 工(あるいは工事を再開)し、根雪になる前に完成にこぎつけなければならな かった開拓の苦労が偲ばれます。 ★4.2 レールの話 鉄道開通当初、日本にはレールを圧延する技術がなく、レールはすべて輸入 品でした。日本でレールが作れるようになったのは、明治34(1901)年、官営八 幡製鉄所においてですが、需要に供給が追い付かなかった関係でレールの輸入 は昭和初期まで続き、およそ10カ国60社のレールが使われました。道内では 6カ国(米、英、独、仏、カナダ、ベルギー)33社が確認されています。 ちなみに、レールにはつなぎ目付近の側面に製造年と社名が印されています。 試しに調べてみたところ、小樽市内の手宮線跡では大正〜昭和初期の八幡製鉄 製を、苗穂工場では1897年のライン社(独)製を確認できました。 ★4.3 参考資料 年号等: 北海道鉄道技術館 「開区70年記念〜北の軌跡〜」 「北海道の鉄道」(坂本眞一=現JR北海道社長編纂) 地図 : エアリアマップ グランプリ8 北海道道路地図ガイド付 昭文社 1984年9月 マップル広域版 北海道道路 昭文社 1992年9月 [北海道鉄道技術館](1995.GWのデータ) 所在地 : JR北海道苗穂工場内(正門:北8条東13〜17条のあたり) 交通 : 苗穂駅北口下車。乗用車乗り入れ可。 開館日時: 第1、第3土曜のみ 13:30〜16:00 (休館が多いので、事前確認を) 問合せ先: 011(721)6624 入館料 : 無料 入場方法: 正門で住所と名前を書きます。 展示内容: 苗穂工場内に現存する最も古い建物(明治43年10月完成の用度品庫)を昭和 62年4月30日に鉄道技術館としたものです。レンガ造りの立派な建物です。 中身ですが、月2回しか公開しないのは貴重な資料の保護のためではなく、 博物館の体裁が不十分だから、という印象でした。古い時代の写真はとても 興味深かったのですが、あとは鉄道模型、実物の運転席、ディーゼルエンジ ンや蒸気機関の部品、プレート、切符などの展示でした。 なぜか壁にひろしま交通科学館のポスターが貼ってありました。三輪車に またがった笑顔の息子と、後ろからハンドルを握る父親を写した写真(昭和 30年代?)で、添えられた 「行き先は、いつも未来だった」 という言葉が印象的でした。 ★★★ 5.1 廃止路線(あいうえお順) ★★★ 国鉄再建計画の発表以前に廃止された路線も含めてあります。一部調査年月 が不明のものもありますが、ご了承を。 なお、「区間」は参考文献(1)を参考にしました。駅名のうち( )表示のも のは乗降所です。途中で分岐していた路線については、●で分岐駅を示してあ ります。廃止当時の駅だけでなく、一時期のみ存在した駅も書いてあります。 また、保存車両の情報については参考文献(7)を全面的に参考にしました。 ★★ 相生線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.3.31 区間 美幌−(旭通)−上美幌−(豊幌)−活汲−(達美)−津別− (高校前)−恩根−本岐−(大昭)−(開拓)−布川−北見相生 沿線自治体 [1-6-4] 美幌市、津別町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 美幌町交通記念館 場所: 美幌駅1階 入場料:無料 開館時間: 9〜15時 休館日: 「無休」が消されて空欄のまま 道具や写真の展示、歴史の紹介など、こじんまりした展示です。2階は林 業館で、美幌市街の航空写真(1987年撮影)には相生線跡が写っています。 (1999.12.28) ○豆歴史(上記記念館展示より) 1923(T12)12. 3 美幌−津別 着工 1924(T13)11.17 〃 開通 1925(T14)11.15 美幌−北見相生 全通 わずか2年間で開通とは、すごい突貫工事だったのではないでしょうか。 内陸部の開拓が目的で、釧網線同様に太平洋岸へつなげようという"釧美線" 構想も持ち続けられていたようですが、あえなく廃止となりました。 「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば、"釧美線"構想は明治45年頃からあった ようです。また、昭和40年代には釧路ではなく足寄に向かい、螺湾地区で白 糠線の未開業部分に繋げる…という構想もあったそうです。 ○遺構 <美幌駅>:1番線は欠番で、石北線の上り下りは跨線橋を渡った2,3番線を使用 しています。旧1番線は改札を通って目の前の跨線橋を渡らないホームです。 1番線とか相生線の表示はなく、柵でホームは封鎖されており、全員が跨線橋 へ誘導されるようになっています。(1999.12.28) <本岐駅>:R240は本岐市街を通らずに東側の斜面中腹を通っていますが、陸別 方面に向かう道道・津別陸別線は市街の中で分かれています。この分岐点の 東側の崖下が駅跡で"多目的公園"という名のパークゴルフ場となっています。 <北見相生駅>:駅の構内の部分だけにレールが残され、往時の車両が並んでい ますが、状態は良いとは言えません。 # 専門的 :-)に見ても、キハ2269+スハフ42502+トラ74509+ワム180455+ #ワフ29574+キ703という「ほとんど意味不明」な集め方をしてますし。 駅舎はバス待合所に転用されていますが、ホームはおそらく往時のままです。 バス待合所には「宿泊禁止」と記されています。廃止直後にライダーハウ スとして利用された…との情報がありますので、それに関するものでしょう。 客車の車体には家庭用?のクーラーが取り付けられています(ここまで1998.5)。 「相生鉄道公園」という名前が付き、車輌のサビが増えた点を除けば変化 ありません(2000.5)。 駅跡はそのまま残されているのですが、付近は物産館になっています。看板 なども出ており、立派な駐車場ありです。ちょうど駅裏にあたる、国道側がそ うなっているのでわかりやすいと思います。駅舎はバス待合所ですが、中には 沿線各駅の料金表などが展示されています。 バス待合所は宿泊禁止ですが、青い客車 1 両が物産館の人に声をかければ 中で無料宿泊可になっています。車両はそれほど色あせたりさびたりという 印象はありませんでした。この辺を整備した際に塗装しなおしたのかもしれ ません。 #でもこの駅舎、多分昔からピンク、ということはないよな...(以上2002.9) 行き方:車/バイクで行く場合、美幌と阿寒湖・足寄を結ぶR240に看板が出て います。が、このあたりは交通量が少なく、しかも入口は相生市街をバイパ スするルートに面しているため、必然的に :-)スピードが出ていると思いま す。看板の見落としや急ブレーキによる事故にご注意ください。 <その他>:未確認ですが、「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば美幌町内に"釧 美線"関連の色々と細かい遺構があるそうです。 ★★ 胆振線 ★★ ○データ 廃止年月 1986.10.31 京極−脇方の支線(歴史的には本線とも言うべき)は、1970.10.31に廃止。 区間 倶知安−六郷−参郷−寒別−北岡−●京極−東京極−(東倶知安)− (川上温泉(後の南京極))−留産−西喜茂別(後の喜茂別)−北鈴川−御園− (尾路遠)−徳舜瞥(後の新大滝)−優徳−(優園(後の北湯沢))−蟠渓− 久保内−壮瞥−上長流(後の上長和)−伊達紋別 ●京極−脇方 沿線自治体 [1-2-1] 倶知安町、京極町、喜茂別町 [1-2-2] 大滝村、壮瞥町、伊達市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIII,JTBキャンブックス,1997 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVIII,JTBキャンブックス,2001 ○記念館 六郷駅跡に若干の屋外展示あり。以下の調査報告を参照。 ○遺構 多数あり。以下の調査報告を参照 ***** 調査報告(現地調査1997.4 by H.O)***** 1.どこを走っていたか 倶知安−伊達紋別。倶知安から東進し、羊蹄山の北側を通って京極へ。こ こから南進して喜茂別、壮瞥などを通り、伊達紋別へ。この間約60km、車窓 から羊蹄山、有珠山、昭和新山などが望めるとても景色の良い路線でした。 以上は1986(昭和61)年に廃止される直前の路線です。実は胆振線は京極か ら更に東の脇方(わきかた)まで盲腸のような線も走っており、一足先の1970 (昭和45)年に廃止されました。この盲腸こそが胆振線の発端でした。 地図: 倶知安++++++++++++++ + ▲ 京極+++脇方 羊蹄山 喜茂別 + 洞爺湖 ○ + 有珠山 ▲ ▲ + 昭和新山 + 伊達紋別 2.胆振線の歴史(六郷駅の説明板と、脇方の鉱山記念碑より) 1919(T 8). 2 脇方鉱山(後の日鐵鉱業北海道鉱業所倶知安鉱山)開山。 1919(T 8) 脇方鉱山の資源輸送のため、国鉄支線京極線として 倶知安−脇方13.4kmが開通。 1926(T15) 中村與三松、胆振鉄道(株)を設立(注:中村は石川県より移住 し、倶知安近郊の六郷で農産物商として財をなしていた) 1928(S 3).10 京極−喜茂別10.8kmが開通。 1937(S12) 喜茂別−伊達紋別間着工。 1941(S16) 喜茂別−伊達紋別が開通。全線59.2km。 1944(S19) 国有化。 1969(S44).10 脇方鉱山閉山。 1970(S45).10.31 京極−脇方間廃止。 1986(S61).10.31 倶知安−伊達紋別間廃止により、胆振線は歴史を閉じる。 というわけで、 鉱山の資源搬送として鉄道が敷かれ→太平洋側にもつながって便利にな ったが→ 閉山で鉱山に密接な部分がなくなり→そしてなにもなくなった ことがわかります。(編者注:この年表は「胆振鉄道」が省かれており、和 久井康雄「私鉄史ハンドブック」には以下の記述があります。これは脇方 支線が不明確なのですが。 1928.10.21 胆振鉄道開業 京極−喜茂別 10.94km 1940.12.15 胆振縦貫鉄道開業 伊達紋別−徳舜別 34.99km 1941. 9.27 胆振鉄道と胆振縦貫鉄道が合併(2社どちらが主体かは不明) 1941.10.12 開業 徳舜別−西喜茂別 24.18km 1944. 7. 1 国有化 3.沿線案内&考古学的遺構 倶知安から跡をたどってみました。 <倶知安駅>:羊蹄山のわき水が駅で湧いています。おいしいですね。 現在の倶知安駅は函館本線だけが通っており、駅舎&改札を出てからホー ムまで跨線橋を渡ります。駅舎のある側が胆振線のホームでした。 ++++++++++++++++++++++++++++++ ------------ |_____| ++++++++++++++++++++++++++++++ ________________ ← 胆振線の線路があったスペース |駅舎| <六郷駅跡>:倶知安からR273を走ってすぐ、青い行先表示板(左:札幌R393)の すぐ手前です。鉄道記念公園として保存されています。駅舎なし、ホームと 線路が少々、車掌車(ヨ7913)と客車(オハフ46501)が各一両、蒸気機関車 (9600型)の動輪1コ、踏切1基、中村與三松記念碑1基。資料館なし。 <六郷跨線橋>:R273は六郷駅を出てすぐ、軌道跡をまたいでいます。橋はい まだに「跨線橋」。このあたりから京極までは拓かれた農村が続きます。 <京極>:噴出公園と温泉で賑わってます。駅跡を捜したんですが、見当たり ませんでした。町中の十字路で、右:噴出公園、直進:○○(失念)、左:何も なし、という表示を左折すると、脇方への道です。 <脇方>:京極からはだんだん山へ入っていきます。道路はワッカタサップ川 に沿って遡っていきます。鉄道は軌道跡、鉄橋が道路と何度も交差しながら 随所に見られます。駅舎は確認できず。 さて、脇方は最新の地図でも集落として記されてはいるものの、無人の山 野です。一般住宅の跡は見られません。脇方中学校跡碑、日鐵鉱業記念碑と、 鉱山のものらしき朽ちたコンクリートの建物が少々。また、誰かがこしらえ たモニュメント(大木に十字架型の木製の電柱が電話線?で吊り下げられて風 に揺れている…)が不気味さと虚しさを演出しています。現在、ここは倶知 安市の不燃ゴミと粗大ゴミの堆積場として使われています。また、小型の焼 却炉もあるので、多分燃えるゴミの処理も行われているのでしょう(注:調査 日は祝日に付き詳細不明)。道ばたに落ちた生ゴミなどが独特の臭いを放って いました。 京極に戻って伊達紋別へ向かうと、今度は谷間を進んでいきます。道路の 左右に並行して、あちこちに道床、線路、トンネルが見られます。 <美園駅跡>:胆振線は一部国道から外れて美園という集落を通っています。 バス停に「美園駅前」があり、ずるずるに崩れたホームが残っています。 <大滝のあたり>:キャンプや川遊びができます。このあたりの道床はサイク リングロードとして舗装されて整備されています。 <蟠渓駅跡>:蟠渓温泉があります。国道沿いのバス停に「蟠渓駅前」があり、 小さな駐車場があってトイレと自販機があります。駅のホームとベンチも残 っています。駅前の超大型看板は「歓迎 支笏洞爺國立公園」と「國」を使 っているので、だいぶ古そうです。看板は駅を下りて外に出たらまっ正面に でーんと見える位置にあり、列車が着くたびに観光客や湯治客を迎えていた んでしょうね。(2001年5月もホームは健在。看板は未確認。) この辺りは小さな温泉町が続き、西側には有珠山や昭和新山が見えます。 <伊達紋別>:大きな街です。駅のどこに胆振線が入っていたのかちょっとわ かりません。駅前の観光案内の看板に「駅逓跡」「胆振鉄道(株)本社跡」が ありましたが、駅すぐそばの胆振鉄道本社跡はそう書かれた棒杭1本が立っ ているだけで何の説明もありませんでした(駅逓は未調査)。 ***** 昭和新山噴火に伴う線路の付け替え ***** 昭和18(1943)年、昭和新山が畑の中から突如現れ、胆振線は長流川寄り への付け替えを余儀なくされました。1985年発行の写真集(「北海道鉄道百景、 日本国有鉄道北海道総局監修、須田製販発行)には、1985年2月9日撮影の 「国鉄胆振線跡」という棒杭が昭和新山をバックに写っています。 現地未調査、詳しい場所も不明です。 ★★ 岩内線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.6.30 区間 小沢−国富−幌似−前田−西前田−岩内 沿線自治体 [1-2-1] 共和町、岩内町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 幌似駅跡にあり。駅舎内に道具類の展示、ホーム、客車 などが小綺麗に保存されている(1995.4)。 ○遺構 多数あり。調査報告参照。 ***** 調査報告(1995.4 by H.O)***** 1.岩内線略年表(岩内駅跡の記念碑を軸に編集) 古くから開けていた漁港、岩内を大動脈である函館本線とつなげるための 路線でした。 1751(宝歴元)頃 岩内開基。ニシン漁の拠点であったようです。 1903(M38) 8. 1 函館本線(函館−旭川)全通。 ??.?? 岩内馬車鉄道が作られる。岩内線の前身です。 1911(M44) 岩内線起工。 1912(T01)11. 1 岩内線 岩内−小沢間14.9km が開通。 「港湾修築と併せ、海陸連絡を完全ならしむるを目的とし、 住民努力で敷地を国に寄付して完成させた」そうです。 1985(S60) 6.30 73年の歴史を閉じる。かつては急行らいでん(札幌−岩内) も走った路線でした。 2.岩内線ルートマップ 岩内線はどこを走っていたのか、大ざっぱに下の道路地図で説明します。 2.1 現在の道路 小沢にはR5がほぼ南北に走っています。少し北にトンネルがあり、抜ける とすぐにT字路となります。このT字路は 右(東): R5(小樽方面へ) 左(西): R276(岩内方面へ) となっており、左折してR276を走れば15分もたたずに岩内に着きます。岩内 から北にはR229が通っており、泊を経て積丹半島の海岸沿いを走っています。 泊 ほぼ北 |R229 ↑ | R276 R5 岩内 −−T −− 小樽 v トンネル ^ | 小沢 R5 | 倶知安 2.2 岩内線線路の位置 (1) 小沢からトンネルまでは線路はR5の右(東)にあります。 (2) トンネルの手前に跨線橋があり、線路はトンネルを作らずに岩内方向に 左折してR276の左(南)側に出ます。 (3) 岩内線は北西方向に斜めに走っており、跨線橋でR276と交差して右(北) 側に出たあと、R229に突き当たるまでR276と徐々に離れながら進みます。 (4) R229に突き当たるとR229沿い(道路東側)に進み、岩内市街に入ります。 3.調査結果(調査年月の記載がないものは全て1995年4月調査) 全般的に土盛りは残っていますが、レールは取り外されていました。 <小沢(こざわ)>:函館本線の駅ですので、地図に載っています。 今は無人駅です。岩内線の1番線が消えてホームが崩れていました。時代 物の真っ黒になった木造の跨線橋があり、函館本線のホーム(2、3番線)と1 番線のホームをつないでいます。跨線橋の下にはツバメの巣がびっしり。跨 線橋の中には「歓迎 岩内駅員一同」と書かれた名所案内の看板。でも今は 誰もいません…。駅舎はこじんまりしたものに建て直されていました。 <踏切>:国道以外の道との交差は踏切でした。切って貼ったような舗装の跡と、 停止標識(「止まれ」)が小沢-R5間他、数カ所に残っていました。:2.2(2)の通り、トンネル手前に「跨線橋」がありました。 <国富(くにとみ)>:2.2(2)のトンネルの手前を左折したあたりです。道も線 路に沿っていますが、線路跡はあるものの、駅跡は確認できませんでした。 :2.2(3)の通り、畑の真ん中で急に道路がアーチを描き、 「跨線橋」になっていました。 <鉄橋>:R276から幌似へ通じる道の右側の畑の中に、レンガ積みの橋とコンク リートの橋が残っており、農業用水をまたいでいました。 <幌似(ほろに)>:幌似の集落にあります。駅が残され、幌似鉄道記念公園になっ ていました。開拓時代を偲ばせるハイカラな駅舎で、木造で柱と壁の色が塗 り分けられています。ホームと線路も残され、車掌車(ワフ29587)と客車(ス ハフ42507)が飾ってあります。 ○幌似鉄道記念公園(1988(S63)年10月開館) 開館 5/1〜10/31 9:00〜17:00 月休 <前田(まえだ)>:前田の集落にあります。ニセコバスの停留所「前田」のあた りだと思いますが、92,99年の地図(マップル)では岩内中心部の拡大図の下 敷きになって確認できません。駅に突き当たっていた道が変更され、そのま ままっすぐ伸びてR276につながっているようです。 ちなみに地名の由来は開拓者の出身地の殿様(加賀前田藩)の名前をとった ものだそうです。 <西前田(にしまえだ)>:2.2(4)のR229に突き当たったところです。未調査。 <岩内(いわない)>:跡地はいろいろに利用されています。バスターミナル、道 の駅、立派な公園マリンパーク、町民文化センター、木田金次郎記念館など。 もとの線路の方向を見通すと、町並みが直線に切れて細長い空き地になって います。マリンパークの片隅には開業当時の岩内駅の写真と共に年表などが 刻まれた簡単な解説があり、付近にはポイント切替え器も残っていました。 4.調査雑感 岩内は1954(S29)年の大火で町の8割を焼失するなど、一時はさびれる一方 であったようです。しかし最近では直江津(新潟県)との大型フェリーが就航 し、活気を取り戻しつつあるように感じました。岩内駅跡地は見事に再開発 され、沿線には豊かな農村が広がっています。らいでんスイカもこのあたり の産品です。確かJリーグのキャンプもこの辺りに誘致したはず。小沢駅は 寂しくなったけど、鉄道は立派に開拓の使命を果たし、道路に後を任せて役 目を終えたのだな、と妙に「岩内線ありがとう」という気になったのでした。 という感想を書いたのは1995年。2000年には直江津とのフェリーは休航に なってしまいました。岩内町のホームページを見ると、温泉と美しい海岸線 などを資源に観光客の呼び込みに必死の様子がうかがえます。まさに「試さ れる大地」、岩内頑張れ! ★★ 歌志内線 ★★ ○データ 廃止年月 1988.4.24 区間 砂川−焼山−文殊−西歌−神威−歌神−歌志内 沿線自治体 [1-2-4] 砂川市、歌志内市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIV,JTBキャンブックス,1997 ○記念館(資料館) 確認できず(1996.5) ○遺構 <焼山駅>:焼山コミュニティセンター(大きそうな名前だが、実は地区の集会所) 裏手にコンクリート製のホームが残存。跡碑はコミュニティーセンターの前に あり、以下のような簡単な歴史(略年表参照)が書かれていました(1996.5)。 <歌神駅>:コンクリート製のホームが残存しています(1996.5)。 <歌志内市街>:道床が残っています(1996.5)。 <全線>:サイクリングロードとして整備中(1996.5)。 ○略年表 1873(M 6) 榎本武揚、歌志内鉱を発見 1890(M23) 歌志内鉱開鉱 1891(M24) 岩見沢−歌志内間に空知線開通 以後、砂川−歌志内間14.5kmは主に石炭輸送、地域産業の発展に寄与 1947(S22) 焼山駅、線路班従業員の仮乗降所として始まる。 ★★ 興浜北線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.6.30 区間 浜頓別-(頓別)-豊牛-(豊浜)-斜内-目梨泊-(山臼)-問牧-北見枝幸 沿線自治体 [1-7-2] 浜頓別町、枝幸町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 枝幸バスターミナルにある…という情報はあるも未確認 ○遺構(調査年のないものはすべて2001年5月調査) <浜頓別駅>:豪華バスターミナルになってます。残った駅前商店街とのコント ラストがなんとも言えずちぐはぐです。駅を出てすぐの線路脇に広がってい た水芭蕉の群落は木道つきの公園になって残ってます。(2002.5) <浜頓別−頓別>:「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば、浜頓別から南に向かい、 R275の「旭ヶ丘跨線橋」の南で東に進路を変えていたらしいのですが、この跨 線橋については記憶にありません。 <頓別乗降場>:頓別川の渡河地点の東側だった筈ですが、跡形もありません。 ちなみにR238の「浜頓別橋」の東側にある菅原水産?さんの敷地内に、旧国鉄 ・キハ22142が保存されています。 <頓別−豊牛>:頓別川を越えた線路跡は南東に向きを転じ、R238にぶつかると 車道に沿って南東に進んでいました。頓別川の東岸では原野の中の築堤が未舗 装の作業道として使われており、R238と並行している区間では、殆どが原野の 中の築堤として残っていました。(2001.5) 風力発電の風車が3基、築堤に立っています。(2002.5) <豊牛駅>:R238に面した唯一軒の駅前商店が目印。プレハブの駅舎が駅名表示 も消えずに残っています。背後には路盤も残っています。(2002.5) <豊牛−豊浜>:豊牛付近の路盤以外は跡形もありません。 <豊浜乗降場>:神社の東側あたりが駅跡だった筈ですが、跡形もありません。 <豊浜−斜内>:R238から200mほど西側に続いている狭い道が線路跡の筈ですが、 未調査です。斜内寄りの道路に転換されなかった部分は原野の中に築堤が残っ ています。 <斜内駅>:「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば駅舎が現存し、民家になってい るようですが未調査。 <斜内−目梨泊>:現在のR238は斜内山をトンネルで抜けてしまうので、線路跡 を辿るには神威岬に通じる旧道へ行かねばなりません。斜内市街から神威岬を 経て現在のR238のトンネルの南側付近までは、急斜面に路盤が延々と残ってい ますが、R238の改良の際に線路跡が数ヶ所で寸断されています。(2002.5)。 R238のトンネルから目梨泊にかけては、神威岬付近と比べて平坦なためか路 盤は殆ど判りません。 <目梨泊駅>:「鉄道廃線跡を歩くVII」では『空地』となっていますが、コミュ ニティセンターだったような気がします。 <目梨泊−山臼−問牧>:この区間も線路跡はR238の西側にある筈なのですが、 目梨泊側の一部と、次に述べる問牧市街の北側をを除いて路盤は確認できてい ません。現在のR238は問牧市街の西側の斜面に付け替えられていますが、その ために路盤が寸断されています。この地点を中心に南北方法に延びる路盤が残 っています。 <問牧駅>:未調査ですが、「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば、コミュニティセ ンターとなったようです。 <問牧−北見枝幸>:この区間もR238の西側を車道に沿って南下していた筈です が、殆どの区間が原野に埋まっているようです。確認できたのは - 問牧川の渡河地点および周辺部、 - 問牧川の渡河地点とウスタイベの中間にある水準点付近 - ウスタイベと幌内保の中間付近 - 幌内保にあるR238の跨線橋から北側 ぐらいです。 <北見枝幸駅>:記念碑のある小公園です。上記の跨線橋の近くまで「興浜線通 り」という名の舗装道路になっています。 バスターミナルに資料が展示されていたそうですが、未確認です。 この路線は第二次大戦中は「不要不急」ということで休止され、鉄材不足 を補うため、レールが撤去されました。 ○調査員H.Oの思い出 廃止になる直前の1985年3月に乗りました。夕方浜頓別を出発した一両編成 のディーゼルカーは夕闇の迫る中、オホーツク海岸に出ました。単調な寂しい 海岸線をトボトボと走っているように感じましたが、やがて圧倒的な迫力の北 見神威岬が迫ってきて、列車は崖に切り込まれるように敷かれた線路を、岬に ぴったり吸い付くように弧を描きだしました。右上に灯台が現れ、すごい迫力 で迫ってきたかと思うと後方に去り、列車は岬を回り切りました。風景は再び 何事もなかったかのように単調な海岸線に戻り、列車はトボトボと走りながら 北見枝幸駅に着きました。 2002年5月、国道から灯台への上り坂を辿ると線路跡へ出ました。変わらぬ 厳しく険しい山肌でしたが、斜面はエゾエンゴサクで青く染まっていました。 ★★ 興浜南線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.7.14 区間 興部−沢木−(元沢木)−栄丘−(雄武共栄)−雄武 沿線自治体 [1-7-2] 興部町、雄武町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 興部駅跡が「道の駅」となっており、名寄本線と共に興部町 史の中で紹介されています。名寄本線の項を参照。 ○遺構(調査年のないものはすべて2001年5月調査) <興部駅>:「道の駅」になっています。名寄本線の項を参照。 <興部−沢木>:線路は北東に向かい、海岸近くで進路を北西に転じて興部川を 越え、そのまま海岸沿いを進んでいました。詳細は未調査ですが、興部川から 北側は近くに道路がない湿原地帯のためため進入は困難だと思われます。 <沢木駅>:日の出岬の少し南にあたる沢木市街の中にあり、小公園となってい ます。鉄道があった頃の駅名標があります。日ノ出岬に向かって遊歩道があり ますが、どこまで通じているのか未確認です。 <沢木−元沢木>:R238は雄武町屈指 :-)の観光スポットである日の出岬の西側 で尾根を乗り越えていますが、急勾配に弱い鉄道は小さな半島を海岸沿いに辿 っていました。日ノ出岬への車道は線路跡が転換されたものとされています。 <元沢木乗降場>:日ノ出岬の北西にあたります。未調査です。 <元沢木−栄丘>:R238のすぐ東側の原野の中に路盤が残っていました。 <栄丘駅>:何もなし。残された路盤がR238を横断する地点が目印です。 <栄丘−雄武共栄−雄武>:この区間はずっとR238の西側を辿っていました。車 道に面した区間は路盤の大半が残っていますが、廃止後の河川改修のために橋 桁だけでなく橋脚や橋台も撤去されたようで、確認できたのは築堤だけです。 雄武共栄乗降場は当沸川の渡河地点の北側あたりですが、跡形もありません。 <雄武駅>:跡地は「道の駅」およびAコープになりました。なお、その一角にあ る地域交流センターの展望台に上がると、ついに一度も列車が走ることのなか った興浜線の敷地が市街地の中に続いているのが見えます。 なお、ここから枝幸までの約50kmは過疎化が進むオホーツク北部沿岸の中で も最も人口希薄な地であり、素直にR238を辿るの*ではなく*林道に踏み込んだ りするのであれば、燃料や食料の調達は雄武までに済ませておくべきでしょう。 この路線は第二次大戦中は「不要不急」ということで休止され、鉄材不足 を補うため、レールが撤去されました。 ★★ 根北線 ★★ ○データ 廃止年月 1970.11.30 区間 斜里−以久科−(西二線)−下越川−(十四号)−(十六号)−越川 沿線自治体 [1-6-4] 斜里町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くV,JTBキャンブックス,1998 ○記念館(資料館) 確認できず(2001.4) ○遺構 以下の報告を参照 ***** 調査報告(by Y.U, H.A, H.O(現地調査:2001.4.30)) ***** 根釧地方と北見地方を結ぶ線路として戦前から計画されていた線路です。 現在のR244に沿って根北峠を通り、斜里町と標津町56kmを結ぶ線として計画 され、以下の経緯を辿りました。 1938(S13)年 着工 1940(S15)年 中断 1957(S32)年 再開 1957(S32)年11.10 斜里中心部と越川間13kmのみ開通 1970(S45)年11.30 廃止 オホーツク海沿岸を鉄道で結ぶ計画は明治の終わりからあったものの、最も 採算性に乏しい斜里−(根室)標津間の着工は何度も後回しにされていました。 それが日中戦争に伴う対米関係の悪化に伴って、オホーツク海南部を睨む 拠点としての根釧台地に多くの航空基地の建設が計画され、それに伴って根 北線の建設が急務とされました。鉄道建設が認可されるやいなや次の越川橋 梁などの突貫工事が始まり、不要となった戦後は営業認可まで再び長い間待 たされることになりました。「斜里町史」には「開通が待たれる根北線」と して越川橋梁を歩いて見物している人の写真が載っています。ようやく開通 した時は日の丸の小旗を打ち振って祝ったものの、既に時代は鉄道から道路 へと変わっており、採算の取れないまま廃止となりました。 <越川橋梁(第一幾品川橋梁)>: 根北峠から斜里へ向かってR244を下り、ようやく人家が出てくるあたりに あります。説明板によれば昭和14(1939)年に当時の省線(後の国鉄)根北線の ために建設された10連(現在はR244拡張の際に一部壊され、6連と1連)のアー チ橋です。元々は全長147m、高さ20mもある大きなものですが、鉄筋を使用 しておらず、当時のコンクリート建築技術を伝える建造物として、また、戦 時下の過酷な労働を伝える歴史遺産として貴重なものです。そういった理由 で国の登録有形文化財に指定され、 「登録有形文化財 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」 と刻まれたプレートが取り付けられています。さらに説明板によりますと、 昭32(1957) 根北線、斜里−越川間開通 昭45(1970) 越川橋梁まで線路が延びないまま廃止 昭48(1973) R244の拡幅工事のため、橋脚を2本撤去、現在の姿となる と続きます。道路南側の6連の方には建設の際の犠牲者を悼む線香台があり、 酒や花が供えられています。 過酷な労働によって、この橋のために多くの人々が命を落としたにもかか わらず、その尊い犠牲は報われることなく、橋は使われることがなかった… という事実は何ともやるせない悲しい気持ちにさせてくれます。 # 同様に多くの犠牲を伴った工事とはいえ、大雪国道や石北本線は北網地 #域の大動脈として活かされているのですが。 この橋を残し、守り、そして不幸な事実を語り継いでいくことこそが、私 達に出来るできるせめてもの供養だと思います。 ★★ 標津線 ★★ ○データ 廃止年月 1989.4.2 区間 標茶−多和−泉川−光進−西春別−上春別−計根別−開栄− 当幌−●中標津−(東標津)−上武佐−川北−根室標津 ●中標津−協和−春別−平糸−西別−別海−奥行臼−厚床 沿線自治体 [1-6-2] 標茶町 [1-6-3] 中標津町、標津町、別海町、根室市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVI,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) <西春別鉄道記念館(旧西春別駅)>:駅跡一帯が「記念公園」となっている。 住所:野付郡別海町西春別駅前西町271番地 電話:(01537)7-309 公開日:公園自体=4/29〜11月上旬、入場無料。 記念館 =毎日、9〜15時、入場無料。ただし、12/28〜1/7と 毎週月曜(祝日の場合は翌日)を除く (1994.5) 園内に展示されている車輌はD5127+キ276+キハ22239+ヨ4642。このD51 は第二次大戦中?に当時日本領のサハリンに送られ、戦後も現地で活躍し、 引退後に奇跡の帰還を果たした全国でも珍しい例。館内には保線器具、閉塞 機器、信号てこ、制服…の実物と、標津線の沿革のパネル展示がある。 公園の一角にあるホームには標津線の各駅の駅名票が立ち並んでいるので すが、駅名票の列は緑の芝生に映えて墓標のようにも感じられます(1997.5)。 <中標津バスターミナル(旧中標津駅)>:一角に展示スペースがある。隣の売店 が管理しており、消灯、施錠されている時は頼んで開けてもらう(2001.5.1)。 <中標津郷土館>:市街の北(空港に行く途中)にある丸山公園の隣。館内展示 (入場無料)は開拓が始まった以降の道具の展示が主だが、殖民軌道の写真パ ネルが数枚ある。また、屋外には国鉄時代のSL(C11209)(9章参照)および殖 民軌道時代のレールが展示されている。館内の開館は原則的に「日祝のみの 9:00-17:00」だが、連休が絡んだ"5/1火曜"は開いていた。(2001.5.1)。 <奥行臼駅>:駅舎(内部公開は夏期(5/1より)のみ)、ホーム、レール、信号機 などあり。近くには鉄道が敷設される前の時代の施設である駅逓の建物や、 簡易軌道上風蓮線跡(駅舎、車輌、路盤、転車台)も保存され、歴史公園の趣 がある。(2001.4.30) R243が奥行臼で直角に折れる交差点に駐車場があり、ここから歩いて行ける。 至 本別海 | R244 R243 | 至 弟子屈 −−−−−−| | :P| 凡例 ○| : | : 標津線レール | ★: | ★ 標津線奥行臼駅 ☆| : | ○ 駅逓 | : | ☆ 簡易軌道奥行臼駅 ○遺構 <標茶駅>:釧網線の駅として健在。島式ホームに「標津線起点」の棒杭と、 解説板がある。標津線だった3番線は釧網線用に使用中。(2002.3) <泉川駅>:駅舎やホームは道路改良のために消滅したようで、路盤のみ残っ ている(2000.5)。 <光進駅>:「光進」バス停の前のT字路を山に向かって数100m進んだ防風林 の中に、ホームと路盤のみ残っている(2000.5)。 <西春別駅>:記念公園になっている。「記念館」参照。また、駅跡を中心に 駅前曙町・駅前柏町・駅前栄町・駅前錦町という地名や「駅前診療所」も あるようです。 <計根別〜当幌>:車道の南に延々と路盤が続いている(2000.5)。 <厚床駅>:現在根室本線で使われている2本のレールの間に標津線が発着し ていました。島式ホームは標津線側が崩れていて柵もありますが、僅かにL 字型の痕跡があり、車止めがあったことがわかります。(2001.4.30) |駅舎| ホーム −−−−−−−−−−−−−−−−− +++++++++++++++++++++++++++++++++ | ̄| ←標津線のあったところ 至 釧路 |  ̄ ̄ ̄島式ホーム ̄ ̄ ̄ ̄| 至 根室 −−−−−−−−−−−−−− +++++++++++++++++++++++++++++++++ <厚床〜奥行臼>:R44を厚床駅から根室方向へ数100m行くと、青い道路標示板 (右:初田牛)が出てくる。右折するとすぐに根室本線の踏切が出てくるが、 その数10m手前が標津線の踏切跡。両側には草ぼうぼうの路盤(バラスト残存) 車道には舗装後の凍上(*)および路盤沈下によるひび割れがある(2001.4.30)。 (*)根室地方の海岸部は軟弱地盤が多く、積雪が少ない代わりに寒さが厳しい ので路盤の凍結でレールや枕木(あるいは道路の舗装)が浮き上がり、春に なると地盤沈下を起こす…という繰り返しが今でも続いている。 R44を上記初田牛方面交差点からさらに根室方向へ数100m行くと、厚床跨 線橋があり、R44の両側に路盤が残っている。(2001.4.30) R243を厚床から北上すると、3kmほどで「明郷」という集落表示があり、 ここから10戸ほどの集落が出てくるまでの間に平面交差の跡がある。車道に は継ぎ目は残っていないが、R243の両側、南西から北東方向に斜めに路盤が 残っている。(2001.4.30) 風蓮川にプレートガーター橋が残り、その南に築堤が続いている。このあ たりはカヌーやボートの揚げ下ろしのポイントになっており、R243から河原 へ車で下りることができる。(2001.4.30) <奥行臼駅>:駅舎などが保存されている。「記念館」参照。 <奥行臼〜別海>:西別川の河谷に築堤が残っている(1997.5)。 別海温泉ホテル前に腕木式信号機があるが、ここは標津線の線路跡では ない(2001.4.30)。 <別海駅>:立派なバス待合所が新築されており、面影はないが、厚床寄りに 少し歩いて行くと西別川に架かる橋が人道橋としてそのまま使われている。 商店や住宅の間に少々細長い空き地も残っている(2001.4.30)。 <春別駅>:駅跡を含む市街の東の部分は、ヘルスパークという細長い公園に なっている(1997.5)。 <春別〜協和>:春別市街の北に「別海跨線橋」が残り、そこから町境まで断 続的に築堤/路盤が残っている(2001.5)。 <東標津〜上武佐>:クテクンベツ川と隣りのイロンネベツ川(注:現地の看板 は武佐川)にプレートガーター橋、そこから上武佐市街までは築堤が残って いる(2001.5)。 <上武佐駅>:東武佐市街。山田洋次監督、高倉健主演「遙かなる山の呼び声」 のロケ地として使用されたため、看板とスタンプが設置される予定(1997. 3.3北海道新聞)だったのだが、駅舎もスタンプもない更地で、手前のバス停 脇にロケ地を示す棒杭のみがあった。大きな旅館の廃墟がかつての駅前を忍 ばせる(2001.4.30)。 <川北駅>:バス停を含む広大な公園になり、駅跡の説明板と国鉄時代のディ ーゼルカー(キハ22168)が展示されている。ディーゼルカーには換気扇がと りつけられ、内部にはカーペットが敷かれ、旧運転席部分にはコンロが積ま れていたので、地元yの宴会場として利用されているのだろう。(2001.5) <川北〜根室標津>:シュラ川の河谷に築堤が残っている(1997.5) <根室標津駅>:バスターミナルとなった。その左奥の草むらの中に転車台と 前後のレール、何かの車輪が残っている。(2001.4.30) 駅跡ではないが、市街の文化会館に国鉄SL(C11224)の展示あり。9章参 照(2000.5)。 ★★ 士幌線 ★★ ○データ 廃止年月 1987.3.22 区間 帯広−木野−音更−駒場−武儀−中士幌−(新士幌)−士幌− 北平和−上士幌−萩ヶ岡−清水谷−黒石平−(電力所前)− (糠平ダム)−糠平−幌加−十勝三股 沿線自治体 [1-5-3]帯広市、音更町 [1-5-4]士幌町、上士幌町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIII,JTBキャンブックス,1997 帯広市,音更町,士幌町,上士幌町編:北の鉄路,1987,非売品。廃止時に編集さ れた記念誌。所在確認できたのは以下の3箇所。 ・上士幌町鉄道資料館(糠平):ガラス展示ケースの中。閲覧可能か不明。 ・東大雪自然センター(糠平):一部のコピーのみ。めがね橋保存運動の会 合資料もある。どちらも閲覧してないが、係員に頼んで見せてもらっ た。 (1998.12) ・三股山荘(三股):本棚に置いてある。ディスカバージャパン時代の駅の 記念スタンプも頼むと出してきてくれる。 (2001.5) ○記念館(資料館):上士幌町鉄道資料館 糠平温泉街の外れ、糠平駅跡にあり。R273に看板が出ている。室内展示は 入場料100円。廃線資料館の中で入場料を取るのは珍しいが、内容は道具、 年表、写真、ビデオなど充実しており、100円の価値は十分にある。野外に はレールと腕木式信号機が残され、車両(ヨ4843)の展示もある。(1997.5) ○遺構 <捜し方>:帯広から北へ、糠平湖を通って上士幌町三股まで走っていた。帯 広−上士幌間はずっとR241の西側にほぼ並行して線路がある。上士幌−糠平 間もずっとR273の西側。糠平湖のあたりでR273を何回かトンネルで交差し、 そのあとは十勝三股までR273の東側。士幌線の見所はなんと言っても美しい アーチ橋群にある。 上士幌町観光協会(k23@vesta.ocn.ne.jp)から「ひがし大雪アーチ橋ガイ ドマップ」なるパンフレットが刊行されており、見所がカラー写真と地図で わかりやすくガイドしてあり、これがあれば簡単に場所がわかって楽しめる。 (2002.12) 以下、帯広から十勝三股まで順に。 <帯広駅>:駅は高架になってすっかり作り替えられてしまったため、士幌線 の痕跡は一切残っていない。(2000.1.1) <帯広市街>: (1)R38は西9条で士幌線を跨いで跨線橋になっていた。今では継ぎ目もなく平 坦になっているが、国道の両側には線路跡が細長い空地になって残っている。 (2)R38と帯広駅の間、帯広川の鉄橋があったところは橋脚こそ残っていないも のの、土手に設けられた防護柵が鉄道跡のみ鉄条網になっており、JR北海道 が管理者である旨の看板が出ている。 (3)R38から帯広駅方面への細長い空地は、厚生病院でおしまいになっていた。 病院は、根室本線が高架に変更される前の線路と士幌線の線路と併せて敷地 を広げて利用している。 (3つとも2000.1.1) <士幌などの平野部>:R273から見える範囲では、痕跡は見出せず。(2000.5) <木野−音更>:十勝大橋から北上するR241(バイパスじゃない方)の郊外型大 型店舗群は鉄道の跡地に作られたものです。スーパーセンター OK の裏の通 りがちょうど鉄道あとで、その延長上を音更 (北) 方面へ進むと、まだ土盛 りが残ってます。 (2002.10) <音更駅>:大通交通公園として保存されている。蒸気機関車(48624)と除雪車 (キ704)と車掌車(ヨ4730)を展示。 行き方:記憶によれば看板がない。車/バイクの場合は音更市街で通行人を つかまえて「農協はどこだ」と尋ねれば判ると思う。何も考えずに運転し ていると、バイパスに誘導されてしまって音更市街を通らない。バスの場 合は「大通5丁目」のバス停が地図の×なので、そこから帯広寄りの交差 点を東(注:帯広に向かって左)に入れば着く。 地図: ↑士幌 || × || JA || 交通公園 || || ↓帯広 (1998.5) ここを更に北に行くと、道道との交点北側に、まだ土盛りと、駅近くによ く立っている看板 (あの黄色というかオレンジというか) で、「音更」とい うのも残っていたはずです。 (2002.10) <士幌駅>:駅舎もホームもレールも信号機もそっくり周囲から切り取られて 草ぼうぼうの更地に残っていた。壊すのも惜しいので遺してはみたけれど、 さてどう利用しようかという雰囲気に思えたが、駅跡は国指定史跡となって いるので、今後も何らかの形で残るであろう。R241を帯広方向に走ると、士 幌の交差点を過ぎてすぐの右側にある。国鉄時代の貨車3両(ヨ4842、ワム 187711、ワム187936)が置いてあるが塗装が剥げてボロボロ。 (2000.5) <萩が岡駅>:R273の交差点「萩が岡」(三国峠から下ると何と最初の信号)を 帯広に向かって右折した正面が駅。今は更地で跡形もない。交差点には郵便 局もあり、2.6で言う「駅の気配」のする場所の典型的な例。 (2000.5) <幌加駅>:森と雑草に埋もれたホーム残存。除雪ステーションの糠平寄りす ぐ。R273から見える。かつて数百人が暮らし、約5km山に入った幌加温泉か らは送迎車も来たという賑わいが信じられない。今は無人の山林。(2000.5) <糠平−十勝三股間など>:R273が山間部に入ると、レールはないが鉄橋、道 床、トンネルなど多数が残存する。しかし、一部の橋が落ちているため歩き 通すことはできない。 (2000.5) <アーチ橋梁(めがね橋)>:ローマの水道橋を思わせるコンクリートアーチ橋 が山間部を中心に多数残存。鉄筋を使わずに作られているものもあり、建築 史的にも重要で、国の文化財や北海道遺産に指定されているものもある。調 査報告1参照。 講談社から「西山芳一写真集 タウシュベツ」(2002年発行、\2857、税別) も出版されている。西山氏は土木写真家で、数年前にタウシュベツ川橋梁に 魅せられて以来、四季折々の姿を撮影したんだそうだ。 <十勝三股駅>:1978年の廃止後も駅舎、ホーム、レール等があったが、1994 年秋取り壊された。レールの間から生えて既に林となっていた、高さ数mの 白樺林も綺麗に引き抜かれ、ルピナス観賞用の木道が整備された。駅舎正面 の「○○医院 役場通り」の看板、開拓記念か何かの石碑、駅舎に木陰を作 っていた2本の木は残っている。林業の最盛期、周辺には200戸以上、1500人 余が住んでおり、ここから岩間温泉まで森林鉄道も走っていた。 (2002.5) ○調査員のつぶやき:十勝三股が十勝三股という名前になる前からの数千年を 考えると、人が来て、鉄道が引かれて、人で賑わって、人が鉄道で去って、 鉄道が廃止されて、という出来事はごくごく一瞬であって、再びここは何も なかったように(山は裸になったけど)静けさを取り戻す…。というわけで、 人って何だろうと哲学をしてしまうのでした。_o_ ○歴史 (「北の鉄路」及び鉄道記念館の展示より) 1905 (M38) 10.21 帯広駅 開駅(士幌線というわけではありませんが..) 1925 (T14) 12.10 帯広 −士幌 間開業 (途中設置駅:木野、音更、駒場、中士幌) 1926 (T15) 7.10 士幌 −上士幌 間開業 1935 (S10) 11.26 上士幌−清水谷 間開業(途中設置駅:萩ケ岡) 1937 (S12) 9.26 清水谷−糠平 間開業 1939 (S14) 11.18 糠平 −十勝三股 間開業(途中設置駅:幌加) 1952 (S27) 糠平ダム 建設開始 1953 (S28) 清水谷−糠平間 ダム建設に伴って糠平湖に水没する区 間を高い所へ付替。 1955 (S30) 8. 1 清水谷−糠平間 新線路で運行開始。糠平駅、新駅開駅。 〃 9 糠平湖 湛水開始 1956 (S31) 6 糠平湖 完成 〃 12.25 無儀駅、黒石平駅 開駅 1957 (S32) 12.25 北平和駅 開駅 1963 (S38) 11. 1 電力所前駅 開駅 1965 (S40) 10. 1 新士幌駅 開駅 1978 (S53) 12.24 糠平−十勝三股間廃止。翌日より代行バス運転開始。 1982 (S57) 10.22 第二次廃止対象路線として国鉄が申請。 1986 (S61) 1.27 地元(士幌線対策協議会)、バス転換を決定。 1987 (S62) 3.22 廃止 士幌線は十勝平野の開発と、その山奥の林業資源開発を目的に作られまし た。鉄道開通以前は山で切りだした丸太は音更川を使って流送したようです。 つまり、幌加と十勝三股への足は川しかありませんでした。 糠平湖の水位が下がると、大木の切り株がたくさん現れます。現在の十勝 三股のあたりは切り尽くされたのか、明るい野原のような谷間になっており、 その違いに驚きます。直径1メートルはあろうかという大木と格闘した跡は 歴史を感じさせます。 鉄道開通後も、「鉄砲水で線路が流され、幌加と十勝三股が孤立している」 という新聞記事や、「木材を満載した貨車が暴走し、次々と途中の駅で止め るのに失敗、かなり下の駅で列車を用意し、これにぶつけて脱線させてよう やく止めた。」などという手に汗にぎる歴史も資料館で目にできます。 農業と林業の他、萩ケ岡には勢多水銀鉱がありました。また、糠平温泉は かなり古くからアイヌの人には知られていたようですが、1919(T8)年から開 発され(つまり鉄道建設前から和人が入るようになった)、糠平ダム完成の頃 から観光客、スキー客で大変な賑わいを見せたようです。1966(S41)には、 準急しほろ(糠平−帯広間)、1967(S42)年には急行大平原(広尾線との直通で 糠平−広尾間)が運行されました。この他、スキー列車銀嶺号など、昭和40 年代前半は士幌沿線が一番賑わった頃でした。 しかしR273が整備され、1973(S47)年には上川まで開通したことにより、 ますます発展すると思われた鉄道と沿線は逆に衰退していきました。自動車 が普及したこと、行き止まりでなくなったことにより滞在する人が少なくな ったことが原因とされています。(「北の鉄路」には林業の衰退については 触れていない。)十勝三股から三国峠を越え、上川まで延伸する計画もあり ましたが、実現しないまま糠平より奥は人口が流出して一足先に廃止、そし て士幌線全体も消えました。 ***** 調査報告1 糠平ダム建設による線路の付け替えと橋梁群 ***** 〜めがね橋と保存運動〜 士幌線の見所といえば、ローマの水道橋を思わせるアーチ型の橋梁群「め がね橋」。糠平周辺には第二次世界大戦前後の1936〜55(S11〜30)年にかけ て作られた新旧十数基のめがね橋が残っています。この橋梁群の最大の特長 は鉄筋を使用せず、コンクリートだけで作られたものがあること。当時の鉄 材不足が理由でしたが、これが逆に建築学的にも価値のあるものとされ、ま た、見た目の美しさもあり士幌線廃止以来保存運動が起きました。 1997?年にめでたく取り壊し費用を補修・保存費用に転換することで決着 したのですが、大変に費用のかかるものや保存困難なものもあり、実際に保 存されるのは7つです。5つは国の有形文化財に指定されています。森に埋も れ、川面に影を落とす廃墟の橋梁はとても美しいものがあります。 ひがし大雪アーチ橋友の会: http://www3.ocn.ne.jp/~arch/ は保存から活用まで幅広い活動をしており、全てのアーチ橋の写真をはじめ 詳しい情報を紹介しています。 以下、帯広側から順に、現地調査が行われた橋梁の報告です。 <第四音更川橋梁(1936年建設)>: 上士幌からR273を北上すると、糠平温泉に入る前、泉翠峡の覆道を通った 後、鶴見トンネル(確か最初のトンネルです)を通ります。トンネルを出ると、 左に新旧の線路跡が見えます。右に未舗装の駐車場があるので、そこに駐車 して道路を横切ります。車がすごい勢いで走っているので要注意。 道路より遥か上の山肌には覆道とアーチ橋を組み合わせた「下の沢陸橋」 があります。ダム建設後の線路ですが、今はここへ達する線路は落とされて いるので、簡単に行くことはできません。 道路から下を見ると、糠平川に崩れたアーチ橋が架かっており、これが第 四音更川橋梁です。川に架かる部分はアーチではなく鉄の桁橋だったそうで、 この部分は落とされて、両側のアーチ部分2連ずつが残っています。この橋 の見所はアーチの上に太い木が何本も生えていること。列車が走らなくなっ てからの長い歳月を感じさせてくれます。この橋は文化財に指定されていま せん。つまり木は伸びるに任されているのです。これから先この木はどう伸 び、この廃墟はどう変貌を遂げていくのか…。過去、現在、そして未来。そ の姿を脳裏に浮かべるのが廃墟を訪れる愉しみの一つです。 (2000.5) <糠平川橋梁(1955年建設)>: 糠平市街外れの鉄道資料館の線路跡から(あるいは一本町寄りのキャンプ 場へ向かう道から)町の方へ歩いていったところにあります。1連ですが、大 きなアーチ橋です。橋には柵で通行止めの表示がある一方、「遊歩道」の表 示もあります。両側に防護柵があるので一応安心して渡ることができました。 冬でも温泉街から散歩がてら歩いて行くことができ、街に一番近いめがね橋 として、観光資源に期待されています。 (1998.12) <タウシュベツ川橋梁(1939(1937としている資料もある)年建設>: 季節によってダム湖の湖底から忽然と現れる11連アーチの"幻の橋"。ダム 湖の糠平湖の完成とともに水没し、橋も周辺の切り株も2〜5月頃の水位の低 い時期に限って姿を見せます。その神秘性と美しさから橋梁群の中で最も人 気があり、旅行誌でも数多く紹介されています。鉄筋は使われていますが、 凍結する湖面の上下で橋脚表面はすっかり削り取られて丸みを帯びています。 この橋は保存できないので文化財に指定されていません。もし保存すると なると、糠平湖を仕切って水没しないようにしなければならず、莫大な費用 がかかるためです。保存運動の対象からも外されたのですが、ことあるごと に写真で登場して保存運動のシンボル的扱いをされたそうです。 でも仮に保存されても、かえって「渇水期だけ現れる」という神秘性がな くなってしまうので、人気は落ちるでしょうね。年と共に氷に削られ、橋脚 が序々に細って倒壊する運命…。うーん廃墟ファンにはこたえられません。 <行き方>: R273を糠平温泉から北上すると糠平湖が終わる辺りに丸山橋があり、ここ から糠平湖東岸を走る林道があります。車が何とかすれ違える幅で、冬は除 雪されず、他の季節も倒木や落石など、楽な林道ではありません。 林道沿いに線路跡も見え隠れします。そして、約3?5?km走ったところで道 は二手に分かれます。90°左カーブしているのが道なりですが、正面に車一 台がやっと通れる道が続いています。車で通ってもいいし、林道両側には数 台分の駐車スペースがありますのでここから歩いても1分程度です。林が終 わったところは川原になっており、正面に幻の橋があります。どのぐらい水 に浸かった姿をしているかは、行ってみてのお楽しみ。 冬だと湖面をスキーで渡る方法もありますが、氷が割れると大変危険です ので、東大雪自然センターのスキーツアー(調査報告2参照)などを利用しま しょう。なお、橋の付近はわかさぎ釣りのポイントでもあります。 <目撃談>: 1998.12.30:遠望したが、凍った湖面からアーチの上の方がかろうじて出て いる程度。 2000.5.4:水面から10m以上あり、歩いて向こう岸まで渡れました。こんなに 高く水面から出ている橋がホントに水没するのか、全くぴんときませんで したが、大きな流木が橋の上に乗り上げていたので、ホントにここまで水 が上がってくるのだなあと思いました。川原には3台ほど車が停められ、 家族連れなどがピクニックを楽しんでいました。 2001.7.20:橋の足が半分ほど(たぶん)水につかっていました。橋の上を歩き 対岸に行くこともできました。橋は鉄筋がはいっており、橋の上はジャリ 道でした。橋の幅は意外に狭くレールの幅ギリギリという感じでした。当 時はきっと列車の窓から下を見るとスリル満点だったでしょう。 # なんせ鉄道橋では全ての重量が2本のレールにかかるため、国鉄/JRでも #下路式の橋の幅は1m強しかないのが普通です。 資料館係員によれば、いつもは5月ごろに水没するが、今年はダム工事で ダムの水を抜き、水位が低いので7月現在も橋が見えるとのこと。 2002.4.27:橋脚はほぼ完全に水面から出ていた。 2002.12.31: *****クロカン氷上調査***** R273の丸山橋から始まる林道はゲートが開いており、雪が積もっていまし たが、わだちがありましたので、私も車で進入。わだちは幅広のオフロード 車のものもあれば、普通車が腹で雪をこすりながら進んだ跡もあります。こ ちらのマツダ・デミオも時々腹をこすりながらでした。 橋梁手前の駐車スペースには車が4台駐めてありました。わかさぎ釣りの ようです。 ここから板を履いて橋梁へ。糠平湖は凍結していましたが、橋のアーチは 人がやっと通れるぐらいの高さでした。1.5mぐらい。対岸へ歩いていこうと 思ったのですが、気温零下なのに晴天で橋が暖まり、目の前でパラパラと橋 についた氷が落ちていきます。おまけに橋脚周囲の氷もじんわりと数cm溶け ており、立ち止まると足元からピシッ…ピシッ…という不気味な音がしてき て、引き返しました。わかさぎ釣りのテントも氷上に数張あったので、大丈 夫だとは思うのですが。 林道へ戻ってさわと温泉まで歩いていこうと思ったのですが、わだちは 200mほどでおしまいになり、スキーでもラッセルで歩きにくくなったので、 橋の対岸に回ったところでミシミシきしむ氷をおっかなびっくり渡って帰り ました。橋の上は御神渡り状態に氷の板が折り重なっており、歩けませんで した。(全行程1.5時間ほど) <三の沢橋梁(1955年建設)、五の沢橋梁(1955年建設)>: 調査報告2を参照下さい。この付近は線路跡を歩くことができます。 <第五音更川橋梁(1939年建設)>: R273を糠平温泉から三国峠へ向かって北上すると、右に幌加除雪ステーシ ョンがあります。ここに車を停めて北に約5分歩いたところに橋があり、右 側に長い8連のアーチ橋が架かっています。鉄筋を使用しておらず、有形文 化財に指定されています。国道に沿っていて、車で走っていてもよく見えま すが、わき見運転にはご注意。また、第四音更川橋梁同様、車は猛スピード で走っていますので、歩いて見学する方も車に注意しましょう。橋の脇の路 肩に車を寄せて停められないこともないのですが、路肩が狭くてはみ出ます ので、やはり除雪ステーションを利用する方が安全です。 (2002.5) ***** 調査報告2 クロカンスキーによる調査 〜冬の五の沢橋梁、三の沢橋梁〜 (調査:1998.12.30 by H.O)**** <スノーハイク>: 糠平温泉街にある東大雪自然センターでは、自然観察ツアーを行っており、 積雪期はXCスキーまたはスノーシューハイクです。旅館やYHに案内が置いて あります。申し込みは前日21時まで。コースは希望やレベルにより決定しま すが、糠平湖ないし周辺の森の散策です。氷上を渡ってタウシュベツ川橋梁 へ行く日もあります。 こちらが参加した日は「五の沢コース」でした。糠平湖周辺は下流から順 に沢に番号がついています。五の沢は糠平温泉と幌加の中間です。一人だけ 現地解散にして鉄路跡を歩くことで事前に了解を貰い、ツアー終了後、他の ツアー客と分かれて糠平方面へ歩き出しました。R273と糠平湖の間に線路跡 があり、こんなふうになってます。 線路跡 −(五の沢橋梁)−−−(三の沢橋梁)−(トンネル)− R273 −−(五の沢橋)−−−P(三の沢橋)−−(三の沢トンネル) <五の沢橋梁>: 長さ数mの小さなアーチ橋です。雪の下に埋もれていたので、注意してい ないと足元を通り過ぎてしまいます。でも夏は下草が多くてR273から入って いくのは大変ですが、冬だと楽です。ここから幌加まで軌道跡は残っていま すが、途中の沢で鉄橋が落とされて渡れないそうです。糠平方面も鉄橋とト ンネルがあって途中で途切れています。また、レールは1997年だか1996年だ かにすべて撤去したそうです。 <三の沢橋梁>: 三の沢まではずっと森の中を歩きます。1人で静かなためか、ツアー中よ りもたくさん鳥が見られました。三の沢で軌道はいったん削り取られ、R273 脇の駐車帯にぶつかります。五の沢から約3km。三の沢は五の沢よりずっと 大きく、川面から数10mの高さに橋桁があり、アーチ橋も迫力があります。 橋は通行止めになっています。列車の通る幅だけあるのですから十分幅は広 いのですが、両脇の防護柵がないし、雪がかまぼこ型に盛り上がっているの で転落したら怖いし、とにかく通りませんでした。 <三の沢〜トンネル>: R273の三の沢橋を渡り、再び軌道跡を歩きます。自然センターの人には 「三の沢からすぐにトンネルになるし、糠平まで3つぐらいトンネルがある から、三の沢でやめた方がいい」と言われてたのですが、行けるところまで 行ってみました。1kmほどでトンネルが出てきました。鉄条網が入り口に張 ってありましたが、今度は「通行禁止」の表示はなし。だからと言っても向 こう側も見えないし、やっぱりここでリタイヤすることに。 しかし、この辺りはややR273から外れており、道が見えません。トンネル 周囲は急斜面。さてどうしたものかと考えましたが、斜面にエゾシカの通り 道を見つけました。結構な数のシカが通ったようです。ここでツアーで聞い たエゾシカの体重の話を思い出しました。エゾシカが雪にもぐらずに歩けた なら私ももぐらずに歩けると気づき、スキー板をかついで斜面を足跡通りに 登りました。だいぶ登ったところでR273が見えました。シカの足跡はR273で はなく森の奥へ続いていたので、足跡を離れてR273へ向かって歩き出しまし たが、シカが踏み固めていないので足がもぐって難儀になりました。 あとはR273をずーーっと歩いて糠平温泉へ。全行程約2時間半。森は夏だ と笹やぶで歩きにくくなるけど、この時期なら歩きやすく、クロカンと組み 合わせた史跡探訪はなかなか名案でした(と思うのは私ぐらいか--;) ★★ 渚滑線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.3.31 区間 渚滑−(元西)−下渚滑−(十六号線)−中渚滑−(上東)− 上渚滑−(奥東)−滝ノ下−(雄鎮内)−濁川−北見滝ノ上 沿線自治体 [1-6-4]紋別市、滝上町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くV,JTBキャンブックス,1998 ○記念館(資料館) 確認できず(1999.8) ○遺構 <北見滝上市街>:鉄橋あり。(1990.5) <渚滑〜中渚滑>:渚滑の市街を抜けて国道273号に入ると、中渚滑まではずっ と滝上に向かって左側の道路脇に道床が残っている。(1999.8) <渚滑駅>:名寄本線の項参照。 <その他>:滝上には道の駅があるが、北見滝ノ上駅跡とは無関係。位置的に 道床が敷地として使われてはいる。(1999.8) ★★ 白糠線 ★★ ○データ 廃止年月 1983.10.22 区間 白糠−上白糠−(共栄)−茶路−縫別−上茶路−下北進−北進 沿線自治体 [1-6-2]白糠町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 現地調査は行われているが確認できず ○遺構 多数あり。調査報告参照。 ***** 調査報告(1984.10、1995.5、1996.5、2002.12 by H.O)***** 1.どこを走っていた線路か 釧路本線の白糠駅からR392沿いに二股(駅名は北進)まで続いていた路線で す。計画では奥へ延ばして足寄へ、更に上士幌を通って新得まで延ばし(上士 幌−新得間は北海道拓殖軌道を利用)、根室 本線のエスケープルートとする、 という遠大な構想があったようです。 足寄の遺構(2002.12):本別からR242を足寄へ向かって北上すると、市街地 に入る直前でR241と分岐しています。この辺り、国道が跨線橋になっており、 足元を白糠線(っていうんでしょうか)の路盤があります。 2.白糠線の歴史 1950(昭和25)年 7月 白糠 −上茶路 開通 1972(昭和47)年 9月 8日 上茶路−北進 開通 1983(昭和58)年10月22日 廃止 開通から僅か11年で国鉄再建計画の先頭を切って廃止されてしまいました。 3.私がたどった軌跡 最初にここを訪れたのは廃止になってまだ1年たたない1984年の10月上旬。 まだ廃止対象の他の線はなくなっておらず、なぜ白糠線が真っ先に廃止にな ったのかに興味があって訪れました。この時は代行バスに乗って白糠−上茶 路を往復しました。朝は通学の生徒で満員になったけど、沿線にはぱらぱら としか人家がなく、なくなった理由がわかったように思いました。 2回目は10年半後の1995年5月。本別方面から白糠へ向かってR392を走りま した。本別を出ると間もなく山の中に入りました。人家は全く見当たりませ ん。代行バスの終点、二股に着きました。着くまで二股と北進駅の関係を知 らなかったのですが、あたりを見回すと「北進小学校」がありましたので、 集落名は二股、駅名は北進だったのだとわかりました。ただ一人通りかかっ たおばさんに聞いてみました。 「あのー、昔ここに鉄道の駅があったって聞いたんですが…。」 「もう随分前になくなっちゃったよ。跡も何も残ってないよ。上茶路なら 駅残ってるけどね。」 「駅があったのはどの辺でしょうか。」 教えてくれた通りの場所に北進駅の跡がありました。右股へ向かう道路の2つ 目のじゃり道に手製の「ヤギの里」という看板が立っており、降りた所です。 地図: 至 右股 北進駅跡 \ (2)/ (1)北進小学校 \ / (2)「北進駅跡 ヤギの里」 \-- 農家 の看板 \ R392 \ (1) 至 本別 −−−−−−−−−−−−−−− 至 白糠 レールは外され、ホームもなく、短い草が生えているところにヤギが10頭 ほど放し飼いにされていました。「あれ、なんだ?」という顔で全員?がこ っちを見ています。「怪しいもんじゃないよ。」とは言ったものの、うさん 臭そうに私の動きに合わせて遠巻きにこちらを見ていました。駅の跡の証拠 は放置された何本かの枕木でした。 R392は何度も鉄道と交差しています。鉄道が上で国道を跨いでいる所が殆 どです。つまり他の多くの路線とは違い、道路より後に鉄道が開通したので す。長年に渡って誘致活動が続けられたもののなかなか実現せず、先に道路 整備が進み、鉄道の意味が薄れた時期になってようやく建設が決定したので す。鉄橋はどれもごく普通のコンクリート製。何カ所か鉄橋に登った踏み跡 がついてます。レールは敷かれたままで木や草がぼうぼうに生えてました。 トンネルもあります。穴もふさがれずに残ってます。 おばさんの一言で「ひょっとしたら上茶路の駅は記念館になっているか も。」と期待しましたが…。国道右側(北進から走った場合)にあった上茶路 は10年半前と同じく廃虚のままでした。 …………。 雨の音を聞きながら待合い室に立ってしばらくぼっとしてました。確かに 廃虚の度合いは進んでました。窓ガラスは全部なくなり、待合い室と駅務室 の間に打ちつけられていたベニヤ板もなくなって駅務室とその奥の仮眠室(二 段ベッド)が見えていました。改札を通ってホームに出ると、持ち去られた 駅名表示の立て看板のあとにいかにも手書きの看板が立っていました。 線路には軌道自転車(自転車を2台平行につないで2人漕ぎにしてあります。 車輪はタイヤではなく、列車と同じようにU字型で保線用のものです)。すっ かり錆びて、つる草がからまって埋もれていました。 このあたりはヒツジを飼う農家が点在し、ラム肉のレストランや羊毛のク ラフトショップなどもありますが、駅前のよろずやは駅舎同様ひどい廃虚で した。白糠まで人家の少ない所を真新しいけれども使われなくなった鉄橋が 累々と続いていました。 白糠駅脇の跨線橋(歩道橋)に登って見ましたが、白糠線のあった3番線は あまり鉄道の跡を感じさせません。「白糠線を知ってますか」と大書された 看板が駅舎の1番線側に飾られていましたが、ペンキがはげちょろになって いました。 4. 調査雑感 10年半前に訪れた時は「こんなに人がいないんだから、なくなるのも当然 かな」と感じましたが、何も変わってない跡を見て(そりゃ細かい点は変わっ てるわけですが)、何事もなされずにほったらかされているのを見て、言い ようのない空しさを感じました。線路に立ち、上茶路の駅に立ち、雨の音を 聞きながら、 「ここでは時間が止まっている。」 そう思いました。 ★★ 深名線 ★★ ○データ 廃止年月 1995.9.3 区間 深川−円山−上多度志−多度志−宇摩−幌成−下幌成−鷹泊−沼牛− 新成生−幌加内−上幌加内−雨煙別−(政和温泉)−(下政和)−政和− 新富−添牛内−(大曲)−共栄−朱鞠内−湖畔−宇津内−蕗ノ台− 白樺−北母子里−初茶志内(後の天塩弥生)−西名寄−名寄 沿線自治体 [1-2-4] 深川市 [1-7-4] 幌加内町、名寄市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 鷹泊にあり。調査報告2参照。 ○遺構 深川側から順に調査した年代順に並べてあります。名羽線(朱鞠内− 羽幌間で工事が進められたが、開通しないまま廃止)の遺構も載せました。 <全体>:1996〜97年にかけて、踏み切り前後の急コーナーを緩和する工事が 行われたようです。96年まで確かにあったシケインが、春には無くなってい ました。……走りやすくなったけど物足りないなぁ。 (1997年春) 幌加内から沼田に向けてR275を走りましたが、道路からチラチラと眺めた 感じでは、一部区間で線路を撤去した後の盛土部分を綺麗に整備しているよ うに見えるところがありました。もしかすると、サイクリングロードか何か を作るのかもしれません。だいぶ面影はなくなってきていますが、鉄橋など は、そのまま残っていますので、国道脇からでもまだその存在を確認するこ とができます。 (1999.5) <多度志駅>:駅舎の開口部という開口部には全て板が打ち付けられ、中に入 れないようになっていた。 (1995.10) <宇摩駅>:深川市・上宇摩の集落内。R275を名寄に向かって左側に駅跡あり。 (1997.7) <下幌成駅>:深川市・幌成の集落と幌成橋の中間に駅跡あり。 (1997.7) <鷹泊駅>:駅舎とホームは残存しているが、構内のレールは撤去済。 (1998.5) <幌加内峠の少し深川寄り>:R275が跨線橋になっている。 (1997.7) <新成生駅>:ホームの支柱のみ残る。 (1995.10) <幌加内駅>:駅舎はそのままJRバス・深名線の待合所として使用されていた が、2000.3.19、火災により全焼。幌加内町が管理し、冬の間は暖房用とし て駅舎内で灯油ストーブを使用していたが、管理人などは置いていなかった という。現在は駅前のロータリー部分はそのまま舗装が残っており、バス停 も元駅舎に一番近い部分にそのままあるが、駅舎のあった部分は完全に更地 になっており、トラックなどの大型車の駐車場になってしまっていた。駅前 の食堂などもそのままの場所で営業を続けてはいるが、駅舎がないと、「な んでこんな所にポツンと食堂が?」という気がして、なんか変だ。 (2001.9) <上幌加内駅>:幌加内市街の北にあたり、R275の名寄に向かって右側に駅跡 あり。 (1997.7) <新雨煙別橋>:鉄橋残存。 (1997.7) <雨煙別駅>:近くに橋梁が幾つか残っていたのですが、そこへ行く道路は近 くになかった筈です。 (1998.5) <政和温泉>:駅近く、R275の名寄に向かって右側に鉄橋残存。 (1997.7) <政和温泉〜添牛内>:レールや枕木、橋梁の撤去は終わっており、一部は農 地に転換されつつあるようです。 (1998.5) <政和駅>:幌加内町内・政和集落の中。R275の名寄に向かって右側に駅舎残 存。 (1997.7) <大曲付近>:R275が跨線橋になっている。 (1997.7) R275の初瀬尾跨線橋を中心にした一帯では、踏切付近を除いてはレールが 残ってました。 (1997.9) <共栄駅>:駅跡付近には、踏切付近を除いてレールが残っていた。 (1997.9) <共栄〜朱鞠内>:R275の美雪橋の東に、プレートガータ−橋がレール付きで 残ってました。 (1997.9) <朱鞠内駅>:今でも変わりが無く見えます。バスの待合所になりましたが、 基本的にそのままで、まだノートがあります。 (1997.4) 朱鞠内市街から道道・蕗の台朱鞠内停車場線に入らず、R275を東に進ん だ朱鞠内湖パーキング?付近から、深名線跡や名羽線(跡?)が遠望できます。 (1997.9) <朱鞠内付近の名羽線跡>:朱鞠内市街からキャンプ場への途中に下図の・・ ・・で示す未舗装の林道(注:標識なし)があり、約3.6km先のゲートまで入れ ます。この林道のすぐ北側に、未完成で放棄された国鉄・名羽線の跡が続い ています。 # が、融雪直後と晩秋*以外*の季節に行っても、何も見つけられないかも #しれません :-)。 ちなみに、この林道のあたりも「ヒグマが出ても誰も驚かない場所」なの で、徒歩や自転車での単独進入は避けるべきでしょう。 キャンプ場 ↑ ====||=朱鞠内川 ふれあい|| の宿|| ・・・・|| ↓ 朱鞠内市街 (1997.9) <湖畔〜蕗の台>:PCガーター橋が残ってますが、レールの有無は不明。道道 ・蕗の台朱鞠内停車場線は、相変わらずキャンプ場から蕗の台まで(道道と しては :-))ややハードなダートです。ちなみにこのあたりでは、車道がヒ グマの縄張りの中を貫いていますので、徒歩や自転車での単独通行は避ける べきでしょう。 (1997.9) <白樺駅>:調査報告1参照。 <北母子里駅>:駅舎、ホーム、線路ともに残っています。場所は、幌加内町・ 北母子里の交差点(注:母子里唯一の信号があるところ)の少し朱鞠内寄り(注 :100mあるかないか)を湖側に曲がると200m程であります。ただし、*私有地* とのことなので、むやみに立ち入るのはやめましょう。 (1997.9) <北母子里−天塩弥生−西名寄>:西名寄側の数kmにわたって路盤が現存してい る(2001.5)。天塩弥生駅の東から北母子里側の現況は(天塩弥生駅を含めて) 未確認。ただし西名寄の西で平地が途切れてからずっと耕作が放棄された原 野が続いているので、おそらく路盤は名雨トンネルまで続いているものと推 定される。 朱鞠内〜母子里にある地名の判らない場所 :-)から標識にしたがって風連 に向かい、途中の西風連から名寄に向かうと、名寄市・弥生地区の西にある 道道・西風連名寄線の初茶志内川の橋のすぐ西で、車道が元・深名線の築堤 を潜っています。レールの有無は不明です。 (1997.9) <西名寄駅>:駅跡は米の低温保存のための倉庫になっており、遺稿は見出せま せん。 (調査年月2001年5月以前) <西名寄−名寄>:地上から観察する限り、天塩川から西では路盤は見出せなか った。天塩川から東では名寄駅の近くまで(ほぼ)東西方向に路盤が残ってい る。 (2001.5) ***** 調査報告1 (1995.8, 1995.9.3 by H.A) ***** 1.深名線の歴史(「幌加内町史(1971(S46)年発行)」より) 1923(大正13)年11月25日 深川・多度志間開業 1925(大正15)年11月10日 多度志・鷹泊間開業 1929(昭和 4)年11月 8日 鷹泊・幌加内間開業 (沼牛駅・幌加内駅開業) 1931(昭和 6)年 9月15日 幌加内・添牛内間開業 (雨煙別駅・政和駅・添牛内駅開業) 1932(昭和 7)年10月25日 添牛内・朱鞠内間開業(朱鞠内駅開業) 1941(昭和16)年10月10日 朱鞠内・名寄間開業 (宇津内駅・蕗の台・白樺・北母子里駅開業) 1955(昭和30)年 8月 9日 レールバスを導入 9月 2日 新富駅開業 9月23日 乗降場(新成生・上幌加内・下政和・大曲・ 共栄)を設置 1956(昭和31)年 5月11日 湖畔乗降場設置 1958(昭和33)年 0型気動車導入 1961(昭和36)年12月 1日 下政和乗降場を政和温泉乗降場と改称 1966(昭和41)年 4月19日 液圧式気動車導入 7月27日 名羽線起工(朱鞠内側) 1968(昭和43)年 9月 4日 国鉄諮問委員会による廃止勧告 24日 「深名線廃止反対期成会」結成 2.見てきたもの <白樺駅跡>:(1995.8) 北母子里から蕗の台方面に向かって、湖の北側を走っていくと、すぐに見 つかります。このあたりで数少ない道路の案内版(青に白字のもの)で、白樺 駅0.1kmという表示があるからです。これに従って、左に入る(降りる)とす ぐにちょっとした空き地があります。さらに進むと駅跡です。遺跡は、コン クリートの建物の基礎と、線路のほうに降りるコンクリートの階段です。そ れと、本線に直角に2mくらいのレールがありました。駅舎があったと思われ る位置からは、線路はかなり下のほうという感じでした。階段が結構痛んで おり、雨が激しくなってきたので、階段は降りずじまいでした。草も深くな っており、ホーム跡はわかりませんでした。 「幌加内町史」によれば、昭和29年の15号台風(洞爺丸台風)の風倒木の処 理で人口が増えましたが、処理が終わると農業のための入地者もいなくなっ たようです。昭和36年に無人駅になっています。廃止された年は町史にはあ りません。(編者注:「廃線国鉄の停車場一覧」によれば、1990.03.10となっ ています。)かつては、約50平方メートルの駅本屋に倉庫・石炭庫の施設があ ったそうです。今は線路があるのすら異様な感じです。 <イベントいろいろ>:(1995.8) 廃止が近くなったので、いろいろなイベントや記念グッズの販売をやって います。乗車券(全駅セット)にオレンジカード、写真集、駅舎の絵はがき といったところです。イベントとして、スタンプラリーや「あなたもタブレ ットを運んでみませんか?」というものもありました。郵送での販売も受け 付けていまして、幌加内の駅員さんはその対応で忙しそうでした。 <95年9月3日(日)>: 白樺をデザインしたヘッドマークをつけた「さよなら深名線号」が(最高 で10両編成)、満員の乗客を乗せて走りました。名寄・朱鞠内・幌加内・多 度志・深川の各駅では「お別れ式」が行われました。 最後の列車は、朱鞠内を20時ごろに出る臨時列車でした。これを見送るた めに、再び朱鞠内駅に行きましたが、あまりに人が多いので、予定を変更し、 (通過駅ですが)政和駅で送ることにしました。 政和駅に着いたのが20時過ぎ、既に明かりが消えていましたが、中には地 元の方が2人いました。手分けして、幌加内町内の駅の看板を外していると のことでした。地元では鉄道記念館をつくる予定があるので、そのためにも 保管しておきたいと話してくれました。 しかし、廃止間際に随分盗まれてしまったようで、この政和駅でもホーロ ーの駅名標がなくなっていました。 #怒るというよりも嘆いていました。この政和駅でお会いしたかたは、み #な一様に鉄道マニアの非常識さを嘆いていました。「普通じゃないから、 #言ってもムダ・・・」と言っておられました。想像以上にトラブルがあ #ったんでしょう。 話しをしているうちに、近所の方が列車を見送るために集まってきて、誰 かが「明かりがつくはず・・・」と外のスイッチをさがして明かりをつけて くれました。政和駅がちょっとだけ生き返ったようでした。総勢10人程で、 手を振って列車を見送りました。 その後幌加内の駅に寄りましたが、ちょうどさっき政和を通過した列車に さらに増結して発車するところでした。駅前には物を売るテントが並び、異 様な熱気に包まれていました。 長い長い一日でした。もう2度と列車の来ない踏切を何度も複雑な想いで 渡りながら、札幌に帰りました。 残念だったこと。 朱鞠内駅の付近には食事ができる場所がなく、駅前の商店でカップ麺を買 って(お湯はサービス)食べる人が多かったのはいいんですが、食べたアトが 問題。容器をポイ捨てしたり、食べ残しをホームから線路に捨てたり!! ***** 調査報告2 リフレッシュプラザたかどまり(1998.5 by A.S) ***** 名前だけだと温泉保養センターみたいですが、内部に「深名線記念室」が あるのです。 <概要>:深川市の北部・鷹泊の市街 :-)の北の外れにある新設の福祉施設? です。現地は数年前?に廃校になった鷹泊小学校の跡地のため、ちょっと古 い地図では「鷹泊小学校」が載っています。 住所:深川市多度志町鷹泊605番地47 TEL:0164-28-2008 中身は鷹泊駅の備品や深名線の沿革を説明するパネル、「ファンが撮った」 という解説付きの、晩年の深名線のビデオ上映といったものが主体です。 <料金等>:入館無料。開館は9-17時。休館日は毎週木曜と12/31-1/5。木曜が 祝日と重なった場合…聞くのを忘れました(_ _;)。 <行き方>:車/バイクの場合、R275を進むと鷹泊市街の北で「鷹泊ダム」を示 す標識がありますので、そのすぐ南〜鷹泊市街寄り〜をダムとは反対方向に 入ります。畑の中にある新しい建物です。バスの場合は深川から鷹泊までJR バス深名線でパンフレットによれば45分です。 # このあたりはおそらく「自由乗降区間」の筈ですので、運転手さんに #「鷹泊小学校」と言えば、ここへの入口で下ろして貰えると思います。 <ちなみに>:車イスでの来館を考えて…だと思いますが、建物は平屋で玄関 前にスロープがあります。その一方で館内に敷居があったり、玄関に上り框 があったりで、イマイチ理解に苦しむ設計だったりします。まあ職員が常駐 する施設なので、声をかければ手助けが得られると思いますけど。 ★★ 瀬棚線 ★★ ○データ 廃止年月 1987.3.15 区間 国縫−茶屋川−美利河−花石−北住吉−種川−今金−神丘− 丹羽−東瀬棚(後の北檜山)−瀬棚 沿線自治体 [1-1-2] 長万部町 [1-1-3] 今金町、瀬棚町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) なし ○遺構 調査報告参照。 ***** 調査報告(by H.O 2003.4.29,30) ***** <国縫駅> ・函館本線の現役です。 ・跨線橋の上り口の乗り場案内に3番線の瀬棚線を消した痕跡があります。 ・瀬棚線と函館本線の分岐は駅から函館寄りにあり、瀬棚方面に別れていく路盤 があります。 <国縫−茶屋川> 山間部でR230と交差しています。路盤が眼下に見えます。 <茶屋川駅> ・R230の瀬棚に向かって右側にあります。飲料とビニ本の自動販売機計4台が駅 正面を塞ぐ格好で並んでいますが、裏手には崩れたホームと路盤が残っています。 <美利河トンネル> ・R230はトンネルなしで美利河峠を越えますが、瀬棚線はトンネルでした。国縫 側入口はR230から離れているのですが、瀬棚側入口はR230から眼下に見下ろす ことができるそうです。(見逃してしまいました) <美利河駅> ・建設が進む美利河ダムの築堤の正面、瀬棚に向かってR230左側にあったはずな のですが、跡形もありませんでした。 <美利河−花石> めのう橋付近でR230と交差(路盤が下)しています。 <花石駅、北住吉駅> 確認できず。 <北住吉−種川> R230は北住吉で90°曲がって西進します。このあたりから平野部になり、瀬棚 に向かって右側のR230に沿って路盤が続いています。 <種川駅> ・種川の集落にありました。だだっ広い細長い草っ原になっています。貨物の 集積所でもあったのでしょうか。 <今金駅> ・市街地を通る路盤は遊歩道「オランダ通り」となってチューリップが植えられ、 駅跡には「デ・モーレン・いまかね」という名称の5枚羽根の風車があり、展 望台や特産品コーナーがあります。 ・ホームとレールは残されています。 ・駅名看板もありますが、字体から察して現物ではありません。 <今金−神丘−丹羽(にわ)> ・R230から外れて利別川沿いを走る道道と交差しながら畑の中を走っていました。 所々路盤と小さな川を渡る橋脚が見られます。 <神丘駅> ・畑の中にホーム跡が残っています。前後に路盤が残っており、ホームに植えら れていた植栽が大きくなって遠望できます。 <丹羽駅> ・駅周辺は「丹羽多目的保安林」となって児童公園などがあります。 ・路盤が築堤となって残っており、小さな跨線橋も見られます。 <丹羽−北桧山> ・R230を瀬棚に向かって左側に並行して走っていました。路盤が残っています。 ・荷卸には鉄橋が残っています。 <北桧山駅> ・駅舎が「函館バス北桧山ターミナル」としてそのまま使用されています。バス の発着場所は駅前ロータリーではなく線路側です。バスは駅舎をぐるっと回っ て裏手から発着し、乗客も待合室と改札を通り抜けるようにできています。 <瀬棚駅> ・市街地にあり、跡地は日帰り入浴施設やすらぎ館になっています。 ・駐車場にマイルポストと記念碑、後から作った駅名看板が立っています。 <調査雑感> 山深かった美利河には巨大な美利河ダムができました。国縫駅すぐ脇を高速道 路が通っています。北桧山には突然、インターと思われるらせん状の巨大建造 物が空に向かって伸びていました。高速ってこっちを通って函館へ行くんだっ け?それとも支線を作るのかな?? これといった目玉産業や観光資源がある わけでなし、このひなびた片田舎の町々はどうなろうとしているのでしょうか。 ★★ 手宮線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.11.5 区間 南小樽*−色内−手宮 *南小樽駅は開業当時の「開運町」から「住吉」→「小樽」となり 現在の小樽駅の開設に際して「南小樽」となりました。 沿線自治体 [1-3-3] 小樽市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIII,JTBキャンブックス,1997 ○記念館(資料館) 手宮駅跡に「北海道交通記念館」があります。9章参照。 ○遺構 小樽運河に平行して少し函館本線寄りのところに線路が残り、レー ルもさび付いたまま残っています。小樽駅から運河へ向かって中央通り? を歩くと踏切があったのですが、道路拡張工事のため線路ごと撤去されて しまいました。車道以外の部分は積雪のため、まだレールがあるのかどう かはわかりませんでした。道路の端の方をよーく見たら、地上から50cmぐ らいのところに残っている線路がありました。(2002.1)。 観光案内所でくれる絵地図にはまだ載ってるかな。 廃止当時は貨物線だったので、印象が薄いですが、北海道初の鉄道です。 このあたりについては4章「北海道鉄道事始と手宮線」で紹介しています。 また、「幌内線」でも廃止後の様子を紹介しています。 ★★ 天北線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.3.31 区間 音威子府-上音威子府-(天北栄)-小頓別-上頓別-恵野-敏音知-周麿- 松音知-上駒-中頓別-寿-新弥生-下頓別-常盤-浜頓別-(北頓別)-山軽- 安別-飛行場前-浅茅野-猿払-芦野-鬼志別-小石-曲淵-沼川-樺岡- 幕別(後の恵北)-(東声問)-声問-宇遠内-南稚内 沿線自治体 [1-7-3] 稚内市 [1-7-2] 猿仏村、浜頓別町、中頓別町 [1-7-4] 音威子府村 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIV,JTBキャンブックス,1997 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVIII,JTBキャンブックス,2001 ○記念館(資料館) 浜頓別町内・浜頓別バスターミナル内の一角に展示スペースあり(1995.11) 宗谷本線・音威子府の駅舎内に展示スペースあり(2002.5) 中頓別・鬼志別の両バスターミナル内に資料展示があるらしいが詳細不明 ○遺構 音威子府-浜頓別はR275沿い、浜頓別-鬼志別はR238沿い、その後内 陸部の道道・豊富猿払線、道道・稚内豊富線沿いを通って声問-稚内は再 びR238を通っており、道路近接区間ではいろいろ散見できる。 <音威子府駅>:1-3番線のうち、天北線は3番線を使用していたが、現在は宗 谷本線の上りが使用しており、痕跡はない。(2002.5) <音威子府−上音威子府駅>:橋だけは既に撤去されたものの、その他の路盤 は殆ど現存。(2001.5) <上音威子府駅>:音威子府からR275を約5km北上した右側に駅舎とホームあり。 無人の山野に佇む倒壊寸前の廃墟。駅の正面にも離農農家の家屋とサイロ。 待合室の戸は閉ざされているが、破れた駅務室の戸から内部へ入ることがで きる。誰が運び込んだのか、大型農機具が1台、室内を占拠している。切符 売りの小窓、荷物預かりの大窓とも健在。壁には配電盤、戸棚の中には主を なくした湯のみ茶碗。割れたガラス窓とはがれた壁や天井が風に揺れてカサ カサ、カタカタと音を立てている。 線路側の出入口は閉ざされているので、外から線路へ回る。石が積まれた ホームが石の縁を残して熊笹に覆われて残っていた。背後の便所も残ってい た。線路にはレールはなかったが、バラストが残っており、へこみにはまく ら木とレールの痕跡が感じられた。まだ木は生えておらず、生えている草も 高さ数cm程度のごく小さなものばかり。駅の両側にも線路跡が続いている。 音威子府駅の展示ではありし日のこの駅の写真を見ることができる。 念を押すが、相当な廃墟である。屋内立ち入りは自己責任で。(2002.5) <上音威子府−天北栄−小頓別>:天北峠から南では路盤の殆どが現存。小頓 別付近では耕地化されて遺稿は消滅したもよう。(2001.5) R275に「上音威子府跨線橋」が残る(2002.5) <小頓別駅>:「やたら広い」点が『面影』と言えないこともない…というバ スターミナル。駅舎なし。(2001.5) 近くに歌登町営軌道の鉄橋と木橋が残っていた(1997.5)が、鉄橋は撤去さ れていた。(2001.5) # 簡易軌道については、6章の「枝幸線」「歌登線」を参照 <小頓別−上頓別>:サイクリングロードへの転換工事中(2001.5)。 <上頓別駅>:駅舎は残っているが、傾いているような気が…(2001.5)。 <上頓別−恵野>:R275から見える範囲の殆どは耕地化で消滅した模様。 (2001.5) <恵野−敏音知>:路盤の大半が現存(2001.5)。 <敏音知駅>:駅跡を含む一帯が「道の駅」に転換された。遺構は未確認。 <敏音知−周麿>:耕地化で路盤の殆どが消滅したもよう。ただしR275から見 える範囲でも数ヶ所の橋(あるいは橋台だけ)が現存(2001.5) <周麿−松音知>:R275から見える範囲の路盤の内、延べ数100mを除いて耕地 化で消滅したもよう。ただしR275から見える範囲でも数ヶ所の橋(あるいは 橋台だけ)が現存。(2001.5) <松音知駅>:駅舎とホームがR275沿いにぽつねんと建っていた。(1995.10) 公園として整備中? ただし駅舎・ホームともレプリカの疑いがある上、 事前調査の不備から本当に駅跡かどうか不明。「鉄道廃線跡を歩くIV」で は『本物』で『健在』とされているが…。(2001.5) <松音知−上駒>:松音知側の数100mを除いて、R275から見える範囲の路盤は 耕地化で消滅した模様。(2001.5) <上駒−中頓別>:大半がR275から離れているため現状は不明だが、R275と隣 接する区間では、防風林の一角になっている部分だけ路盤現存。(2001.5) <中頓別駅>:バスターミナルになり、ディーゼルカーが保存されている。 (2001.5) <中頓別−寿>:中頓別市街*以外*の区間では、路盤の殆どが残っていた。 (2001.5) <寿駅>:駅跡を含む一帯は「寿公園」として整備された。国鉄時代のSLが保 存されている。SLについては9章参照。(2001.5) <寿−新弥生>:R275から見える範囲では、路盤の殆どが現存。(2001.5) <新弥生駅>:中頓別と浜頓別の町境の南側に路盤とホームの残骸のみ現存。 (2001.5) <新弥生−下頓別>:この区間の路盤の殆どが牧草地に転換されて消滅したも のの、R275から見える範囲でも数ヶ所の橋が残っていた(2001.5) <下頓別駅>:駅跡は市街の裏手にあたり、単なる空地になっている。ここか ら南西方向に宇津内川を遡る森林鉄道が存在したが遺構未確認。(2001.5) <下頓別−常盤>:下頓別側の一部を除いて、路盤の殆どが残存。(2001.5) <常盤駅>: 跡形もなし。(2001.5) <浜頓別駅>:異様に広大なバスターミナルとなっている。ここが起点の興浜 北線については、「興浜北線」を参照。(2001.5) <浜頓別−北頓別−山軽−安別>: サイクリングロード化された。未調査の ため北頓別・山軽の両駅跡の現状は不明だが、「鉄道廃線跡を歩くVIII」 によれば山軽駅跡にはホームや待合小屋が残されているらしい。(2001.5) <安別駅>:サイクリングロードの傍らに待合室と便所が残る。(2001.5) <安別−飛行場前>: サイクリングロード化された。(2001.5) <飛行場前駅>: 崩壊寸前の木造ホームが残っていた。(2001.5) <飛行場前−浅茅野−猿払>:サイクリングロード化された。浅茅野駅跡は 未確認だが、「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば浅茅野駅跡にはホームが 残り、駅から約1km進んだ猿払川の橋は鉄道用の橋とのこと。(2001.5) <猿払駅>: バスターミナル及び隣接する交通公園となった。(2001.5) <猿払−芦野>: 拡幅され、車道化されてました。(2001.5) <芦野駅>: 地区の集会所の用地となった。(2001.5) <芦野−鬼志別>: 車道への転換が行われていた。(2001.5) <鬼志別駅>: バスターミナル化されました。(2001.5) <鬼志別−小石>: 鬼志別市街以外は、ほぼ路盤が残っていた。(2001.5) <小石駅>: バスターミナルになった。天北線の記念碑がある。(2001.5) # ここから北にある炭礦に通じる専用鉄道があったが、「さけ・ます孵 # 化場」の付近に幾つかのコンクリート塊を残すのみである。(2001.5) <小石−曲淵−沼川>:猿払村と稚内市との境界である峠までの約8kmの内、 道道・豊富猿払線から見える範囲は路盤の殆ど現存しているもよう。ただ し残雪のため詳細は不明。(2001.5) 峠から曲淵までの約9kmについても、道道・稚内猿払線から見える範囲 では路盤の殆どが現存しているようだが、車道から離れた谷底である上に 残雪が多くて詳細は不明(2001.5)。 #「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば曲淵駅跡は公園化された。未調査。 <沼川駅>:駅跡は更地となり、ホームと駅名標のみ残存。(2001.5) # ここから道道・稚内幌延線に沿って幌延市街に達する殖民軌道/簡易 # 軌道があった。 <樺岡−恵北>:線路跡が拡幅されて道道・稚内豊富線に転換されたものと 推定されるが、未確認。(2001.5) <恵北駅>:市街地に「見るからに駅跡」という空地はあるが、直接的な遺 構は未確認。(2001.5) <恵北−東声問−声問>:道道・稚内幌延線とR238との分岐点から南では、 原野の中に路盤が残存。(2001.5) <声問駅>: 声問小学校の北にある空地である(2001.5)。 <声問−宇遠内−南稚内>:R238の南側に連続する空地となっているようだ が、車道沿いに建物が多いので確認できたのは一部分のみ。(2001.5) <南稚内駅>: 現在も宗谷本線の駅として盛業中。 ★★ 富内線 ★★ ○データ 廃止年月 1943.11.01 # 鵡川−上鵡川の完成に伴う切替え 区間 沼ノ端-北松田-ニナルカ(後の静川)-上厚真-入鹿別-上鵡川(後の豊城) 廃止年月 1986.10.31 区間 鵡川-上鵡川(後の豊城)-萌別(後の春日)-芭呂沢-生鼈(後の旭岡)- 木金似-似湾(後の栄)-杵臼(後の豊田)-穂別-深牛-辺富内(後の富内)- 幌毛志-振内-似世宇-岩知志-日高岩内-日高三岡-日高町 沿線自治体 [1-2-2] 鵡川町、穂別町 [1-5-1] 平取町、日高町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) <振内鉄道記念館>:振内駅跡にある。駅舎を立て替えた?バス営業所&待合室 に資料館が併設されている。道具類、年表、写真等の室内展示が充実してお り、林業資源開発が敷設目的だったことが判る。資料館としては比較的大き な方で、R237に「記念館」の案内表示がある。入館無料。屋外にはホーム、 腕木信号機があり、国鉄時代のSL(D5123)と客車2両(スハ4537+スハフ42519) が展示されている。(2000.5) <富内駅>:駅舎、ホーム保存、説明展示少々。映画「鉄道員・ぽっぽや」の 小道具(手動式券売機など)多数がここから貸し出されたそうだ。(2001.5) ○歴史 (上記2駅の展示資料から) 1922(T11) 北海道鉱業鉄道株式会社によって金山線が開通。 当初の区間は沼ノ端―生鼈(後の旭岡)。 1923(T12) 似湾(後の仁和)まで延長、更に11月11日辺富内(後の富内)まで 開通。約73km、13駅。 1943(S18) 日本国有鉄道に譲渡移管。沼ノ端-上鵡川廃止,鵡川が起点となる。 1958(S33) 振内まで延長。 1959(S34) 日高町まで延長。総延長82.5km。 1986(S61) 国鉄再建法により廃止。 ○遺構 <日高町駅>:R237とR274が交差する日高町交差点にセイコマートがあり、 この裏手が駅。「国鉄富内線跡」と刻まれた大きな石が芝地に置いてある。 (2001.5) <日高三岡駅付近のトンネル>:日高町を出発してR237を3kmほど南下すると 紅葉橋を渡るが、右の山側に入口の塞がれたトンネルが残る。(2001.5) <日高岩内駅付近のトンネル>:日高竜門からR237を2kmほど南下すると景勝 橋を渡るが、右の山側に入口の塞がれたトンネルが残る。(2001.5) <岩知志付近>:日高町から出発してずっとR237の右側だった富内線は岩知 志ダム付近で左側になる。岩知志ダムから2,3kmほどの所に路盤に残った 勾配表示、めがね橋の鉄橋が見られる。(2001.5) <仁世宇駅付近のトンネル>:仁世宇の集落付近にはR237左側(日高町から鵡 川に向かって)にトンネルがある。(2001.5) <振内駅付近の鉄橋>:振内駅(記念館になってる)から鵡川へ向かうとすぐ に鉄道はR237を跨いでおり、鉄橋が市街地に残っている。(2001.5) <幌毛志付近の橋脚>:幌毛志からは富内線はR237と別れて道道514号を富内 へ北上するが、R237と道道514号の三叉路付近に鉄道が跨いでいた橋脚が 残っている。(2001.5) <穂別トンネル>:幌毛志-富内間は穂別峠の峠越えで、穂別トンネルの掘削 は難工事だったと振内の記念館で紹介されている。幌毛志側の入口は峠手 前から左下にちらりと望める他、峠手前左約500mから始まるダート数百mで 到達できる。苦労して穿ったものを塞いであり、何とも空しい。(2002.5) <富内駅>:記念館の項参照。 <穂別駅>:穂別市街で「ふれあい公園」になっている。(2001.5) <栄駅>:道道518号と道道349号(早来への抜け道)の三叉路を道道349に入 り、鵡川を渡ったところにあったはずだが、今はかつての駅前だったと思 われる貯木場と郵便局のみ(2001.5) <富城−鵡川>:整地されて畑になったのか、痕跡発見できず。(2002.5) <鵡川駅>:今でも日高本線の駅。構内は広いが富内線の痕跡も記念展示も ない。富内線は内陸の為の鉄道であったことが推測される。(2002.5) ★★ 名寄本線 ★★ ○データ 廃止年月 1989.4.30 区間 名寄-中名寄-上名寄-矢文-岐阜橋-下川-二ノ橋-幸成-一の橋-上興部- 瀬戸牛(後の西興部)-六興-中興部-班渓-宇津-北興-興部-(秋里)(後の旭 ヶ丘)-豊野-沙留-富丘-(川向)-渚滑-潮見町-紋別-元紋別-一本松-小向- 弘道-沼ノ上-旭-川西-●中湧別-北湧-(厚生病院前)-上湧別-一区中通 (後の共進)-社名淵(後の開盛)-学田(後の北遠軽)-遠軽 ●中湧別-四号線-下湧別(後の湧別) 沿線自治体 [1-7-4] 名寄市、下川町 [1-7-2] 西興部村、興部町 [1-6-4] 紋別市、湧別町、上湧別町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVIII,JTBキャンブックス,2001 ○記念館(資料館) <興部駅>:「道の駅」に生まれ変わり、駅舎も残されている。資料館あり、 入場無料、開館時間:8:30〜18:00。 <中湧別駅>:湧網線の分岐点でもある。「道の駅」に生まれ変わり、駅舎が 保存されている。 ○遺構 <捜し方>: 名寄−興部 : R239沿い。道路のどちらかの脇を並行している。 興部−中湧別: R238沿い。現在の国道はバイパス化が進んで町の中心部を通 らないので、沙留、渚滑、紋別などは旧道沿い。 中湧別−遠軽: R242沿い。車道と並行しているところもあるが、やや外れた 所を通っている部分もある。 以下、名寄から順に。調査年のないものはすべて2001年5月調査。 <名寄駅>: 宗谷本線の駅として盛業中。 <名寄−中名寄>:名寄市街の南で宗谷本線の東側に国鉄時代のSLと除雪車(9 章参照)が展示されているが、この場所は名寄本線の跡地である。 <中名寄駅>:R239を挟んで日彰小学校?の反対側に相当する。未調査だが、 「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば駅舎に史料が展示されているようである。 <中名寄−上名寄>:途中にあるR239の跨線橋を挟んで(ほぼ)西北西−東南東 に続いているが、耕地化が進んでおり路盤の残存は殆どない。 <上名寄駅>:「上名寄」という地名は名寄市*ではなく*上川郡下川町にある。 ただし駅跡は上名寄地区の西の端にある十一線付近。未調査。 # 名寄市と下川町との境界の下川側。 <上名寄−矢文−岐阜橋−下川>:この区間はR239の南側を車道に並行してい た。耕地への転換が進行しており、路盤の残存は殆どない。矢文・岐阜橋 とも未調査であるが、矢文は十五線付近、岐阜橋は二十一線付近とされる。 <下川駅>:バスターミナルとなっており、2両のディーゼルカーが町の集会 施設として使われている。「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば、バスターミ ナルに史料が展示されているらしい。 #この駅から北のサンル川、南の下川パンケ川、南東の下川ペンケ川に沿 #って森林鉄道が伸びていた。 <下川−二ノ橋>: 線路跡がR239に隣接して*いない*ので未調査。 #「鉄道廃線跡を歩くVII」には『下糠川』の橋が現存、と記されているが #同書の付図では『下川ペンケ川』と考えるのが自然。詳細不明。 <二ノ橋駅>:R239の『二ノ橋跨線橋』から約700m下川よりにある工場の付近 であったが、詳細不明。 #「鉄道廃線跡を歩くVII」では『二ノ橋跨線橋』付近とされているが、キ #ロ数から考えるとおかしい。 <二ノ橋−幸成−一の橋>:ずっとR239に隣接しているが、遺構は見出せず。 <一の橋駅>:コミュニティセンターの用地となっており、遺構は見出せず。 #ここから名寄川本流およびシカリベツ川に沿って森林鉄道が伸びていた。 <一の橋−上興部>:一の橋を出てしばらくはR239と離れて名寄川の北側を辿 るが、天北峠を越える区間はR239の北側を辿っていた。この区間の路盤は 築堤または切通しとして大半が残っていた。 <上興部駅>:当時の駅舎が鉄道記念館となっている。水曜定休。ホームには 旧国鉄のキハ27が休憩舎となっている。 車窓から見た限りこの通り。すぐそばに「道の駅西興部がある」(2002.10) <上興部−西興部>:この区間ではR239から見える範囲での路盤の撤去が進ん でいるが、西興部駅の西側にプレートガーターが残っていた。 <西興部駅>:跡地は温泉&宿泊施設の「森夢(りむ)」と、子供向けレジャー 施設「木夢(こむ)」になった。(2000.5) <西興部−六興−中興部>:線路跡はR239に(ほぼ)隣接していたが、路盤の撤 去が進んでいるようで数ヶ所の橋台を除いては遺構は未確認。 <中興部駅>:中興部は小さな集落だがR239にバス停があり、そのすぐ奥が駅 跡。小さな木造駅舎が残っており、何かの事務所として使われているよう である。保存状態良好。駅周辺では路盤は残っていない。 車窓から見た限りこの通り。(2002.10) <中興部−班渓−宇津>:西興部−興部の境界を含む山間部ではR239に沿って 路盤が残り、町境の東側には興部川の支流にかかるプレートガーターが残 っている。 <宇津駅>:駅跡は「多目的広場」に転換さた。周囲にも路盤は見出せず。 <宇津−北興>:宇津の集落から宇津橋までの間のR239に「跨線橋」があり、 跨線橋の東側には路盤が連続して残っていた。 <北興駅>:駅跡は未確認。市街の周辺では路盤の撤去が進行中。 <北興−興部>:サイクリングロードへの転換が行われている模様。ただし工 事完了区間は興部市街の西の端にあたるR239の『天北跨線橋』から東側。 <興部駅>:道の駅(内部に史料展示あり)になった。列車ホテルがあり、チャ リダーやライダーでいっぱい。保存車両はキハ22251とキハ27109。(1999.8) 列車はレトロ調(緑 + 木枠っぽい縁取り塗装)に塗られています。(2002.10) <興部−旭ヶ丘−豊野>:興部市街の区間はサイクリングロード化された模様。 旭ヶ丘駅跡は興部市街の南東の端であったとされるが、未調査。 藻興部川にはプレートガーターが残っていた。(1999.5?) <豊野駅>:ホームがゲートボール場に転用されているが、雰囲気は残る。駅 舎なし。(1995.11) 紋別からR238を北上すると「←豊野地区」という道路表示がある。この 地点の道路反対側が駅だった筈だが、車上から見た限り何もなし。(1999.8) # 「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば、ホームが残っているらしい。 <豊野−沙留>:R238から見える範囲では、車道の海側に路盤が続いていた。 <沙留駅>:駅跡はR238の旧道沿いの市街地にある。対面式ホーム残存、駅舎 なし。(1995.11) #「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば、駅跡は町営住宅の敷地となったも #のの土盛りのホームが残っているらしい。 <沙留−富丘−(川向)−渚滑>:思沙留川、興部川ともに鉄橋は残っていない。 沙留からオムサロ原生花園付近まで、内陸側に路盤が残っている。(2001.5) #「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば、富丘駅跡には線路の内陸側に雪囲 #いのある階段が遺されているらしい。 国道の湖畔橋近く (思沙留川?) で、鉄橋が残っていました。ついでにこの 区間の一部では通信線の木柱らしきものも確認できました。(2002.10) <渚滑駅>:R238の旧道に「渚滑駅前」と表示された信号機がある。ホームも 駅舎も跡形なく、渚滑線の起点でもあった広大な敷地は2ホールのパークゴ ルフ場になっている。ホール名は「名寄線コース」と「渚滑線コース」、 休憩用あずま屋は「渚滑駅」と名づけられている。(1999.8) # 著名ライダーハウス(笑)である「はた乃食堂」は駅前。 <渚滑−潮見町−紋別>:現在のR238は渚滑市街の北から内陸側を通って元紋 別まで抜けるバイパスになっているが、線路跡は海岸沿いの旧道から少し 内陸側を辿っている。未調査。 #「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば、潮見町駅のホームに登る階段と、 #潮見坂踏切付近の路盤は残っているようであるが。 <紋別駅>:駅前交番があったあたりが立派なバスターミナルになり、駅跡は 一部が道になり、あとは何も無い状態(1997.3.1)。 <元紋別駅>:R238に本紋別バス停があり、中湧別へ向かって右側に待合室付 きの小さな駅舎が残存していた(1999.8)が、撤去された模様。(2001.5) <元紋別-一本松-小向>:R238から見える範囲には内陸側に路盤が残っている。 小河川の橋台は幾つか見出せるが、橋そのものの残存は確認できていない。 また、オホーツク紋別空港のフェンスとR238の間に路盤が残る。(2000.5) <小向駅>:小向の集落にはR238沿いに郵便局があり、駅跡は郵便局前の信号 を中湧別へ向って右折した所。整地され「小向農業公園」となった。 <小向−弘道−沼ノ上>:R238から見える範囲では内陸側に路盤が残存。小河 川の橋台は幾つか見出せるが、橋そのものの残存は確認できず。(2000.5) <沼ノ上駅>:駅名標とホームが残っているが、荒廃が進んでいる。(2000.5) <沼ノ上−旭−川西−中湧別>:沼ノ上から暫くR238沿いに路盤が残っている。 沼ノ上よりのシブノツナイ川にプレートガーターが残っている。(2000.5) <四号線駅>:鉄道では支線(中湧別−湧別間)に位置する。R238が紋別から中 湧別市街に入って直角に右に折れる交差点の右前方にあった。もともと一 つのドアでしか乗降できない踏み台のような駅だったので、跡形もないが、 ここから中湧別に通じる道床はR238沿いに残存。(1999.8) <中湧別駅>:元の駅裏にあたる場所が道の駅になった。元の駅の位置は今の 道の駅の駐車場から、道の駅に入る道路を渡って、輪切りにされたホーム のあたりまで。旧2番ホームには、車掌車2両ずつ(ヨ4407,ヨ4421,ヨ4430, ヨ4433)を溶接した不気味な車両が、旧1番ホームにはラッセル車(型式不明) がそれぞれ置かれている。ホームの屋根には「鉄道資料館」と銘打たれて いるが、道具や年表などの展示物なし。「国有鉄道中湧別保線区之碑」と いう碑もあるが、歴史等の記述はなし。鉄骨板張りの跨線橋は扉と鍵がつ けられているが、工務店関係者?が登っていたので、何か手を加えるのかも しれない(2002.5)。中に資料があり、「中をご覧ください」という看板も あったが、扉に鍵がかかっていて入れず。(2002.7) レールは車両が置いてある所以外はすべてコンクリートで埋められてい る。駅の周囲はすっかりコンクリートで埋められ、その姿は堀を埋め尽く したという徳川家康の大坂城攻めを連想させた。かつては跨線橋から見下 すと背後に遠軽方面、前方に扇形に散開して行く幾筋ものレール、正面は 湧別方面(名寄線支線)、右前方へは網走方面(湧網線)、左前方へは名寄方 面(名寄本線)、という光景を思い出して感慨に耽ったのであった。(1999.8) <湧別駅>:四号線の交差点を湧別方面に向かった湧別市街にあった。駅舎の あったところは道路(1号線)になっている。車止めのあったあたりは消防署 になってしまい、面影が無くなってしまった。(1996.8) <北湧駅>:上湧別中学校への通学用の仮乗降場だったが、今ではすっかり有 名なチューリップ公園っとなった。新しく建った大きな建物のあたりが北 湧駅。昔は名寄本線跡くらいまでしかなかったチューリップ畑もずっと山 側まで広がっており、もう面影は何もない。(1997.5.25) 中湧別−北湧間は線路跡と思われるところが道路になっている。(2002.8) <北湧−(厚生病院前)−上湧別−共進−開盛>:線路跡はR242の東側を辿って いたが、途中駅を含めて未調査。ちなみに「厚生病院前」は開設日が"1955. 12.25"と伝えられているのみで、廃止期日は伝えられていない。(2001.5) <開盛駅>:駅とその付近一部の線路跡が道路になっている。また、新たに開 盛駅跡から上湧別方面に抜ける道が作られ、バスが開盛駅跡を通り開盛市 街を経由するようになった。R242の跨線橋から追えば、線路跡はなんとな くわかる。(1997.5.25) #「鉄道廃線跡を歩くVIII」によれば駅跡はゲートボール場になった模様。 <開盛−北遠軽−遠軽>:開盛市街にある跨線橋から南では線路跡はR242の西 側を辿っていた。詳細は未調査であるが、学田地区で数ヶ所にわたって路 盤の残存が確認できる。(2001.5) <遠軽駅>:駅そのものは石北本線の駅として盛業中。待合室からホームに出 ると跨線橋の手前に電光掲示板(下図。番号はうろ覚え)があり、次の列車 はどっち方面で何番線を使用するか、ホームと行先を点灯させる仕組みに なっているが、最下行は「灯(つ)かずの表示」。(1999.12) −−−−−−−−−−−−−− | ホーム 行先 | | 1 3 札幌・旭川方面| | 23 北見・網走方面| |01 紋別・名寄方面| −−−−−−−−−−−−−− 駅南側の巌望岩から駅構内が一望でき、駅左手に名寄本線跡が見える。 転車台もあり、名寄本線からの引込み線になっている。(2002.5) 巌望岩の足元には国鉄時代の蒸気機関車と除雪車が保存されている。詳 細は9章を参照。(2001.5) ○歴史 興部「道の駅」の展示で、興部町史も兼ねてます。長いですが全文掲載し ます。最初から現在まで寒村であり続け、特に支線である興浜南線は戦時中 は鉄材供出のためレールが撤去されてしまうなど、常に存亡の危機にあった ようです。また、「名寄線」が「名寄本線」になったことがこの年表にはわ ざわざ書いてあり、「本」の有無の違いはきっと大きいのだろう、と想像さ せてくれます(年表書写:1999.8)。 1889(M22) ■藤野漁場沙留支配人金沢岩松、船頭柿下若松が沙留で和 人として初めて定住越冬する。 (注:■は上半分が「又」、下半分が「十」) 1909(M42) 4.1 雄武戸長役場より興部外二ヶ村戸長役場分立。 1915(T04) 3 国会両院において名寄線の敷設決定。 4.1 北海道二級町村制施行に伴い『興部村』と称する。 (注:「戸長役場」と「二級町村」については[2-5-3]参照) 1919(T08)10.20 名寄西線(名寄〜下川間)開通営業開始。 1920(T09)10.25 名寄西線(下川〜上興部間)開通営業開始。 1921(T10) 3.25 名寄東線(中湧別〜興部間)開通営業開始。 興部・沙留駅開業。 10. 5 名寄西線(上興部〜興部間)開通営業開始。 宇津駅開業。興部保線区設置。 1923(T12)11 名寄線を名寄本線に改称。 1925(T14) 1. 1 興部村から西興部村を分村。 1932(S07)10 湧別線のうち、下湧別(現湧別)〜遠軽間を名寄本線に編入。 名寄本線が名寄〜遠軽間となる。 1935(S10) 9.15 興浜南線(興部〜雄武間)開通営業開始。 1944(S19)10 興浜南線営業休止(注:戦争激化による鉄材不足への対処) 1945(S20)12 興浜南線営業再開。 1950(S25) 1.15 豊野駅開業。 1951(S26) 4. 1 町制施行により「興部町」となる。 1955(S30)12 名寄本線、興浜南線にレールバスの運行開始。 1957(S32) 1 名寄本線に気動車(ディーゼルカー)の運行を開始し、旅客 ・貨物輸送分離。 1959(S34) 5 興部運輸区設置。 11. 1 北興部駅開業。班渓・旭ヶ丘・富丘乗降場開設。 1961(S36) 7 紋別に名寄本線管理長設置に伴い、興部運輸区廃止。 1962(S37) 5. 1 遠軽〜札幌間に急行「紋別」、興部〜網走間に準急「天都」 の運行開始。 1967(S42)12 興部保線区が廃止され、中湧別保線区興部支区となる。 1975(S50) 5 名寄〜上興部間に蒸気機関車(SL)三重連によるさよなら 列車を運行し、名寄本線からSLが姿を消す。 1978(S53)12 名寄本線営業近代化実施。宇津駅停留所化、宇津・沙留駅 貨物取扱廃止。 1980(S55) 9.30 準急「天都」運行廃止。 11 「日本国有鉄道再建促進特別措置法」成立。 1981(S56) 6.10 興浜南線が第一次廃止対象路線に選定される。 9.18 興浜南線の廃止が決定。 1982(S57)11 興部駅貨物取扱廃止。 11.22 名寄本線が第二次廃止対象路線に選定される。 12 国鉄名寄本線廃止絶対反対興部町協議会が組織され、名寄 本線存続運動を展開。 1983(S58) 5.13 興部町において沿線十市町村合同による「国鉄名寄本線外 地方交通線絶対確保住民総決起集会」開催。 1984(S59) 6.22 運輸省が第二次廃止対象路線の廃止を承認したが、名寄本 線を含む長大四線は廃止承認を保留。 1985(S60) 7.14 興浜南線廃止。さよなら列車を運行し、50年間の歴史に幕。 7.15 興部〜雄武間に代替バス運行開始。 8. 2 運輸大臣が名寄本線を含む保留四線の廃止を承認。 1986(S61) 3 名寄本線を含む長大四線が、国鉄の分割・民営化後も新会 社において二年間の暫定運行決定。 7.15 第一回名寄線特定地方交通線対策協議会を開催。 10.31 急行「紋別」運行廃止。 1987(S62) 4. 1 国鉄を分割・民営化。北海道旅客鉄道株式会社(JR北海道) が発足。 1988(S63)10. 1 興部町開基百年記念式典挙行。 11.24 第四回名寄線特定地方交通線対策協議会で全線バス転換 決定。 1989(H01) 4.30 名寄本線廃止。さよなら列車を運行し、68年間の歴史に幕。 5. 1 名寄〜遠軽間に代替バス運行開始。 ○調査員の思い出 1988年3月、渚滑駅から名寄行きに乗った時、周遊券を落としたことに気が 付きませんでした。検札の車掌さんが来て、どこでなくしたのかもわからず、 私は泣きベソをかいてしまいました。幸いA券片(発駅から周遊区間までの切 符で、本来は周遊区間で最初に降りた駅で改札に渡すもの)を持っていたため 無賃乗車ではない証明ができ、事は収まりました。 ところがその晩、宿泊先のとほ宿に車掌さんから電話があり、渚滑駅のキ オスクのおばさんが周遊券を届けてくれたという連絡が入りました。車掌さ んは私の下車駅を聞いただけで宿泊先を言い当て、驚く私に対して「その駅 (深名線湖畔駅)他に何もないもの。」と当たり前の風情だったのでした。翌 朝、名寄駅まで周遊券を取りに行きました。 この旅に登場した大道具も小道具も、名寄駅以外はみーんななくなってし まったことに、とても不思議な気持ちがします。(by H.O) 年表に登場する急行「紋別」は札幌との間を走っていましたが、こんな列 車で、まるで空中分解のような列車だと思った記憶があります。 幌延 ↑↓(急行 羽幌) ↑↓ 札幌←→滝川←→深川←→旭川←→名寄←→興部←→遠軽 ↑↓ (興部まで「急行 紋別」、その後鈍行) ↑↓(鈍行) 富良野 吹きさらしの寂しい駅から、スーツを着て旅行かばんを持った女性が見送ら れながら1人で札幌行きに乗車した姿を見た時は、この先の物語をあれこれ 想像させてくれるような、そんな急行でした。(1985年の話by H.O) ★★ 函館本線旭川大町支線(正式名称未確認) ★★ ○データ 廃止年月 1978.10.2 区間 近文−旭川大町 沿線自治体 [1-3-1] 旭川市 注:軍用線から貨物専用線という経緯をたどったので、一般の時刻表には載 っていません。 ○線路位置概略 旭川駅から1つ札幌寄りの近文駅から大町3条6丁目までの約4kmの引込線。 下の地図は1999年の道路地図(昭文社マップル)から書き起こしたものです。 「○○町」の表記は地図上に印刷されれいる位置です。半角数字は「△丁目」 を表します。線路は近文駅から★2つを弧を描くように通り、旭町と大町の6丁 目と7丁目の間の通りを☆まで直進していました。☆には「大町駅」があった ことになっています。 | 自衛隊 | ↑ | | 方位: 上が北西 ---------------------------------- | | | ☆ |大町3条 19|18 15|14 11|10 7|6 3|2 | | | | | ---------------------------------- | | | | |旭町1条 | | | | | | | | ★| | ---------------------------------- | 錦町| | | |川端町4条 19|18 15|14 11|10 8|7 | |緑町 | ★| | | ---------------------------------- | | | | |川端町7条 | | | | | 近文駅+++++++++++++++++++++(函館本線)++++++++++至旭川 ○歴史 大町駅のすぐ向こうは自衛隊駐屯地です。この場所は戦前には陸軍第七師団 の指令部があった所で、線路も陸軍専用でした。当時の敷地は今の自衛隊駐屯 地の数倍はあったようです。年表にすると以下のようになります。 1898(M31) 7.16 函館本線、旭川まで開通。旭川駅開業。 1899(M32) 陸軍第七師団(旭川師団)、札幌より移転。専用線として 引込線が敷かれ、基点に近文停車場が設置される。 1906(M39) 近文停車場、信号場となる。 1911(M44) 1.11 近文信号場、一般駅となる。 1914(T 3) このころ発行された「旭川区概図」では、鉄道は練兵場内 まで敷かれている。 1945(S20) 敗戦。(軍用地は占領軍に所管換えになったが、第七師団 敷地がどのように使用されたかは未調査。) 1960(S25) 占領終了。このころの地図では練兵場は空地になっている。 〃 1.15 引込線、国鉄貨物専用線として営業開始。 (注:昭和29年発行の20万図「旭川」では大町から先の春光町五区付近まで線 路が載っている) 1978(S53)10. 2 引込線、廃止。 函館本線の延伸に合わせて軍隊も移動してきています。鉄道と軍隊が北の国 境の防衛に重要な役を担っていたことがわかります。 ***** 現地調査結果(1999.8.10, 12.30 by H.O) ***** (第1回調査 1999.8.10) 車で行ったが、街中なので思うように行動できず。 (第2回調査 1999.12.30) 近文駅は一日数本しか列車が停まらないので、調査に使うには要注意です。 そこで、旭川駅からバスに乗って☆へ行きました。西武裏の15番バス停、路 線は12番で「大町2条5丁目」または次の「8丁目」下車です。大人200円。 6丁目の☆の位置から「北の散歩道」と名づけられた遊歩道が始まります。 雪の中、犬の散歩がちらほら。鉄道説明の看板はなく、みな「北の散歩道」と 書いてあるばかり。1つ何か書いてありそうな看板が埋っていたので、雪の中 から掘り起こしていたら犬に吠えられてしまいました。飼い主のおばさんに 「ごめんなさいね、この子、気になるみたい」と言われましたが、うさん臭い 奴だということは犬が一番よくわかるようです^^;。おばさんに鉄道の話を聞 いてみましたが、貨物線で10年以上前になくなったというだけで、それ以上の ことはわからず。掘り起こした看板には平成2(1990)年「全国街並なんとか賞」 受賞と書いてあるだけで、鉄道のことは一言もなし。どうやらこれが鉄道跡で あることはどうでもいいようです。散歩道は旭町の★でおしまい。 そこから駅までは住宅街になっていましたが、丹念に見ていくと、碁盤目に 対して斜めに建てられている家があるので、その辺りが線路跡でしょう。 地図と周囲を一生懸命見比べていたら、今度は宅配便の人に声をかけられて しまいました^^;。市街地の調査では、身分証明書が必携かもしれません。 (編集者注:私の場合は畑に続く原野で遺構を探し回っていて、警察を呼ばれて しまったことがあります :-() 旭西橋に通じる嵐山通りに旭川信金があり、この交差点から線路へ向かった 最初の信号付近に線路跡の空地が鉄条網に囲まれて残っています。小さな川を 跨いでいたはずですが橋脚は残存せず。この辺りからは石狩川を渡る鉄橋の付 替え跡と一緒になってまとまった敷地が企業になっており、跡はわかりません。 近文駅構内にも引込み線の跡はありませんが、島式ホームの待合室はめちゃ くちゃ古い木造のたたずまいで、一見の価値ありです。 ○参考資料 「旭川開基百年記念誌 目で見る旭川の歩み」 旭川市発行 「北海道鉄道百年誌」 「北海道 ふるさとの駅」 (10.参考図書参照) 「鉄道廃線跡を歩く」(10.参考図書参照) ★★ 函館本線上砂川支線 ★★ ○データ 廃止年月 1994.5.1 区間 砂川−下鶉−鶉−東鶉−上砂川 沿線自治体 [1-2-4] 砂川市、上砂川町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くIV,JTBキャンブックス,1997 ○記念館(資料館) 確認できず。(1996.5) ○遺構 <鶉駅>: 駅舎がそのまま食堂に転用されている。ホーム、客車あり(1996.5) <上砂川駅>:80年代半ば?のTVドラマ「昨日、悲別で」のロケ地。「悲別」(か なしべつ)の駅看板の他、駅舎、ホームが保存され、待合室も列車が来ていた 頃と同じたたずまいで使われている。高倉健主演映画「駅・STATION」のロケ 地でもある(1996.5)。 ★★ 羽幌線 ★★ ○データ 廃止年月 1987.3.29 区間 (東留萠)−留萌−三泊−臼谷−小平−(花岡)−大椴−(富岡)−鬼鹿 −(千松)−力昼−(番屋ノ沢)−古丹別−上平−苫前−(興津)−羽幌 −(下ノ滝)−築別−天塩有明−天塩栄−初山別−豊岬−天塩大沢− 共成−歌越−天塩金浦−遠別−(啓明)−丸松−(北里)−更岸− (干拓)−天塩−(中川口)−北川口−(西振老)−振老−(作返)−幌延 沿線自治体 [1-7-1] 留萌市、小平町、苫前町、羽幌町、初山別村、遠別町、 天塩町、幌延町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVI,JTBキャンブックス,1999 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVIII,JTBキャンブックス,2001 ○記念館(資料館) 現地調査は行われているが確認できず ○遺構 <捜し方>:留萌から幌延までほぼR232の山側に沿って走っていたので、遺構確 認は比較的容易です。一部R232から離れたり海側になったりするので、詳細は 以下の区間報告を参照下さい。留萌−小平は小河川の橋梁はことごとく橋桁が 落とされていますが、それ以北は橋桁が残っている鉄橋やトンネルなども見ら れます。とても快適な道路ですが、わき見運転とパトカーに注意。(2002.5) <東留萠−留萠−三泊>:一般的に当路線は「留萠−幌延」記されるが、留萠本 線との分岐点は留萠駅ではなく、約300m東にあった信号所であった。もっとも、 信号所も「留萠駅の構内」とする説もある。東留萠で分かれた両線が離れつつ ある場所に留萠駅があったため、留萠本線と羽幌線の乗り換えをしようとする 場合には100mを越す跨線橋を通過しなくてはならなかった。羽幌線がなくなっ たためこの跨線橋はちょん切られ、駅舎と留萠本線のホームを結ぶ部分のみが 残っている。(2002.5) 留萠駅を出た羽幌線は北西に進み、留萌川を越えていた。現時点で確認でき た遺構は、この渡河地点の塩見町側にあるR232の「汐見跨線橋」と対岸の元町 側の築堤、ならびにR232の山側に残る路盤である。(2001.5) <三泊−臼谷>:三泊市街の端から臼谷一区にかけて、R232の内陸側に路盤の大 半が現存するが、小河川の鉄橋の橋桁はすべて落とされている。(2002.5) <臼谷−小平>:R232から見える範囲ではR232の内陸側に路盤の大半が現存する が、小河川の鉄橋の橋桁はすべて落とされている。(2002.5) <小平駅>:「交通公園」となっているが、史料展示はないもよう。(2001.5) <小平−花岡>:1990年代後半まで小平蘂川の橋が残っていたが現存せず。小平 蘂川の少し北のR232沿いにトンネルが残っている。(2002.5) <花岡−大椴>:線路跡がR232から離れている。(未調査) <大椴駅>:駅跡はJA支所のあるあたり。「鉄道廃線跡を歩くVI」にあるホーム 遺構は未確認。(2001.5) <大椴−富岡−鬼鹿>:R232沿いに山側を走っていたが、大椴側では路盤の撤去 が進行中。鬼鹿側では鬼鹿市街を除いて路盤の大半が現存。(2001.5) 花田家鰊番屋(道の駅併設)裏の土手に路盤があり、階段で登れる。(2002.5) <鬼鹿駅>: 町営住宅の用地となった。(2001.5) <鬼鹿−千松−力昼>:R232の内陸側に路盤の大半が現存。(2001.5) <力昼駅>:所在地は「苫前町力昼」だが、実際には町境であるサカエノ沢川の すぐ北のため、「小平町豊浜」の方が近い。遺構の有無は未確認。(2001.5) <力昼−番屋ノ沢−古丹別>:力昼駅跡の北に路盤が残り、その北に金網で口 を塞がれたトンネルが現存(2002.5)。 そこから北は線路跡がR232から大きく離れている。(未調査) <古丹別駅>:R232から離れてR239を5kmほど山に入った古丹別集落にあり、駅 跡はバスターミナルとなった。一角にあるレンガ造りの倉庫群が唯一の遺構 といえる。(2001.5) #この町から古丹別川を三毛別川を遡る2つの森林鉄道があった。7.1章参照。 <古丹別−上平>:R239のすぐ北側を車道に隣接して西進していた筈だが、路盤 が完全に撤去されたのか遺構は確認できず。(2001.5) <上平駅跡>:送電線とR239の交差点のやや西にあたるが遺構未確認。(2001.5) <上平−苫前−興津>:苫前市街の南・三豊地区にある名称不明の河川の渡河地 点で、R232の内陸側に路盤の現存を確認。(2001.5) 上記以外では線路跡がR232から離れて内陸側を通っていた。(未調査) <興津乗降場>:正確な場所は判らないが、ヤオシルスナイ川の渡河地点の北で 線路跡がR232の内陸側に隣接していたあたりと推定される。遺構は未確認。 路盤はヤオシルスナイ川の渡河地点から北に数100mにわたって残存。(2001.5) <興津−羽幌>:線路はR232から離れて内陸側を通っていた。(未調査) <羽幌駅>:駅跡は公園となり、駅舎のあったあたりはバスターミナルとなって いる。(2001.5) # ここから羽幌川を遡る森林鉄道があった。 # 町内の勤労青少年ホームに国鉄から羽幌炭礦鉄道に譲渡された蒸気機関車 #が展示されている。9章参照。 <羽幌−下ノ滝−築別>:R232から見える範囲では路盤の大半が現存するが「鉄 道廃線跡を歩くVI」では健在とされていた羽幌川橋梁は現存しない。(2001.5) <築別駅>: 築別川の河口の南東にあたる。未確認。(2001.5) # ここから築別川に沿って羽幌炭礦鉄道があった。8.3章参照。 <築別−天塩有明−天塩栄>:天塩有明駅の北にあたる道道・築別天塩有明線を 挟んで両側に路盤が現存。(2001.5) その他の区間は線路跡がR232から離れている。(未調査) 天塩有明駅は有明バス停の裏手で更地になっている。駅前商店の赤いコカ コーラ自販機が目印。(2002.5) <天塩栄駅>: 所在地は初山別村第二栄地区。(未調査) <天塩栄−初山別>:第二栄地区と初山別の両市街を除けば、殆どの区間で路盤 が現存。(2001.5) <初山別駅>:駅舎付近はバスターミナル,構内は細長い公園になった。(2002.5) <初山別−豊岬−天塩大沢>:初山別市街から北約2kmに「羽幌線最大の遺構」と も呼ばれていた金駒内橋梁がある。R232拡幅のため豊岬側の一部を残して撤去 されたが、それでも十分な迫力を保っている。(2002.5) その北の区間は天塩大沢近くまでR232から離れて内陸を辿っていたり、トン ネルだった。(未調査) 豊岬駅は北明星地区への車道に面していた筈。(未調査) 天塩大沢の南側では路盤の大半が現存。(2001.5) <天塩大沢駅>: 近隣住民の証言は得られたものの遺構は発見できず。(2001.5) <天塩大沢−共成−歌越>:共成より南ではR232の内陸側に路盤の大半が現存し、 トンネルが2つ残っている。(2002.5) 共成駅の所在地はR232から内陸の共成地区に達する車道の分岐点付近であっ たとされるが、詳細は不明。 <歌越駅>:町境のオタコシベツ川を越え、遠別町に入ってすぐの場所であった とされる。(未調査) <歌越−天塩金浦−遠別>:歌越−金浦の路盤はR232山側にほぼ現存していたが、 金浦から遠別市街の南の「道の駅」にかけては路盤撤去が進行中。(2001.5) 歌越駅北のモオタコシベツ川にコンクリート橋残存。橋桁もある。(2002.5) 天塩金浦駅の遺構は発見できなかった。(2001.5) 遠別市街南の遠別川にコンクリート橋残存。橋桁もある。(2002.5) <遠別駅>: バスターミナルとなったが、農業倉庫は往時のまま。(2001.5) <遠別−啓明乗降場−丸松>:遠別市街の北の端から丸松跨線橋まで線路はR232 の内陸側であり、この区間ではほぼ路盤が残存している(2001.5)。 啓明乗降場は丸松跨線橋の南側だったとされるが、遺構見出せず。(2001.5) 丸松跨線橋から北では線路はR232よりも海側を辿っていた。 <丸松駅>:R232のパロマウツナイ川の渡河地点の南側であったとされるが、今 では駅舎どころか往時の市街そのものが僅かな廃屋を残して消滅したようで あった。(廃屋じゃなかったりして :-) ) (2001.5) <丸松−北里>:線路がR232からやや離れた海岸沿いであったたせいか、未確認。 <北里乗降場>:遠別−天塩の町境の南側であった。遺構は未確認。(2001.5) <北里−更岸>: 断続的に路盤が現存していた(2001.5)。 <更岸駅>:南更岸地区にあり、R232の海岸側であったとされる。「それらしい」 場所は見出せたが駅跡であるという確証は得られていない。(2001.5) <更岸−干拓−天塩>:R232の更岸跨線橋から南では線路跡はR232の海岸側、そ こから北では線路跡は車道の内陸側であった。しかし、この区間の路盤の大半 は耕地整理の際に消滅したようで、R232から見える範囲に遺構は殆ど見出せな かった。(2001.5) 干拓乗降場跡は跨線橋の北・トコツナイ川の渡河地点付近であったと判断さ れるが詳細は不明である。(2001.5) <天塩駅>:天塩市街の東側を迂回していた線路跡は拡幅され、市街を迂回する バイパスへの転換が進行中。駅跡は農業倉庫のあたりであったとか。(2001.5) <天塩−中川口−北川口>:天塩市街の端から中川口地区の区間は耕地整理で消 滅した模様。R232は天塩市街の北でクランク状に進み、ここで線路跡を越えて いたが交差地点は不明。中川口乗降場の場所も不明。その反面、中川口地区か ら川口小学校にかけて路盤の大半が現存。川口小学校から北は不明。(2001.5) <北川口駅>:R232の西にあたる加藤牧場?さんの裏手の空地が駅跡だそうであ る。公道に面していないので、立ち入る際には加藤牧場?さんに声をかけてお くように。(2001.5) <北川口−西振老−振老>:R232の振老跨線橋までの区間は路盤の大半が現存し ている。(2002.5) 振老跨線橋から東では、振老市街近くまで線路跡がR232から離れているため 詳細は不明。西振老乗降場についても位置を含めて不明。(2001.5) <振老駅>:振老市街の端にあるR232の南側の空地が駅跡とのこと。駅の遺構は 見出せなかったが、その周辺には原野の中に路盤が続いていた。(2001.5) <振老−作返−幌延>:振老からR232とR40との分岐点の間では、ずっとR232の 南側に路盤が続いていた。(2001.5) R40との交差地点は跨線橋であった筈だが未調査であり、この交差地点の東 にあった筈の作返乗降場についても未調査である。 天塩川本流の渡河地点はR40の天塩大橋から東に1kmほどの地点であったと推 定される。現在では橋そのものは現存せず、幌延側で確認できた遺構も堤防の 北側に残る路盤だけであった。(2001.5) R40の天塩大橋から幌延市街へ向かう車道に踏切跡があり、その両側に路盤 が続いているが踏切が改良されてしまったのでいささか判りにくい。(2001.5) 宗谷本線と(ほぼ)直角に進んできた線路跡は北に迂回し、北西から幌延駅に 進入していた。 <幌延駅>:宗谷本線の駅として盛業中。 # この駅から豊富温泉の東を通って稚内市・沼川に通じる馬車軌道があった。 7.1章参照。 ★★ 美幸線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.9.16 区間 美深−東美深−辺渓−仁宇布 沿線自治体 [1-7-4] 美深町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 現地調査は行われているが確認できず ○遺構 <仁宇布駅>:ホーム残存。駅舎はコンクリートの基礎のみ残る。なぜか寝台電 車(サハネ58119)が1両あった(1997.7)が、トロッコ王国ができた現在はない。 ***** トロッコ王国 (調査:2000.7.17 by T.M) ***** レールが残っていた高広の滝〜仁宇布の約6kmがエンジン付きトロッコで遊べ るようになりました。 道道49号を美深から雄武へ向かい、高広パーキングを過ぎて5km行った信号が 旧仁宇布駅前です。ここに、トロッコ王国入国受付があります。受付で運転免 許証を提示し、料金を支払い、操作マニュアルを読みます。その後、乗るトロ ッコへ連れて行かれ、操作法の説明を受けます。 まず雄武向きに止まっているトロッコをジャッキアップして方向転換し、エ ンジンを掛けて、いざ出発です。起点は旧仁宇布駅で、そこから5km美深方面に 走った高広パーキングエリア付近が終点で、折り返してきます。 走り出すと、橋や農道の手前に徐行の指示があるので、それを守りつつ、あ とは自由に運転できます。要は「敷かれたレールの上を走る」だけですから、 何とも簡単なものです。1時間以内に帰ってくることだけがお約束です。終点 まで行って、エンジンを止めて、方向転換をして、エンジンを掛けて、引き返 します。単純に線路を自分で操作して走る楽しさに加え、意外にスピード感が あり、沿線の風景も変化があるので、実に楽しいものでした。 営業日:5月の大型連休初日〜10末の間の土日祝日 7月中旬から8月末までは毎日 9時〜16時、予約制ではない。 料金: 1回券500円(有効期間当日)、7回券3000円(同1ヶ月)、 25回券10000円(同1年)、100回券30000円(同5年) ***** 調査報告(1997.7, 2002.12.28 by H.O)**** 1.どこを走っていた線路か 宗谷本線美深駅を起点に、道道49号線と交錯しながら約20km東の仁宇布まで 続いていました。「美幸」の「美」は起点の美深、「幸」はオホーツク海に面 した北見枝幸です。計画当初は道北の開発を担っていたわけですが、実際には 100円稼ぐのに数千円かかる「日本一の赤字線」として名を馳せたのみでした。 2.美幸線の車窓より(1985.5) 美深駅を出発したのはオレンジ色の気動車1両。車内は私の他は鉄ちゃんと おぼしき20歳前後の男性が5名ほどとその他数名。 東美深駅、辺渓駅にはすぐに着きました。美深郊外といった感じです。その 他数名の乗客はみなこの2つの駅で下りました。そこから終点の仁宇布までは 山の中。まったく人家はありませんでした。 仁宇布は山を抜けて盆地になったしーんとした所でした。仁宇布駅で下りた のはてっちゃんと私だけ。駅員はおらず、車掌が改札を行い、全員の周遊券を 確認し、全員が入場券を買って、全員が折り返しの発車するまでの数分間で写 真をあっちこっち撮り、全員が再び車中の人となって美深駅まで戻りました。 仁宇布の静けさが印象的でした。 3.前回調査結果(1997.7) 3.1 沿線の遺跡調査 ・美深の平野部は畑の中に軌道の土盛があります。 ・山の中に入ると道道と併行して軌道跡があります。小さな川を数回横切って おり、鉄橋も残っています。 ・道道と数回交錯するため、古地図と較べるか、丹念に追跡するかしないと、 左右どっちに軌道跡があるのかわからなくなりがちです。 3.2 松山湿原より仁宇布の眺め 松山湿原は仁宇布からちょっと山に入った所にあります。駐車場から30分程 歩いて登って湿原に出ますが、途中で仁宇布が眼下に広がります。山に囲まれ た盆地に拓かれた畑が広がり、僅かに家が見えます。山で周囲から隔絶され、 道路はあるけど鉄道はなく、厳しい開拓事情を感じずにはいられません。 3.3 仁宇布駅跡 美深から最初の信号が仁宇布の交差点です。美深から来ると、左に赤い壁の 商店が1軒。この商店の裏手が駅跡です。駅跡の碑、朽ちたコンクリート製ホ ーム、一応使えるトイレ棟。何故か寝台車が1両、ホーム脇に停めてあります が、ほろをかぶせてあり、ロープでぐるぐる巻きに縛られていました。レール は錆び、草ぼうぼうで美深方向に続いています。 ホーム脇に駅舎跡があり、地面にコンクリートを流した基礎だけが残ってい ます。柱跡などから屋根の形や改札口、駅務室などを推定していたら、同行の 友人に「三内丸山遺跡。」と言われました 4.クロカンによる調査結果(2002.12.28) くだんの赤い壁のよろず屋は5年前の通り。トロッコ王国は冬は閉鎖だが、 ここなら安心してクロカンができる、というわけ。激しい吹雪。 トロッコ王国のだいぶ手前で除雪が止まっていたので、雪かきをしていた よろず屋のおばさんに、どこに駐車しておいたらいいか尋ねると「トロッコ 王国の前は除雪車の反転場所なので、店の前がいいわ。」とのこと。 スキーを履き、まず除雪の雪山を乗り越えて王国の入国受け付け建物へ接近。 昔の駅舎の付近に建っているが、三内丸山遺跡!の上に建てられたものなのか どうかは、雪に覆われていて確認できず。ホームは残っていました。 激しい雪の中を線路跡を歩き始めました。勾配を表す標識や、鉄橋があり、 それなりに満足いく風景でしたが、いかんせん吹雪の雪中行軍で足元はラッセ ル、しかも昇り勾配、40分で切り上げて折り返して戻りました。2km進んだか どうか。 ★★ 美幸線、興浜線延長計画区間 (北見枝幸〜雄武、仁宇布〜北見枝幸)★★ ○データ 沿線自治体 [1-7-4] 美深町 [1-7-2] 歌登町、枝幸町、雄武町 興浜北線、興浜南線、美幸線は当初全部つなげる予定で、レールの敷設は大 赤字路線にもかかわらずどんどん続いていましたが、結局一度も列車が通らな いまま営業中の路線の廃止とともに廃止されてしまいました。 計画区間: 北見枝幸 | \_徳志別 歌登 \ |_ 志美宇丹 乙忠部 | | 仁宇布 興部 (計画区間については志美宇丹−乙忠部を結んでいたという説もある。正しい 1次資料に基づく情報が欲しい。) <調査報告by H.O>:興浜北線、南線がまだ走っていた頃、オホーツクのR238 沿いにはすでに完成した区間の踏切がいくつかありました。その警報機脇に は看板があり、「当分の間、ここには列車は通りません」と書かれていまし た(1985.7)。廃止後同じ踏切を訪れた時、看板は「当分の間」だけが消され ていました(1986.7)。 北見枝幸−歌登間の道道27号幌別川沿いに、一度も列車の通らなかった見 事な覆道の遺構が数ヶ所残っています。(2002.5) 歌登健康回復センターという温泉施設手前の公園には、歌登周辺の簡易軌 道で走っていたディーゼルカーと歴史を記した碑があり、簡易軌道は美幸線 に希望を託して廃止になった旨の記載があります。何かむなしい。詳細は 「6.2歌登村営軌道」をご覧下さい。(2002.5) <調査員のつぶやき>:線路が敷設されたら列車が走れる状態であったが周り の人口が少ないために結局使われずに放置されてしまった悲しい路線。音標 の町で軌道を眺めていたらなぜか悲しくなってしまった。(1996.5) ★★ 広尾線 ★★ ○データ 廃止年月 1987.2.1 区間 帯広-依田-北愛国-愛国-幸震(後に大正)-幸福-中札内-更別- 上更別-忠類-十勝東和-大樹-石坂-豊似-野塚-新生-広尾 沿線自治体 [1-5-3] 帯広市 [1-5-4] 中札内村、更別村、忠類村、大樹町、広尾町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVI,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 広尾駅、忠類駅、愛国駅など。幸福駅をはじめ保存されている駅も多い。 「遺構」参照。 ○遺構(帯広から順に) <どこを通っていたか(探し方のご案内)>: 帯広から東南東へ直進し、札内川を渡る鉄橋が根室本線すぐ南側にあった はずです(未確認)。渡った後すぐに90°右に曲がって札内川東岸を直進し、 愛国でR236にぶつかります。ここから豊似まではずっとR236沿い、豊似から はR336沿いに広尾まで。ただし、どちらの国道とも何回も交錯しており、道 路脇を走っていた所もあれば2kmほど離れて走っていた所もあります。 全国的に惜しまれて廃止になった路線ですので、駅を中心に残されている ものは多いです。(2000.5) <大正駅>:辺りは整地され、広場になっています。駅と広尾線の歴史を書いた 看板あり。駅舎はありませんが、ホームは残っていました。(2002.9) <大正〜幸福>:帯広市内の大正本町から帯広空港に向かう車道に「大正跨線 橋」が残っている。(2000.5) <愛国駅>:駅舎内に道具類の室内展示(広尾駅より小さい)。ホーム残存、SL (国鉄19671)を展示。幸福駅と共に「愛の国から幸福へ」というキャッチフ レーズで幸福駅行きの乗車券が一世を風靡した観光地。今でも訪れる人が多 い。(1997.7) 帯広市街 ↑ |‖ 川西−−− ★ここ ‖| ‖|R236 ‖| 札内川↓ 広尾 <幸福駅>:駅舎、ホームあり。気動車(キハ22221とキハ22238)を展示。遺構 と言うより有名観光地。ひまわりの種をおいているため、リスがいた。「愛 国−幸福」の乗車券はそれぞれの駅周辺の土産物屋で買え、\220。キーホル ダーになったものは\400。R236や付近の道道に案内板が出ている。(2002.9) <中札内駅>:駅跡は役場の南東にあたり、鉄道記念公園になっている。R336 に表示は出ているが目立たない。ホーム残存、遊戯施設に改造された国鉄 時代の貨車(ワム80000型)が2両と腕木式信号機あり。車両展示部分だけレ ール残存。説明なし。駅の南側は市街のはずれまで遊歩道となっている。 駅の北側はJAの構内なので立入り不可。(2002.9) <中札内〜更別>:中札内市街の南のR336に「中札内跨線橋」は残っているが、 路盤が残っているのは北側だけ。(2000.5) <更別駅>: 記念碑のみ。宅地化されてしまった。(2000.5) <更別〜上更別>:上更別市街の北で、R336の西に2〜3kmにわたって断続的 に路盤/築堤が残っている。(2000.5) <上更別駅>: 駅舎なし、記念碑のみ、周囲は更地。(2000.5) <上更別〜忠類>:上更別市街南で、R336の西に断続的に路盤残存。村境か ら忠類市街北にかけて、R336の西に(ほぼ)連続して路盤残存。(2000.5) <忠類駅>:駅舎が保存されている。駅舎にはかつての時刻表や切符などの 資料展示の他、国鉄時代のポスターが貼ってあり、時間が止まった感じが する。国鉄時代の貨車が3両(ヨ7908+トラ74718+ワム187865)展示されて いるが、車両はかなり荒廃している。(2002.9) ちなみに現地は国道に面していません。帯広から広尾へ向かっておいし いことで有名な新井豆腐の次の信号を右に入ったところ、郵便局の裏です。 新井豆腐のおばさんに場所を聞くと「この裏にあるけど、もう随分前に廃 止になっちゃったよ。寂しいねえ…。」と遠い目になりました。(2000.5) 帯広 ↑ 新井豆腐 □‖ ‖ 〒‖ ■ =‖ 忠類駅 ‖ 〜 ‖□ うらがみミート ↓ 広尾 <大樹駅>:駅舎は十勝バス待合所&営業所。ホーム、レール残存。ホーム −駅舎間の遮断機、信号機残存。国鉄時代の客車(オハ6276+スユニ60301) と貨車(ヨ4603+トラ70751+ワム186269)が保存されている。客車がトレイン ホテルになっている。芝生で整地され、キャンプも可。国道に「大樹トレ インホテル」「大樹交通公園」の表示あり。(1997.7) トレインホテルの表示は見つからなかった。季節営業か?(2000.5) <大樹〜石坂〜豊似>:紋別川から豊似市街の北まで、R336の東に(ほぼ)連続 して築堤/路盤が残っている。(2000.5) <石坂駅>:R336の東(広尾方向に向かって左)側すぐのところにあったのです が、跡形もありません。(2000.5) <野塚駅>: 跡形もありません。(2000.5) <野塚〜新生>:R336の東に断続的ながら築堤/路盤の大半が残存。(2000.5) <新生〜広尾>:広尾からすぐ北の楽古川付近で線路跡はR336と「楽古橋跨線 橋」で交差しており、国道下に路盤が残る。(2000.5) 楽古川の南で築堤が残っている(2000.5)。 <広尾駅>:駅舎は十勝バスターミナルとして使用されており、一角に道具類 の室内展示。町長の「ごあいさつ」文が廃止やむなきの無念さにあふれて いる。展示内容としては広尾線沿線の中で一番規模が大きい。建設当時の 強制労働についても言及あり。ホームも残存。一帯が鉄道記念公園として 整備されている。国道に案内表示あり。(2000.5) <その他>:大樹駅から(やや)離れた「柏林公園」に国鉄SL(59611)が保存さ れている。9章参照。(2000.5) ★★ 幌内線 ★★ ○データ 廃止年月 1987.7.12 区間 岩見沢−栄町−萱野−●幌内太(後に三笠)−唐松−弥生−幾春別 ●三笠−住吉(後に幌内住吉)−幌内 沿線自治体 [1-2-3] 岩見沢市、三笠市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 三笠駅:「クロフォード公園」として整備されている。 幌内駅跡地:「三笠鉄道村」「三笠鉄道記念館」となっている。屋外車輌展 示は見学無料、記念館(大人520円)は幌内線の歴史及び北海道鉄道史の展示 となっている。9章参照。 ○歴史 幌内周辺で産出する石炭を小樽へ輸送するため、北海道で初めて敷設され た鉄道です。日本でも新橋−横浜、大阪−神戸に次ぐ3番目で、いかに北海道 開拓が重要視されていたかがわかります。 1880(M13) 手宮−札幌開業 1882(M15) 札幌−幌内開業 鉄道建設にはアメリカ人技術者クロフォードが大きく関わりました。特に難工 事だった個所は現函館本線の張碓近辺、豊平川鉄橋などで、当時は鉄橋はすべ て木製だったため、工事中も開通後も洪水でたびたび橋が流されたようです。 この後、鉄道は北海道炭砿鉄道に払い下げられ…等々の歴史は本が多数出版さ れていますのでそちらへ譲ります。 時代は下って石炭産業の最盛期、1957(S32)年版の「専用線一覧表」(トワイ ライトゾ〜ンMANUAL7(ネコパブリッシング,1998)に収載)によれば、同時期に 幌内線に接続し、国鉄の貨車が乗り入れていた専用線として 三笠駅 北海道炭礦汽船(株) 0.2km 出光興産(株) 0.1km 幌内駅 北海道炭礦汽船(株) 0.6km 唐松駅 北海道炭礦汽船(株) 0.7km 幾春別駅 住友石炭鉱業(株) 1.1km 幾春別駅 住友石炭鉱業(株) 2.2km(幾春別駅から) 幾春別駅 住友石炭鉱業(株) 0.7km(幾春別−唐松間で分岐) 幾春別駅 岩見沢営林署 1.0km が挙げられています。すごいですね。 やがて石炭産業の衰退と共に幌内線の貨物輸送量も減少を続け、沿線の人口 も流出していきました。廃止は貨物、旅客別々に進められ、 1972(S47)11. 1 三笠-幌内の旅客営業廃止、貨物(石炭輸送)は継続 1981(S56) 5.25 三笠-幾春別の貨物営業廃止 1987(S62) 7.12 岩見沢-幾春別の旅客営業と三笠-幌内の貨物営業が廃止 され、全面廃止。 という経緯を辿りました。全面廃止を控えた同年6月からは幌内−小樽間に旅 客臨時列車(快速ほろない号)が運行されるなど、北海道最古の鉄道は惜しま れながら廃止となりました。 ***** 調査員の思い出(by T.K) ***** 昔、幌内に住んでいました。 幌内線は当初岩見沢−幌内間を走っていましたが、廃止当時は岩見沢−幾 春別が旅客営業で、三笠−幌内は貨物輸送のみでした。しかし、三笠(岩見沢 と幾春別の間)から幌内への線こそが北海道で最初にできた鉄路なのです。 三笠−幌内間の旅客営業が廃止された後、貨物営業だけが継続され、幌内 炭坑から産出される良質の石炭を北海道電力江別火力発電所へ運搬するため に活躍していました。その後江別火力も廃止になり、1999年には火力発電所 の特徴のある外観だった石炭貯蔵庫の大型ドームも取り壊されました。 (書泉グランデで購入した当時の貨物時刻表にしっかり定期貨物列車の設定 が載っています) 幌内線の貨物営業廃止の直前に、 札幌->三笠->幌内->札幌->小樽->手宮->札幌 の区間に記念の気動車が運行され、私は乗車する機会に恵まれました。 小樽<->手宮は、すでに廃止され年数が経ていたため踏み切りが自動では動 作せず、踏み切り毎に係員が虎模様のロープで自動車の通行を遮断して安全 確保しながらディーゼルカーがそろりそろりと小樽市街を走行していく様子 がなぜか強く印象に残っています。 ○遺構 <萱野駅>:駅舎、トイレ、記念碑はあるが、ホームやレールは残存せず。道道 ・夕張岩見沢線から見ると、「武部建設」の前のT字路を"|" 方向に進んだ 場所が駅跡。駅跡の東で線路跡が道央道を潜っている。(2000.5) <三笠駅>:北海道の鉄道敷設に尽力したアメリカ人技術者の名をとって、「ク ロフォード公園」として整備されている。ホームの一部と跨線橋があり、残 されたレールの上には国鉄時代のディーゼル機関車(DD51548)、特急用のディ ーゼルカー(キハ80145、キハ80150、キハ8287、キハ82100、キロ8052、キシ 8027、キシ8031)、貨車(ヨ8006、ホキ746、ホキ2341)が並んでいる。 # 3両の貨車を除けば、おそらく現役時代には一度も幌内線で使われなかっ #た車輌ばかりなんですけど(^^;。(2000.5) 車で通過しただけだが、「幌内太」と入口上部に掲げられた駅舎があった。 廃止当時の駅舎の写真、及び資料(「北海道の鉄道」三笠鉄道記念館で販売 されている300円の小冊子)から察するところ、廃止当時の駅舎は壊し、開業 間もない明治16(1883)年頃の駅舎を模したものと思われる。(2002.8) <三笠〜唐松>:北炭幌内炭鉱の跡がある。車道の南にある資材置場?の中に 立坑ヤグラが残り、車道の反対側には国鉄線から分かれていた専用線の路盤 がある(2000.5)。日本の成長を支えた歴史的史跡。最近は富良野の行き帰り に団体ツアーが立ち寄ることもあるとか。(2002.3) <唐松駅>:駅舎、ホームは残存するが、レール、車輌はなし。ちなみに駅舎 は「まるで牛舎のような屋根」で(その筋では)有名なようです。(2000.5) 駅名由来:近くの沢で藤松某が炭焼きを始め、当初は藤松沢と呼ばれていた ことに由来するようですが、駅は設置(1929年)当初から「唐松」(とうまつ) の字があてられました。 <唐松〜弥生>:弥生市街の西にあたる車道の「奔幌内橋」から少し離れた場 所にプレートガーター橋残存。(2000.5) <弥生駅>:ホームと路盤残存。現地は「幾生中学校」の三笠側の斜め向かい にあたる山蔭で「花月園」の案内看板が目印。(2000.5) <弥生〜幾春別>:車道から見える限り、ずっと路盤が残っていた。(2000.5) <幾春別駅>:駅跡はバス停と「市民センター」となっており、記念碑がある。 駅跡の東の端に跨線橋の残骸がある。また、市街北の「寒住プレハブ」の工 場内に立坑ヤグラが残っている。これは工場の敷地内なので勝手には入れな いが、見るだけなら工場の東側の丘に登る車道から良く見える。(2000.5) なお、幾春別市街の北にある奔別地区にもかつては炭坑と街があり、ここ も団体ツアーコースになっているらしい。(2002.3) <三笠〜幌内>:三笠駅跡近くの「本町」バス停付近から三笠鉄道村(幌内駅跡) まで、レール残存。踏切は線路側が閉鎖されているが、警報機等ほぼそのま ま残存。SLを走らず計画があるらしいが、未だ実現せず。(2000.5) ★★ 松前線 ★★ ○データ 廃止年月 1988.1.31 区間 木古内−森越−渡島知内−重内−湯ノ里−碁盤坂(後の千軒) −渡島福島−白符−渡島吉岡−渡島大沢−及部−松前 沿線自治体 [1-1-3] 木古内町、知内町、福島町、松前町 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVI,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) 1996.10現在、未確認 ○遺構 <松前駅跡>:駅前広場の他何もなし。線路跡は町道へと工事中(1996.10)。 ★★ 万字線 ★★ ○データ 廃止年月 1985.3.31 区間 志文−上志文−朝日−美流渡−万字−万字炭山 沿線自治体 [1-2-3] 岩見沢市 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVII,JTBキャンブックス,1999 ○記念館(資料館) <朝日駅>: 駅舎は閉鎖、ホームは残存。数年前に岩見沢市街から国鉄SL(B201)が移設 され、展示されています(2000.5) # このB201は戦争中に作られた入換え専用?機で、不確かな記憶ではずっ #と小樽築港に配属され、手宮線とか苗穂工場とかで使われていた、万字線 #とは無縁な機関車の筈です。 <万字線鉄道資料館>: 万字駅(跡)から離れた集落の中にある一軒家です。バスターミナル :-)の 案内板には載ってますが、すごく判りにくい場所なので迷う前に地元の人に 尋ねましょう。開館日は不明。ちなみに日曜の午後に行ったら閉まってまし た。(2000.5) ○遺構 ・少なくとも1995年までは煉瓦積みの鉄橋が3基残存していたのだが、全て 撤去されてしまった高さも結構あり、風格があったのだが、残念。(2002.3) ・各駅、駅跡に碑があるが、万字炭山駅は全く別の所に立っている。(2002.3) ***** 調査報告 (調査:1984.10, 1985.3, 1985.5, 1985.7, 1990.5, 1991.10, 1995.5, 2002.3 by H.O、2000.5 by A.S) ***** 岩見沢からたどって終点のもう少し奥まで、各駅停車で沿線の観光案内を。 1.岩見沢 函館本線。ばんえい競馬で有名です。いつもやってるわけじゃなくて、道 内4カ所で順繰りに開催されますので、行きたい人はよく確認しましょう。 駅からバスが出てます。けっこう熱くなります。[1-2-3]章参照。 2.志文(しぶん)駅 室蘭本線。「文を志す」という駅名で、かつては受験生向けの切符になっ ていたのですが、今(2002.3)は無人駅です。ここから線路は真東へ、道道38 号と並行して交差しながら、万字の少し先の万字炭山まで走ってました。 駅近くの町道に「耕成跨線橋」が残っており、両側に路盤残存。(2002.3) 3.略年表 明治20年代 この沿線の開拓が始まりました。 1914(大正 3)年 万字炭山開鉱 〃 11月11日 万字線開業。朝日駅を除く各駅を設置。 1919(大正 8)年11月 朝日駅開業。 1985(昭和60)年 3月31日 万字線廃止。中央バスに転換。 4.上志文(かみしぶん)駅 萩の山スキー場のまん前に小さな駅舎が物置になって残ってます。柱がレ ールでできています。周囲のレールは外されて、スキー場の駐車場になって ます。駅舎の脇には小さな跡碑が立ってます。(2002.3) スキー場 -------------------- □駅舎 至 岩見沢 −−−−−−−−−−−−−− 至 万字炭山 道道38号 5.朝日(あさひ)駅 朝日の集落の中で、道道に面して建ってます。まん前がバス停です。鉄道 記念公園として保存されており、駅舎の中へは入れませんが、ホームとレー ルも残され、国鉄SL(B201)が置かれていました(2002.3)。1995年5月にはSLは なくてSLの動輪だったのですが、2000年5月には動輪がなくてSLになってまし た。SLについては9章参照。 6. 美流渡(みると)駅 ちょっと大きな集落です。駅は跡形もなくなって美流渡交通センター(中 央バスのターミナル)になってます。建物の周囲にポイント切替機が残って いた(1995.5)のですが、2002年3月は雪の下で確認できず。このあたりは芸 術家を「誘致」したようで、「○○窯」「△△工房」などという看板があ ちこちありました。 美流渡からは南の北星上美流渡炭砿まで約2.8kmの専用線がありました。 こちらは8.3章をご覧下さい。 7. スパ・イン メープル・ロッジ 温泉ホテル。1995年来訪時にピッカピカだったが、2002年3月も健在。付 近には農産物の販売所やスポーツ施設ができていた。 なお、この辺りには道道を斜めに横切る架線のない鉄塔の列がある。実は これ、送電線ではなく、山の北側から土壌改良のための客土を運んだリフト の残骸なのだそうだ。(2002.3) 8. 万字(まんじ) 8.1 名前の由来 この近辺の鉱区の最初の所有者、朝吹英二の家紋に由来します。卍は吉祥 や繁栄を意味するおめでたい印だそうです。 8.2 鉄橋跡と供養塔 道がY字に分かれ、右が道道、左が万字の集落です。左にあった鉄橋は壊 されてなくなってしまいました。(2002.3) かつての鉄橋のふもとにお地蔵様が立っています。「万字線有縁無縁供養 塔」という名がついており、その名の通り、万字線建設に携わった人々を有 縁無縁に関わらず供養するものです。説明書きの石碑が立っており、昭和38 (1963)年に作られています(地図(1))。(1999.5) 8.3 万念寺のお菊人形 死んだ少女の魂が人形に乗り移って髪の毛が伸びる、というあれです。寺 の座敷の床の間に奉ってあります。童女姿の日本人形です。もとの髪は結っ てあったのか肩までのおかっぱだったのか推定できませんが、ざんばら髪で、 ひざぐらいまでぼうぼうに伸びていました。 科学的に考えれば、人毛髪を使っているため、少女の死で環境が変わって 湿度の変化などで伸びた、と考えられなくもないのですが、いかにも古い人 形で、見てて気持ちのいいものではありません。拝んで早々に立ち去りまし た。町へ入ると看板がありますので、その通りに行けば迷いません。 (1991.10) 8.4 万字駅 集落の中央でバス停になってます。建物はそのまま待合い室と郵便局に使 われています(地図(2))。(2000.5) 9.りんご 町の前後にはスパ・インのあたりからりんご畑が広がります。ちゃんと 「まんじのりんご」と印刷された箱に詰めてましたので、相当な産地なので しょう。この時生まれて初めてりんごが木になってるところを見ました。り んごの木がたわわに実をつけて、枝がゆら〜り、ゆら〜りと揺れている様は 感動ものでした。 しかもそこで売られているりんごの安くておいしいこと! 一袋に中くら いのが20コ近く入ってン百円!試食させてくれるんですが、聞いたこともな い種類もあって、甘いの、酸味のあるの、渋みのあるの、色々。(1991.10) 10.万字炭山(まんじたんざん)駅 地図(3)。バスの終点「万字局前」から坂を降りて行ったところにありま す。鉄骨とプレハブで作られた駅舎は残っていますが、「野原山荘」という 名前が付けられて、どこかの企業?が使用しているようです。しかし、その たたずまいは保養所ではなく簡易宿泊所で、洗濯機が外に置いてあったりし ます。いつ行っても人の姿を見ません。でもナンバーを外した車が置いてあ ったり、室内に男性のシャツが干してあったり、その度に様子は変わってい ます。10年来謎の施設だったのですが、「野原工業」と書かれたショベルカ ーを朝日市街で見たので、おそらく作業員宿舎でしょう。(1985.5-2002.3) 注:「鉄道廃線跡を歩くVII」では『個人の住宅』と記されています。 ------ |駅舎| −−−−−−−−| |−− ------ 木の柵 ↑ どちらかの門柱に ※木の柵は廃線後に作られたもの 「野原山荘」の看板 ところが万字炭山駅の跡碑は全然違う所(地図(4))に立っています。交通 センターという名前がついた建物の脇です。ここはバスターミナルでもなく、 警察でもなく、栗沢町役場の出張所として時々巡回医療や法律相談などが行 われています。名前を付けた後で目的が変わったのでしょうか。建物の左裏 手に跡碑と一緒に踏切の警報機も立っています。万字炭山駅が私有地になっ たからなのでしょうか。(2002.3) 11.万字炭山 (5)は道道と並行している人道橋です。鉄道跡みたいに見えますが違うよ うです。ここも古い炭鉱の例に漏れず、強制連行の暗い歴史があるようです。 ズリ山は1995.5月にはありましたが、2002.3月には消えていました。 集落は道道沿いと谷底の線路沿いがありますが、谷底の方はかなりの戸数 が廃墟になって朽ち果てており、それでもその間に住んでる人がいる、とい う大変失礼ながら不気味な所です(地図(6))。 駅跡からさらに奥へ進むと谷間に廃墟の町があります(地図(7))。駅前に 錆で字が埋もれた道路の行き先表示があります。現在新しい道路(地図(8)) ができて、夕張へ抜けるには万字市街を通って谷底に降りずに(8)の橋を通 るようになり、(6)(7)とも撤去が進んでいるようです。 (9)は廃校です。体育館は地域の施設として使用されていますが、校舎は 戸や窓に板が打ち付けられています。風格のある建物です。校門脇には巨大 な記念碑がそびえ立っており、栄華を物語っているようでした。(2002.5) 万字 _______________ +++++++ /+++++(2)++++\ _ ‖_ ___ (1)/ ++ \ (3)/ ‖ (7) 至 岩見沢 \ + \+++++□ ‖ \ (6) / ズリ山‖(8) \_______ (5)⊥____‖_ 至 夕張 道道 (4) 万字炭山 (9) 注: +++++ :廃止当時の線路 道道と万字への道の間の部分が谷です。 12.万字温泉 道道をもう少し夕張の方へ行くとじきに万字温泉の一軒宿があります。ガ イドブックなどによると、りんご湯と名打って湯船にりんごを浮かべて香り を漂わせているとか。日帰り入浴もできるようです。通過してしまいました が、結構車が止まってました。(1995.5) 13.調査員のひとりごと 1回目 1984年10月 2 1985年 3月 (万字線廃止) 3 〃 5月 4 〃 7月 5 1990年 5月 6 1991年10月 7 1995年 5月 8 2002年 3月 と、かなりコンスタントに訪れています。別に調査してるわけじゃないんで すが、何となく気になる所なのです。この18年、ある物はなくなり、ある物 は新しくなり、ある物は変わらず、ゆっくりゆっくり、どこかへ向かって進 んでいるようです。 りんごとスパ・イン以外はちょっと暗いイメージが強いですね。芸術家の 新住民に将来がかかっているのでしょうか。 ★★ 湧網線 ★★ 廃止年月 1987.3.19 区間 中湧別−(五鹿山)−(福島)−芭露−(志撫子)−計呂地−(浜床丹)− 床丹−(若里)−中佐呂間(後の佐呂間)−(堺橋)−(興生沢)−知来− (紅葉橋)−仁倉−下佐呂間(後の浜佐呂間)−北見富丘−(東富岡)− 北見共立−(土佐)−常呂−(常呂港)−能取−(中能取)−北見平和− 卯原内−二見ヶ岡−(大曲)−網走 沿線自治体 [1-6-4] 網走市、常呂町、佐呂間町、湧別町、上湧別町 記念館(資料館) 中湧別の駅跡が鉄道資料館になっている。名寄本線参照。 佐呂間駅:バスターミナルになっており、脇に交通公園が あり、屋外、屋内展示がある。 参考文献 宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くVI,JTBキャンブックス,1999 1. どこを走っていた線路か 網走駅は石北線と釧網線の終着駅として健在です。ここから中湧別まで能取 湖やサロマ湖沿いを走りながら、7割ぐらいがR238沿いに走っていました。常 呂−浜佐呂間は道道沿いに内陸に入ります。浜佐呂間でいったんR238沿いにな りますが、またすぐに道道に沿って佐呂間町永代地区まで内陸に入り、そこか ら北上してサロマ湖に面した丸山付近で再びR238沿いになります。 2.湧網線のあゆみ 卯原内駅跡の卯原内交通公園の看板をアレンジしました。 1932(昭 7)年 工事着手 湧網線 東線 L=31km(網走〜常呂) 西線 L=23km(中湧別〜佐呂間) 1935(昭10)年 営業開始 東線(網走〜卯原内)、西線(中湧別〜計呂地) 1936(昭11)年 東線、卯原内〜常呂 開通。西線、計呂地〜佐呂間 開通。 1952(昭27)年 東線、常呂〜佐呂間 開通 1953(昭28)年 湧網線東・西線併合、湧網線と改称 網走・二見ヶ岡・卯原内・北見平和・能取・北見共立・ 北見富丘・浜佐呂間・仁倉・知来・佐呂間・床丹・計呂地・ 芭露・中湧別 1956(昭31)年 レールバス運行。 1960(昭35)年 機関車運行(9600形)。 1961(昭36)年 客貨分離。 1987(昭62)年3月19日 廃止 4月 1日 国鉄、JR(北海道旅客鉄道株式会社)となる。 3.各駅案内 未調査駅も多いですが、地図から推定した行き方などもガイドしました。 <網走駅>:現在は1〜3番線しかないのですが、駅舎右脇に0番線跡があり、 ここから湧網線が発着していました。こんな感じです。 1番線 +++++++++++++++++++++++++++ -------------------------- | ホーム | ---------- | 駅舎 | 0番線 # 2番線で雪かきをしていた駅員さんに「ここ、湧網線だったんですよね!」 と聞いたら、私の聞き方が意気込みすぎていたのでしょうか、「そうですよ」 と言いながらクスッと微笑っていました。(2000.12.29) <大曲乗降場>:網走刑務所の正門を出て(そうそう出られるものではありませ んが^^;)鏡橋の上から網走川を眺め、生まれ変わった己の姿を川面に映しま す。R39を反対側に渡った所に小さな駅。ここがシャバへ戻る玄関、大曲駅で した。(注:位置関係を除いて、この記述はフィクションです。出所した人が その足で乗ったのかどうかは不明です。) 線路は網走駅からR39沿いに石北本線と並行して走っていましたが、大曲 の数百m手前あたりから分岐し、こんな位置関係でした。 | | : + 凡例 : 湧網線 ←鏡橋 | |・: + + 石北本線 R39 : + ・ 大曲駅 ↓ 美幌 乗降場ですから屋根もなく、ようやく1両分の長さがある木造の踏み台の ようなホームでした。廃止される頃には、ここに停まる列車は上下線とも早 朝と夕方の2回のみ。 ホームは跡形もなく、レールも取り除かれていました(1992)。 <サイクリングロード>:大曲交差点(R39とR238の分岐)からR238を500mほど行 ったところに大曲公園があります。ここから「オホーツク回廊」という名の 自転車道がR238と交錯しながらサロマ湖畔の栄浦まで通っており、途中の常 呂までは湧網線の跡をそのまま使用しています。車を気にせずに網走湖や能 取湖の眺めが楽しめるので、チャリダーさん向けでよいのでは? (1999.8) <二見ヶ岡駅>:地図では駅跡はR238沿いの道道104号の分岐付近で、網走を背 にして進行方向右側です。何もないようです。(2002.4) <二見中央駅>:地図では駅跡はR238沿いの美幌ライン網走公園線の分岐付近 で、網走を背にして進行方向右側です。何もないようです。(2002.4) <卯原内駅>:卯原内鉄道公園として整備されています。SL(49643)と客車(オ ハ47508)、遮断機があります。駅舎とホームは塗装を直して保存されてお り、1階はがらんどう、2階に若干の展示がありました。(1999.8) 車輌は無事でした(2002.7)。 **調査員H.Oの思い出** R238と能取湖に面しており、かつてはサンゴ草の名所の最寄駅でした。 鉄道でここを訪れた時には、駅舎と反対側がサンゴ草の群生地なので、道 のない線路をみんなでぞろぞろと横切って見に行きました。とうきびの屋 台などが出ていました。(1986.9) <北見平和駅>:未調査。地図では駅跡はR238沿いの平和集落付近であり、 網走を背にして進行右側です。 **調査員H.Oの思い出** ここもサンゴ草の名所です。かつては一面のサンゴ草の後方を湧網線が 走る風景が撮れる撮影ポイントでした。卯原内よりも長い距離の線路を歩 きました。列車は警笛を鳴らしたり、車掌さんが「線路を歩く時は十分注 意を」と車内放送したりしてました。(1986.9) <能取駅>:未調査。地図では駅跡はR238沿いの能取集落の中で、網走を背に して進行方向左側です。 能取駅の少し手前で線路はR238と交差しており、サイクリングロードは 一旦途切れていました。道路に踏切跡は残っていませんでした(1999.8) <常呂駅>:駅跡は常呂市街地(注:R238はバイパスで、海沿いの常呂市街は通 らない)で、かつては車両や信号機が保存されており、車両は駅の宿「とま ってけや」として利用されていた(1994)のですが、1998.4月にはすべて撤 去され、細長い駐車場と海を見渡す展望台になっており、駅跡を示すもの はありませんでした。(2002.4.27) 線路は網走市から常呂町への境界少し手前でR238と交差しており、この交 差でサイクリングロードはいったん途切れていましたが、国道路面に踏切跡 はありませんでした。なお、サイクリングロードはここから線路跡を離れ、 オホーツク海沿いにサロマ湖に面した栄浦に達しているようです(1999.8) <北見共立駅>:未調査。地図では線路はR238から離れて内陸へ向かっており、 駅跡は西二線と道道7号の間です。 <北見富丘駅>:未調査。地図では駅跡はR238から離れた内陸部の富丘付近。 <浜佐呂間駅>:跡地はパークゴルフ場になっており、公共施設と思われる真 新しい建物も数棟ありました。場所はR238号沿いで、浜佐呂間の市街地(注: 佐呂間大橋より手前、道道103号との交差点)です(1999.8)。 <仁倉駅>:地図では駅跡は道道103号沿い、仁倉集落内。何となくそれっぽ い自転車置き場があったが、特に駅跡などの碑や記載もなくよくわからず。 ただ、そこの付近が踏切跡みたいな感じで盛り上がっていた。(2002.8.24) <知来駅>:知来集落の内のゲートボール場になっており、駅舎には「ゲート ボール会館」の看板が…。ここも特に駅跡の碑なり展示物はないが、柳か なんかの巨木(直径70cm超?)があった。(2002.8.24) <佐呂間駅>:バスターミナルとなっており、傍らに鉄道資料館を含む交通公 園がある。資料館は「農協の隣にある食堂から鍵を借りて」無料で入ること ができるそうだが未調査。交通公園には国鉄SL(D51565)とディーゼル機関 車(DE101677)と客車(スユニ50107)と車掌車(ヨ8017)が並んでいる(2000.5) # 道道には面しておらず、目立つ標識もないのでご注意ください。 <床丹駅>: 未調査。地図では駅跡は佐呂間町若里より、ややR238寄りです。 <浜床丹駅>: 未調査。地図では駅跡は床丹川河口から、やや丸山寄りです。 <計呂地駅>:計呂地交通公園という名称になり、国鉄SL(C58139)と客車2両 (スハ456、オハ6291)が保存されています。野ざらしなので劣化が心配です。 場所はR238を中湧別から佐呂間に向かう途中の北側に隣接しています。 「交通公園」の常で、バス停を兼ねています(1998秋)。車輌健在(2002.8)。 ホーム、駅舎が残っています。また、列車ホテルになっており、シャワー も浴びられる、と看板が出ています。(1998.4, 1999.8) <志撫子駅>:未調査。地図では駅跡は計呂地から1.5kmほどR238を進んだ志 撫子川河口付近です。 <道の駅愛ランド湧別>:駅跡でも何でもないのですが、こんな所に観覧車が あって元が取れるのかと不安になります。国道脇の高台にあり、サロマ湖の 眺めが良さそうではあります。地図ではこのあたりの線路は湖岸の月見ケ浜 を通っており、車道と湖の間に路盤が残っています(2000.5) <芭露駅>:駅舎、ホーム、駅名標が付近のレールと共に保存されている。芭 露川を渡って集落の郵便局のある十字路の突き当たりにある。下図参照。ラ イダーハウスのような使われ方がされているということで、確かに人が寝泊 まりしたような形跡があった(1994)のだが、商工会議所青年部か何かの集会 所のような看板が出ており、駅務室にはテレビと畳があった(2002.5)。駅務 室は果たしてどちらの用途なのか確認できず(2002.7)。 駅前には古びた観光案内の看板があり、湧網線も描かれている。(2002.5) 至 湧別 | −−+−−駅 〒| 至 網走 <福島駅>:線路跡はありますが、駅舎なし。駅跡は福島集落の中で、R238で 網走を背にして左側です。(1999.8) <五鹿山駅>:未調査。地図に記載されていないため位置不明ですが、五鹿山 という山があるのでその麓と思われます。 <中湧別駅>:名寄本線の章参照。道の駅の中にホームなどが保存されている。 ★★★ 5.2 廃止区間、駅 (あいうえお順) ★★★ ★★ 札沼線・新十津川−石狩沼田 ★★ ○データ 廃止年月 1972.6.19 区間 新十津川−石狩橋本−上徳富−北上徳富−(南雨竜)−雨龍−(中雨竜) −石狩追分−渭ノ津−和−中ノ岱−碧水−北龍−五ヶ山−石狩沼田 沿線自治体 [1-2-4]新十津川町、雨竜町、北竜町、沼田町 参考文献 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 札沼線は、函館本線のバイパスとしての使命を担って計画されました。札幌 市街の西にある函館本線・桑園から留萌本線・石狩沼田まで開通したものは1931 年とされています。 第二次大戦中に『不要不急』という判断に基づいて、石狩当別から石狩沼田 までの区間が休止されました。 その後に復活したものの、新十津川−石狩沼田は国鉄再建法を待たずに1972 年に廃止されました。 ★★ 石北本線・北旭川−南永山 ★★ 宗谷本線の貨物駅、北旭川と石北本線の南永山を結ぶ短絡線がありました。 ってことまでしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 石北本線・天幕駅、中越駅、奥白滝駅 (調査:2002.5 by H.O)★★ 2002年、新たにこのジャンルの仲間入りをした所へ行ってきました。 石北本線の下記×印の駅です。いずれもR333沿いにあります。 −○−×−×−×−○− 上 天 中 奥 上 川 幕 越 白 白 滝 滝 <上白滝駅>:無人駅です。ホームの看板には「おくしらたき Oku-shirataki」 の表示の上に張り紙をして「かみかわ Kamikawa」に直してありました。 # いったいそれの何が面白いんだ、というレベルの話ですが。 <奥白滝駅>:R333の南側にあります。駅舎の看板ははずされ、ホームにも看板 はありません。駅舎とトイレは戸締りされてますがまだ荒れてはいません。 非常用電話の箱があり、これは使えるようになっているようです。 付近には廃屋が2棟。道路の反対側には小学校の跡碑。今は無人となった山 野で昔は頑張って開拓していた人たちがいたんですね。 R333に「奥白滝」の集落表示があり、これが出てきたら注意してると見つか ります。駅前には休憩用でしょうか、広い舗装された駐車場があります。 <中越駅>:R333の北側にあります。ホームと駅舎のたたずまいは奥白滝駅と 同様です。R333に「中越」の集落表示があり、これが出てきたら注意してる と見つかります。 <天幕駅>:R333の北側にある筈…なのですが、付近にガードレールの切れ目 がなく、通り過ぎてしまいました。 <上川駅>:お金を払わないと入れないので、未調査です。:p 切符売り場の 表示ぐらい確認すればよかったなあ。 4月に浮島−白滝間の旭川紋別自動車道が開通し、無料使用となっていました。 つまり、北見峠と奥白滝と上白滝に用のない人はR333を通らず、不気味なほど 対向車も後続車も全くありませんでした。 ★★ 釧網本線・網走−鱒浦 ★★ 石北本線と釧網本線の接続駅である網走駅は、当初は現在の網走駅より1.3km ほど東にありました。 1932年に釧網本線が現在のルートである桂台経由に変更されると、当初の網 走駅は貨物駅"浜網走"となり、釧網本線の浜網走−鱒浦が廃止されました。 その後の1984年には、浜網走駅と石北本線の支線であった網走−浜網走が廃 止されました。 1924-1932 1932-1984 1984- 網走(初代) 網走 浜網走 網走 --------○ --○------○ --○ | \ \ | ○桂台 ○桂台 | \ \ ○鱒浦 ○鱒浦 ○鱒浦 | | | ★★ 宗谷本線・神路駅 ★★ 宗谷本線の筬島と佐久の間にあった駅です。私(H.O)がこの駅の存在を初め て知ったのは1985年3月。旅の途中、宗谷本線の車中で時刻表を眺めていた時 のことでした。「神路・かみじ」という駅が時刻表には載っているのですが、 急行はもちろん各駅停車も1本も停まらないのです。上下線とも1本も停まり ません。折り良く列車はもうじき神路のあたりを通過します。目を皿にして 車窓を見ていると、少しの人家と半分崩れたような小さな駅舎がありました (駅舎は下り列車の左側に見えたような気がするのですが、今となっては不 確かです)。 やがて、時刻表巻頭の路線図は ――○――○――○――○―― が ――○――●――○――○―― 佐 神 筬 音 佐 筬 音 久 路 島 威 久 島 威 子 子 府 府 となり、改版後は ――○―――○―――○―― 佐 筬 音 久 島 威 子 府 となりました。 以下、行く場合のアドバイス(調査 by A.S) 音威子府からR40を西に12kmほど進むと、天塩川が ←← ↓ ↑ ↓ ↑☆ に曲がっている場所があり、その☆の部分が神路駅跡です。ただしR40から 見ると現地は天塩川を隔てた対岸にあたるうえ、筬島〜佐久の間には橋があ りません。 音威子府で聞き込んだ話では、「(神路への)橋があったけど落ちた」んだ そうです。そのせいか、橋へ通じていた(と思われる)車道自体が通行止。 ということで駅跡への到達には 1) 線路を歩いて行く 2) 線路脇の演習林の中を歩いて行く(注:道なし) 3) 天塩川を歩いて越える 4) 天塩川を船で行く ぐらいしか方法がないのですが、言うまでもなく無断で 1) や 2) をやるの は違法です。ヘタすれば捕まります。 という訳で、登山経験が豊富な方には 3) を、船〜カヌーを含む〜が用意 できるならば 4) を…ということになります。 # 失敗すると佐久近くまで流されるかもしれませんが :-)。 ★★ 宗谷本線・稚内−稚内桟橋 ★★ 宗谷本線の開業当初の終点である"稚内"駅は現在の南稚内駅の場所にあり、 その後に現在の稚内駅の付近に"稚内港"駅と、その北に仮乗降場である"稚内 桟橋"が設置されました。 その後に稚内桟橋仮乗降場は廃止され、稚内港駅が現在の"稚内"駅となり、 初代の稚内駅は"南稚内駅"となりました。 ○稚内桟橋 | ○稚内港 ○稚内港 ○稚内港 ○稚内(現) | | | | ○稚内(初代) → ○稚内 → ○稚内 → ○稚内 → ○南稚内 | | | | | ★★ 千歳線・北広島−苗穂 ★★ ○データ 廃止年月 1973.9.9 区間 苗穂−東札幌−月寒−大谷地−上野幌−(西の里)−北広島 沿線自治体 [1-3-1]札幌市、[1-3-2]北広島市 ***** 調査報告 2002.by H.O −千歳線の歴史と線路付け替え− ***** 札幌近郊の通勤通学の足として、また空港と札幌を結ぶ足として、お馴染みの 千歳線。この千歳線の歴史と遺構を調べました。 1.千歳線の歴史 1920(T09).10 千歳線、北海道鉱業鉄道札幌線として建設開始。 1923(T12).11 (北海道鉱業鉄道金山線(沼ノ端−富内)全通。) 1924(T13).02 北海道鉱業鉄道(株)から北海道鉄道(株)に社名変更。 見込んだ鉱山の採算が取れないとわかったため。 1926(T15).08.21 北海道鉄道札幌線、苗穂−沼ノ端間開通。 1929(S04) 北海道鉄道、王子製紙の系列に入る。王子製紙は苫小牧 への木材輸送路確保のため、株を買い占めた。 1932(S07).07.29 東札幌−苗穂間、電化完成。この区間に定山渓鉄道 (白石−定山渓)が乗り入れる。 1943(S18).08.01 北海道鉄道、戦時下の交通網整備強化のため、戦時特例 法によって政府に買収される。 1962(S37) 千歳線、複線化計画立てられる。 札幌−室蘭間の輸送路として、高まる重要性に応えるためであったが、 ・急カーブが多い上に急勾配もあり、幹線の規格に合わない。 ・急激な札幌の市街化で踏み切りが多い。 ・貨物ターミナルが新札幌に新設される。 などのため、北広島−苗穂間を北東寄りの現ルートに付け替え、主要道路 とはすべて立体交差とすることに決定。 1965(S40).12 工事開始。 1973(S48).09.09 現ルートで営業開始。 2.ルート変更マップ 札幌−苗穂−白石−平和−新札幌−上野幌 ‖ : | 東札幌=月寒=大谷地=北広島 | 至 千歳・沼ノ端 一本線が現在の路線です。 二本線が廃止された路線ですが、貨物輸送のからみで一部以下の経緯です。 1968(S43).10.01 白石−東札幌間開業。 1973(S48).09.09 苗穂−東札幌、月寒−北広島間廃止。 白石−東札幌−月寒間は函館本線貨物支線となる。 (月寒は主にアサヒビールが利用) 1976(S51).10.01 東札幌−月寒間廃止。 1986(S61).11.01 白石−東札幌間廃止。 3.定山渓鉄道との関係 東札幌はもともと定山渓鉄道(1918(T7)開通、1969(S44)廃止)の駅でした。 当初白石から東札幌を通って定山渓まで走っていたのですが、電化(1929 (S4))した時に、北海道鉄道の東札幌−苗穂も電化し(両鉄道とも王子製紙 の傘下だったのでこのようなことができたらしい)、電車は苗穂−定山渓を、 SLは白石−定山渓を走った時期があったようです。定山渓が特に賑わった 1957〜69年は、定山渓鉄道所有のディーゼルカーが札幌駅まで乗り入れて もいました。しかし、廃止された頃は電車のみの運行で、東札幌−定山渓 を走っていたようです。 また、定山渓鉄道が使用していた白石−東札幌間のルートは函館本線貨 物支線とは異なります。 というわけで、両方の関係を調べてみると地図も頭もぐちゃぐちゃにな ってきます。 4.遺構 4.1 千歳線車窓から見える付け替え跡(調査:2002.3.20) 北広島から札幌に向かって左の車窓を見ていると、住宅街が終わって山 間部になる所で左へ分岐していく旧線の路盤が現れます。調査時は雪が積 もっていたので舗装の有無はわかりませんでしたが、整地されていました。 一旦旧線は山奥に離れて見えなくなりますが、上野幌の町が近づくとと もに再び現線路の近くになり、駅前通りを隔てて線路と並行します。千歳 線は上野幌駅を出た直後、高架橋でR274を跨いでいますが、同様に旧線も R274を跨いでいます。このあたりは自転車専用道路になっているようです。 この後旧線は大谷地の方へ西進し、千歳線から離れて見えなくなります。 もう1度旧線が見えるのは白石を出て豊平川を渡る直前です。同じく左 の車窓。千歳線と直角に細長い空き地が見えます。引込み線が多数あった ので、幅も結構あるのですが、まだらに建物が建ち始めているので、ちょ っとわかりにくいです。 4.2 東札幌駅跡(調査:2002.3.20) R12は東橋で豊平川を跨いでいますが、岩見沢方面に1kmほど進むと「白 石跨線橋」があります。これは旧千歳線を跨いでいたもので、両側に路盤 が見えます。岩見沢に向かって左はビールの配送場か何かで、まだまだ跡 ははっきりしているのですが、右は東札幌駅の跡地ですが、巨大な高層マ ンションが建てられており、路盤はありません。周囲の建物に比べて新し くて異質なので、駅跡と推測できる程度です。 東札幌駅は地下鉄東西線の通っている通りまで続く大きな駅だったので すが、巨大高層マンションは跡地を利用してさらに何棟かの建設が予定さ れており、駅跡の消失が進んでいます。地下鉄通りから更にR36方向へ行 くと、倉庫や運送会社や変電所が建ち並ぶ雑然とした所から、突然どぶ川 を埋めて舗装したような、旧千歳線を利用した自転車道路が現れます。地 図によれば、月寒や大谷地を通って途切れることなく上野幌へつながって いることになっています。 5.調査雑感 鉱石搬出の目論見が外れて木材搬出用に製紙会社の傘下へ。また、日本 海側と太平洋側を結ぶ貨物輸送や軍事目的から札幌の郊外電車へ。次々と 替わる所有者の思惑が絡んでなかなか複雑な歴史がありました。 まあまあ新しい廃止区間なので、跡もよく残っている方ですが、人目の 多いところで地図を持ってうろうろ歩き回り、立ち止まったかと思うとカ メラを出して写真に収めるのはどう考えても挙動不審者です。調査当日は ひどい雨。雨宿りに立ち止まったマンションの軒下で、管理人さんに「引 越してきた人かい?」と呼び止められ、 私 「いえ、ちょっと雨宿りを」 管理人「そうか、じゃあこんな所じゃなくて中で休んでいきなさい」 私 「いえ、先を急ぐのでここで結構です」 と、冷や汗モノの会話でした。 参考資料 「北海道鉄道百年史 中」国鉄北海道総局、1980(S55) 「北海道鉄道百年史 下」国鉄北海道総局、1981(S56) 「北海道の鉄道」田中和夫、北海道新聞社、2001(H13) 「じょうてつのあゆみ」http://www.jotetsu.co.jp/about/ayumi.html 「鉄道廃線跡を歩く(P.190)」 【調査員の思い出 by Y.U】 子供の頃、旧千歳線月寒(ツキサップ)近辺に住んでいまして、よくD51等が通る のを見ておりました。 手を振ると、運転手が手を振り返してくれたり、汽笛を鳴らしてくれたりと、僅 かな交流があって、なんだかほのぼのしていたなぁと思い出す今日この頃です。 ★★ 根室本線・狩勝峠越え旧線 ★★ ○データ 廃止年月 1966.10.1 区間 落合−(狩勝)−新内−新得 沿線自治体 [1-4-2]南富良野町、[1-5-4]新得町 【沿革】 石勝トンネルと石勝線ができる前は、根室本線は現在の国道と同じく、 狩勝峠を越えていました。 【新得駅・火夫の像】(2000.5.3 by H.O) 新得駅前のロータリーにあります。台座にはSLの火室の扉が埋め込まれて おり、説明文もついています。峠越えの度に大量の石炭を投入しなければなら なかった機関助士〜俗に「火夫」と呼ばれた〜の辛い仕事を称え、後世へ伝え るものだそうです。煙にむせぶ姿を良くとらえている…かどうかは見る人次第。 【実験線】(1996.9, 2000.5.3 by H.O, 1998.5 by A.S) 1.沿革 新得駅から北へ向かうと国道が狩勝峠を越えて富良野へ通じています。道 路地図ではこの国道わきに「実験線」と書かれた線路があります。これ、元 々は実験線ではありません。石勝線ができる前は道央と道東を結ぶ大動脈で あった根室本線の跡なのです。 1966(S41).10 新狩勝トンネル経由の現在の根室本線が開通。狩勝峠越 えの旧線は廃止され、脱線実験のための「実験線」となる。 1979(S54) 実験線としての使用を終了。 1981(S56).10.1 石勝線開通。 という経緯を辿って現在に至っています。 昭和30年台までは実験線がなく、実験用の車輪を設置した専用の試験車を 一般の営業路線に走らせて実験が行われていました。しかし、これでは(列 車自体を脱線させられないので)満足な結果が得られませんでした。このた め廃止された狩勝越えの(旧)根室本線が「実験線」に転換された…筈です。 2000年3月には東京で地下鉄が「せり上がり脱線」(上り勾配やカーブで車 輪とレールの摩擦が大きくなり、車輪のフランジがレールに乗り上げて外れ てしまう脱線)を起こし、多数の死傷者が出る痛ましい事故がありました。 この事故に関連して一部のTV番組では、過去にこの実験線で行われた「せり 上がり脱線実験」の様子を放映していました。モノクロ映像で、車輌の下に 取り付けられたカメラが、車輪がレールに乗り上げて外れ、車輌が横転する 様子を生々しくとらえているものでした。 2.場所 石勝線に乗って石勝トンネルを帯広方向に出ると、列車は大きくカーブを 描きながら下っていきます。左の車窓に地図通りに軌道跡が見えてきます。 レールは既に撤去されています。 R38 −−−−−−−−− R38 / −−−−−−−−−−−<□ 駅前通り ■ −−−−−−−−−−−−−−−−−− 至 --------〕〔-----------------------、_________ ______ 至 富良野+++++〕 〔++++++++) (+++++++++++++++ [新得駅]++++ 帯広  ̄ ̄ ̄ 凡例: −−− 道路 ++++++ 現在の線路 ---___ 軌道跡 〕 〔 鉄橋 (向きが一般表記とは90°違いすが…:p) ) ( トンネル ■ SL □ とんかつみしな & 国道の青看板(至鹿追) 駅から富良野(及び千歳)方向に歩いていくと道がR38と合流し、そこに国 鉄SL(D5195)が置いてある広場になっています。駅からSLまで歩いて10〜15 分です。鉄橋までさらに5分程度です。 3.調査結果(新得駅から狩勝峠へ向かった順序です) 新得駅は線路がいっぱいありますが、一番道路側に旧線があったようです。 駅構内の跡ははっきりしませんでした。 ちょっとした山があって、現在の線路はトンネルになっているのですが、 旧線は山を廻っています。道路沿いにずっと草ぼうぼうの(と言うより既に ジャングル化した)路盤が残っています。 もう少し行くと小さな川に架かった鉄橋がありました。煉瓦積みの橋脚や 橋桁も残っています。新線の鉄橋と並んでいます。このあたりは踏み込んだ 人が多いようで、草丈も「ほどほど」でした。 もう少し行ったところにスキー場へ行く道があり、これが踏切跡になって います(地図では割愛)。道路の舗装に継ぎ跡が残っています。新線はこの道 路を高架でまたいでいます。この踏切跡から左右に道床が続いており、鉄橋 へもここから行くのが便利です。 全線歩き通したわけではありませんが、道床は峠方向へも新内駅の少し手 前まで、ほとんど切れずに続いているようです。R38の峠に向かって左側に は屋根つきの休憩施設があります。ここのバッタ塚(注:明治期、十勝に大発 生したバッタを処分して埋めた盛り土)の碑文の裏手にも道床があります。 【新内(にいない)駅】(2000.5.3 by H.O) 狩勝峠から新得へ向かう途中、左側にサホロスキー場への分岐が現れます。 次に右側に「狩勝高原」「ホースパーク」などの看板が現れます。とほ宿の 「ロッジあるぷ」のある所でもあります。 この道を入ると、正面に綺麗に芝生に囲まれた新内駅が現れました。奥に はホースパークがあり、駅は入口の飾りの趣きもあります。 しかし、連休初日だというのに客はゼロ。シトシトと雨が降っているせい なのでしょうか。雨に濡れないようにテラスの屋根の下で係のおじいさんが 一人、せっせと薪を焚いています。バーベキューができる趣向のようですが、 この天気では…。馬も張り切っているのに誰も来ないのが不満なのか、盛ん に「ヒヒ〜ン」といなないています。ようやく客が来てくれたと思ったのも つかの間、この2人は駅にしか興味がありません。ごめんなさいね。 ホームと駅舎(入れない)が綺麗に残されており、レールもあります。ポイ ント切替機も残っています。国鉄SL(59672)と「えぞらいちょう」と車名表 示された寝台車(ナロネ21551、ナロネ22153、ナハネ20132)が3両。4両とも 上部がビニールシートで覆われています。保存のためなのか雨漏り対策なの か…? そう、列車ホテルと銘打って寝台車に泊まれるのです。しかし、随分昔に 観光ガイドで見た覚えがあるのですが、これはどう見ても泊まれるようなシ ロモノではありません。看板に「1泊2000円、寝袋持参は1000円」とあるの ですが、窓から見える室内は木の葉などが溜まっていて、お世辞にも綺麗で はありません。 …いえいえ、こんなことを言っては営業妨害です。きっと今はシーズンオ フだからでしょう。もう少しすればシートが外され、掃除もされてライダー ハウスとして賑わうのではないでしょうか。なお、ちゃんとした建物の宿泊 設備もあります。 (追記:2000年9月末に現地を訪れた際にも客はいませんでしたが、シートは外 されていました。したがって「夏季のみ」の営業であると推定されます) ホームに立って新得方向を眺めました。すぐにレールは切れていて、芝生 の向こうは白樺林です。反対の狩勝峠の方向を眺めました。やはりすぐにレー ルは切れていて、芝生の向こうには雑木林に隔てられてゴルフ場があります。 昔は新内には集落があり、郵便局もあったようです。列車を降り、駅舎を通っ て駅の外に出ると、そこには小さな市街地が広がっていたのでしょう。でも 今、目の前に広がるのはホースパーク。そしてゴルフ場。峠越えの列車や人々 を送り迎えしていた小さな町は使命を終え、再び自然の中へ還っていこうと しているようでした。新内駅というモニュメントだけを遺して。 【落合駅】 下り列車の場合、左の車窓を見ていると、駅から左に大きくカーブした旧 線が残っています。レールも残っていますが、高架になった国道の支柱にぶ つかっておしまいになっています。 【調査員のひとりごと】(by H.O) 旧線は、昭和20年代に母が一人旅で通った線路です。士別に嫁いだ姉を訪 ねて東京から汽車に乗り、士別と道東を回ったあと、帰京するため上りの根 室本線(注:当然石勝線はない)に乗りました。ところが「狩勝峠は眺めのと ても良いところだ」と聞いて、下車したら列車がなくなるのも構わずに下車 したとのこと。後続の列車は富良野止まりで、その晩は富良野駅の待合室で 寝たそうです。狩勝駅は現在の国道の狩勝峠のすぐ近くだったようですが、 50年前ってどんなところだったんでしょうね。そんなわけでちょっと思い入 れがあるんです。 ★★ 根室本線・野花南−島の下 ★★ 滝里ダム(建設中…の筈)によって一部の区間が水没するため、新たにトンネ ルを掘って回避するルートが拓かれました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 根室本線・金山−東鹿越 ★★ 金山ダム建設によって一部の区間が水没するため、高い所へ付け替えられま した。列車に乗って目を皿のようにして地図と風景を見比べると、眼下の林の ところどころに軌道跡が見られます。 ★★ 根室本線・釧路−天寧・東釧路−天寧 ★★ 釧路−厚岸が開通した当初の根室本線は、(旧)釧路川の東岸の貝塚地区から 別保のあたりまで現在よりも北よりのルートを辿っていました。この途中にあ たる貝塚地区に天寧駅が設置されたのは1923年で、現在の東釧路駅の北方にあ たります。 その直後と言える1927年に釧網本線が標茶まで開通すると、根室本線も現在の 東釧路および武佐を通るルートに切換えられ、釧路−天寧は支線に格下げされて 天寧−別保は廃止されました。 その後の1940年に天寧駅は釧路駅に近い材木町に移され、2代目の天寧駅への ルートは釧路から*ではなく*東釧路からに切り換えられました。 ★★ 根室本線・釧路−浜釧路 ★★ 白糠−釧路が開通した1901年から釧路−厚岸が開通した1917年まで、釧路駅は 現在の幸町にある車輌管理所の位置にありました。1917年に釧路駅は現在の位置 に移され、初代の釧路駅は貨物駅の浜釧路となりました。 浜釧路駅および同駅に通じる路線が廃止されたのは1989年とされています。 ★★ 根室本線・厚岸−浜厚岸 ★★ 根室本線が厚岸まで開通した時、実際の終点は現在の厚岸駅よりも約1.2km東 の厚岸港に隣接した浜厚岸でした。 浜厚岸駅、及び厚岸−浜厚岸の支線が廃止されたのは1984年とされています。 ★★ 根室本線・根室−根室港 ★★ 根室地方の開拓の進展に伴う輸送の増加に対応するため、1934年に貨物駅であ る根室港が設置され、そこに通じる約2.6kmの支線が建設されました。 東根室から根室へと根室本線は西進していますが、根室から根室港への貨物支 線は根室市街を迂回するために根室駅で折り返して東進し、曙町地区で北に向き を転じ、その先の汐見地区で西に向きを転じて根室港に達していました。 この支線は1965年に廃止されました。 ★★ 函館本線・上目名駅(現地調査:2003.4.29) ★★ [概略] 函館本線目名駅と熱郛駅の間にありましたが、1984年3月31日に廃駅となりま した。目名峠の目名側に位置し、現在は誰もいない山の中で保安設備が残るだけ ですが、かつては蒸気機関車を撮影する有名ポイントであったようです。 [行き方] 国道5号を熱郛側から北上すると、電波塔のある目名峠をすぎてまもなく、 T字路の標識が現れて左手に畑の中を進む未舗装道が現れます。道は下り坂に なって山間部へ入り、やがてシェルターのある踏切を越えて左へ曲がり、道の 終わったところが上目名駅跡になります。 [遺物] ホームなし、駅舎なし。現在立っている保安設備の建物(脇に国鉄コンテナあ り)は廃止になった当時からありますが、駅舎からは少々離れていました。外さ れたレールや犬釘が放置されていた、との情報もあったのですが、まだ雪に埋 もれている個所が多かったためか確認できませんでした。 [その他] 積雪のため、踏切から先は歩かねばならなかったのですが、帰り道、丁度踏 切で列車が通過していきました。警報機のある踏切で、普段は聞く人もなく鳴 るのだな、と無人の山間に鳴り響く警報音の風景を想像したのでした。 ★★ 函館本線・石狩川鉄橋 (現地調査1999.12.30, 修正2000.5 by H.O) ★★ 1.位置 正式名称は知らない(誰か教えてください)のですが、旭川市内にあって近 文駅と旭川駅の間で石狩川を渡っている鉄橋です。 2.概要 この橋は2度付け替えられています。初代の橋は現在と同じ位置で、2代目 の橋は道路の旭西橋寄り約100mのところを通っていました。1959年発行の市 街地図では2代目の橋のみが記載されていますが、1999年(マップル)は既に 撤去された2代目が3代目(現在の鉄橋)の横に載っています。おそらく現在の 鉄橋になったのは比較的最近のことなのだと思います。 国土地理院の地図で年代を追って細かく見てみると、付け替えの理由は石 狩川の河川改修であり、そのために一時的に橋を架け替えたのではないかと 考えられます。2代目の橋の方が初代の橋よりカーブが多く、わざわざ鉄道 側の理由で架け替えるとは思えないからです。 架け替え時期の特定は2.1章にあるように国土地理院地図ではできません が、5万分1「旭川」図の変遷は以下のようになっています。 図番 発行年 橋 39-10- 4 1931(S 6) 1代目のみ記載 39-10- 6 1952(S27) 2代目のみ記載 39-10- 8 1959(S34) 〃 39-10- 9 1968(S43) 2,3代目併記 39-10-10 1974(S49) 〃 39-10-13 1987(S62) 3代目のみ記載 39-10-14 1993(H 4) 〃 3.遺構 今の石狩川には2代目の橋脚跡は残っていません。ただし、近文から旭川 に向かう途中で進行方向左側の線路端に目を凝らしていると、街中を流れる 小川を跨ぐ鉄橋の橋脚が見えます。石狩川を渡った後の線路は一部高架にな るのですが、2代目の高架の橋脚も見えます。 ★★ 函館本線・近文−納内 ★★ 1.沿革 この区間は昔は石狩川沿いに線路が走っていましたが、トンネルをたくさ ん掘ってカーブを少なくした新線に1969年10月1日に付け替えられました。 旧線はサイクリングロードとして残されています。この間には納内と神居古 潭の2つの駅があり、納内はサイクリングロード脇に新駅があります。 2.調査結果・神居古潭駅 駅跡は、伊納−納内間のR12が石狩川沿いに進む山間部にあります。R12に 表示があり、車道とは橋を渡った対岸です。駅舎とホームがあり、3両の蒸気 機関車(29638、C57201、D516)が展示されています。 3.クロカンスキーによる踏査結果(2001.1.5 by H.O) 私が実際にクロカンスキーで歩いたのは、伊納駅の前後(トンネル-1.5km- 伊納駅-5km-近文大橋)だけなのですが、最近の道路地図(1/10万)と車窓の風 景を総合して報告します。 ・サイクリングロードは旭川市街地の旭西橋から始まりますが、近文駅過ぎ て線路沿いになるまでは線路跡ではありません。石狩川の土手がサイクリ ングロードになっています。 ・概ね1kmおきに自転車専用道であることを示す青い道路標識があり、「伊 納までX.Xkm」「旭西橋までX.Xkm」と表示してあるので便利です。 ・伊納駅前にはサイクリングロードに面して踏切の遮断機が残されています。 使用していたものそのままなのか、移設されたものなのか不明ですが。 ・伊納駅から神居古潭へ向かう所で残念ながらサイクリングロードはゲート で閉鎖されています。「この先トンネル内は、のり面崩落のため当分の間 閉鎖云々」と立て札があります。夏の長距離チャリダー以外は利用しない 道ですから、おそらく再び通れるようになる見込みはないでしょう。 ・それでもゲートを越えて進むとトンネルがあります。トンネルの入り口は 鉄柵で封鎖されカギもかけられていますが、人が入れる扉があり、ここに はカギはかかっていません。でも危険ですから入ってはいけません。 ・そんなわけで、神居古潭駅へ行くにはR12の道路標示に従って石狩川を渡 るしかありません。 ・列車が神居トンネルを納内方向へ抜けると、再び線路沿いにサイクリング ロードがあります。しかし、トンネルを出て約2km、納内駅に着く約3km手 前でサイクリングロードはおしまいになっており、道道に突き当たります。 <で、クロカンの感想> 大した下調べもせずに「伊納−納内を歩くぞ」と意気込んで無人の伊納駅 に下り立ちました。駅前広場は道路を除雪した雪の山で、サイクリングロー ドは雪山を越えた向こう。ところが、すぐにトンネル閉鎖を告げるゲートが あり、出鼻をくじかれてしまい、代わりに近文へ向かって歩き始めました。 川を溯(さかのぼ)らねばならない(=上り)上に踏み跡はなく、深さ20cmほどの ラッセルが続きます。汗だくになっても気温はマイナス、耳たぶはカチカチ に冷たく、ストックにも雪が凍り付きます。 とは言え、石狩川を右に見下ろしながらのハイキングは眺めも良く、カモ がたくさん泳いでいでおり、空を見上げるとオジロワシも。林間部では無数 のシカの足跡に遭遇。勿論ネイチャーウォッチングだけでなく、線路脇のブ ロック積みや土留めも残っており、鉄橋も渡れて鉄道考古学的散策も楽しめ ます。急なアップダウンもなく一本道で楽なコースですが、強いて挙げれば、 伊納駅からすぐに人里を離れてしまうので、万一の時に困るかも、というこ とですね。 近文近郊は人家もあり、犬の散歩道として利用されており、雪が犬の小便 で点々と黄色になっており、面白くないので伊納駅から5km歩いた近文大橋 のたもとで引き返しました。往路はラッセルばかりで2時間近くかかりまし たが、復路は自分の踏み跡を辿るのでスイスイと進み、1時間ほどでした。 まだ帰りの列車まで時間がありましたので、神居古潭側のゲートを越える ことにしました。川沿いの林間コースが続きます。どこまで行けるのか気に なるけど、列車の時間も気になります。何か戻るきっかけになるものが出て きて欲しい…と思っていた所で1.5kmほどでトンネルが出てきました。ほっ。 実はここまでずっと車のわだちがあり、除雪もされていました。わだちはゲ ートを越え、トンネル内部にも続いていました。ゲートにもトンネル入口の 柵にも、どちらもカギがかかっているのですから、このわだちはパトロール の車ではないかと思います。閉鎖していても管理する必要があるのでしょう。 でもここ、自転車専用道なんだよなぁ…。 ★★ 函館本線・桑園−札幌市場 ★★ 桑園から貨物駅である"札幌市場"まで1.6kmの支線がありました。1978年に 廃止されました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 函館本線・小樽築港−浜小樽 ★★ 小樽築港から貨物駅である"浜小樽"まで3.2kmの支線がありました。1984年 に廃止されました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 函館本線・美唄−南美唄 ★★ 美唄から南東に位置する"南美唄"に達する支線があり、ちゃんと旅客列車も 走っていました。1973年に廃止されました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 日高本線・苫小牧−勇払 ★★ 当初は海岸に沿って通っていた日高本線ですが、苫小牧港(西港)建設のため に沼ノ端で分岐する現在のルートに切替えられました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 室蘭本線・覆道崩落跡(調査:1996.9, 1999.GW by H.O) ★★ 【室蘭本線の沿革】 室蘭本線(岩見沢−室蘭)は、現在、特急ライラックの通る苫小牧−室蘭間 を除いては1時間1本程度の鈍行運転のローカル線です。しかし、かつては中 央山地で掘った石炭を室蘭港まで運搬するための日本の産業の大動脈でした。 国鉄として全通したのは昭和3(1928)年ですが、レールが引かれたのは明 治25(1892)年、北海道炭礦鉄道会社の運炭鉄道が最初です。追分駅には鉄道 資料館があります(9章参照)。由仁駅は明治25(1892)年に建てられた駅舎を 今も使っており、恐らく北海道最古の現役駅舎です。天井や窓が明治の雰囲 気を醸し出していますが、手入れがあまりされていないのが残念です。 【調査結果】 場所: 栗山−栗丘間 道路地図では、道路脇の鉄道が2本のトンネルになっています。単線か ら複線に工事した為でしょう、1本ずつが別々のトンネルになっており、 1本は完全に山の中(隧道)、もう1本は山を削った覆道になっていました。 事故: 覆道が1990(平成2)年春、崖崩れで崩壊しました。現在、この区間は 残った片方の隧道だけで単線運転されています。 見られる物: 崩れた覆道。並行している道路からは近景が、地図を見ながら 夕張川の土手へ行けば(車両通行可)、覆道全景と山崩れの全貌がわかりま す。覆道の支柱は美しいアーチ型をしており、これが一部土砂に押し潰さ れています。 ★★ 室蘭本線・岩見沢−志文 ★★ 詳しい状況は判っていないのですが、ルートが変更されたようです。 ★★ 室蘭本線・室蘭−西室蘭 ★★ 室蘭から貨物駅である"西室蘭"まで1.4kmの支線がありました。1985年に廃 止されました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 室蘭本線・豊浦−大岸 ★★ 当初は内陸の豊泉経由であったのが、短絡化されたようです。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★ 夕張線・紅葉山−登川 ★★ ○データ 廃止年月 1981.7.1 区間 紅葉山−楓−登川 沿線自治体 夕張市 参考文献 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 当初の計画では、夕張線・紅葉山から東に延びる路線は日高まで東進してか ら北上し、根室本線の金山に至るルートとされていました。この計画は中止さ れたものの、根室本線のバイパスとしての石勝線の建設に際して紅葉山−登川 のルートが採用されることになりました。 しかし先に開通していた紅葉山−登川は、夕張線の支線として建設されたた めにカーブや勾配が急であるため、高速運転が求められる石勝線に転換される ことなく1981年に廃止されました。 # ってことしか判っていません。詳しいことをご存じの方、ご教示ください。 ★★★★★ 6 殖民軌道/簡易軌道 ★★★★★ 大正時代〜第二次大戦に至る間に2期にわたって実施された「拓殖計画」に 基づいて計画/建設された軽便鉄道のことを「殖民軌道」と呼びます。 道路が整備されておらず、自動車が極めて高価であった当時としては、同じ 1頭の馬で(道路での馬車と比べて)数倍の荷を運ぶことができる馬車鉄道は極 めて強力な輸送手段であるため、全道に47路線が計画されました。 殖民軌道は1947(S22)年までは内務省の所管で、管理は内務省の内局であった (当時の)北海道庁。そして実際の運営は(根室線・枝幸線を除いて)沿線町村が 設立した「運行組合」が行うという、多元行政の悪い見本のようなものでした。 1947(S22)年以降の殖民軌道は農林省の所管となり、「簡易軌道」という名 で呼ばれるようになりました。これ以後の管理は(地方自治体としての)北海道 庁に移ったものの、1952(昭和27)年の北海道開発局の設置とともに開発局が建 設/管理に介入するようになり、さらにディーゼル化された路線は沿線の町村 に運営が委託されるようになりました。『xx町営軌道』という名前はこの時 代のものです。 このような経緯があった殖民軌道/簡易軌道は物理的には間違いなく鉄道なの に、法的には鉄道ではない…というややこしい存在でした。 最盛期には道東・道北を中心に約570kmの総延長を誇った殖民軌道/簡易軌道 なのですが、経済の復興とともに自動車の普及と道路の整備が進み、特に幹線 道路の整備が一段落して「公共事業としての除雪」が可能な時代になると、冬 季も自動車が通行できるようになり、軌道の存在価値は失われました。 このため新線の建設は1966(S41)年を最後に打ち切られ、それから5年間で全 て廃止されました。そして今では後述のように、道内の数ヶ所に保存されてい る車輌と、開墾されなかった原野の中に、その痕跡を留めるのみとなりました。 ★★★ 6.1 データバンク ★★★ 左端に「|」が付いている行は、今井理/森川幸一「簡易軌道写真帖」(ネコ パブリッシング、1997)に含まれる「簡易軌道路線変遷表」を、停車場名につ いては後述する今井理さんのwww pageを元にしたものです。停車場名の中には 失われた地名と現存する地名が混じっていますが、あえて区別はしていません。 ★★ 真狩線 [1-2-1] 現在の虻田郡ニセコ町のニセコ市街と、東に位置する真狩村の真狩市街を 結んでいた路線です。この路線には「狩太−富士見−元町−近藤−富里−真 狩別」の停車場がありました。 | S10.真狩線(狩太−真狩) 12.966 | 13.(動力化) | 29.真狩線(狩太−真狩) -12.966 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 留寿都 −− −−− 該当する旧版図は不明 ニセコ −− −−− 該当する旧版図は不明 ★★ 当別線 [1-3-2] 現在の樺戸郡当別町内の当別市街と、北に位置する同町内の青山地区を結 んでいた路線です。この路線には「当別−六軒町−茂平沢橋−弁華別−砂利 揚場−青山橋−共有地−中山の沢−沼の沢−青山中央−六号−一番川−花田 前−吉田前−大袋」の停車場がありました。 # 下記のとおり戦後の建設なので、この路線まで「殖民軌道」と呼んでは #いけません :-)。 また、書類上は下記のとおり1958年まで存続したことになっていますが、 実際には1955年度の終わりで運行は停止されたようです。 | S24.当別線(当別−青山中央) 25.360 動力線 | 25.当別線延長(青山中央−花田前) 5.560 | 27.当別線延長(花田前−大袋) 0.428 | 33.当別線(当別−大袋) -31.348 全廃 図名 発行 リスト番号 当別 昭32 46- 5-7 月形 昭31 45- 8-5B 参考: 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 ★★ 貫気別線 [1-5-1] 現在の沙流郡平取町内の荷負地区と、東に位置する同町内の上貫気別地区 を結んでいた路線です。この路線には「荷負−貫気別−上貫気別」の停車場 がありました。 他の鉄道/軌道に接続しておらず、建設はされたものの実際には殆ど使わ れなかったようです。 | S 9.貫気別線(荷負−上貫気別) 13.432 | 15.貫気別線(荷負−上貫気別) -13.432 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 穂別 −− −−− 該当する旧版図は不明 岩知志 −− −−− 該当する旧版図は不明 富川 −− −−− 該当する旧版図は不明 ★★ 居辺線 [1-5-4] 現在の中川郡池田町内の高島市街と、北西に位置する河東郡士幌町の下居 辺地区を結んでいた路線です。この路線には「高島−信取−居辺−清澄−下 居辺」の停車場がありました。 開通当初は大変な人気(にんき)を博したものの、5〜6年で輸送量が急減し たことが報告されています。 池田町編纂、発行の「池田町思い出のアルバム」によると、高島、下居辺 一帯は高島家が大地主となって小作人を募って入植させた高島農場があった ところです。殖民軌道についての記述はないのもの、池北線(現・ふるさと 銀河線)高島駅の当時の写真には、山積みされた農作物が写っており、高島 農場の物資輸送が主目的であったことが想像できます。 | S 7.居辺線(高島−下居辺) 18.832 | 16.居辺線(居辺12号−下居辺) -5.032 | 23.居辺線(高島−居辺12号) -13.800 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 十勝池田 −− −−− 該当する旧版図は不明 高島 −− −−− 該当する旧版図は不明 ★★ 弟子屈線 [1-6-1][1-6-2] 現在の川上郡弟子屈町の弟子屈市街と、南東に位置するる標茶町の虹別地 区を結んでいた路線です。この路線には「弟子屈−東弟子屈−峠下−仁田山− 磯分内−北虹別−虹別」の停車場がありました。(注:この「磯分内」と、現 在のJR釧網本線の駅のある磯分内地区とは別の場所です。) 元々「陸の孤島」であった虹別地区の開拓を促進するための路線なのです が、距離が長い上に急勾配の区間が多いために運行は困難であり、省線(注: 戦後は国鉄)標津線の標茶−計根別が開通すると、後述する「虹別線」の建 設のための資材を捻出するために過半の区間が廃止され、以後は文字どおり 弟子屈地区のための路線になったようです。 | S 8.弟子屈線(弟子屈−虹別) 22.030 | 13.弟子屈線(弟子屈−北虹別) -9.? | 弟子屈線(北虹別−虹別):虹別線に編入 -2.464 | 17.弟子屈線(東弟子屈−仁多山) -4.9 | S20.弟子屈線(弟子屈−東弟子屈) -5.6 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 弟子屈 −− −−− 旧版図は未入手 磯分内 −− −−− 旧版図は未入手 ★★ 知安別線 [1-6-2] 現在の川上郡標茶町の標茶市街と、南東に位置する同町内の知安別地区を 結んでいた路線です。 先に工事が進んでいた知安別地区の内では細々と使用されたものの、結局 は標茶まで達することなく工事が打ち切られたようです。 | S12.知安別線(標茶−知安別原野西2線南6号) 7.074 | 22.知安別線(標茶−知安別原野西2線南6号) -7.074 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 標茶 −− −−− 該当する旧版図は不明 ★★ 阿歴内線 [1-6-2] 現在の川上郡標茶町内の塘路市街と、南東に位置する同町内の阿歴内地区 を結んでいた路線です。この路線には「塘路−春舞−中村−達古武−阿歴内」 の停車場がありました。 | S12.阿歴内線(塘路−阿歴内原野北6線東21号) 8.251 | 13.阿歴内線延長(阿歴内北6線東21号−阿歴内 3.841 | 36.阿歴内線(塘路−阿歴内) -12.651 全廃 図名 発行 リスト番号 尾幌 昭32 32- 6-5 ★★ 久著呂線 [1-6-2] 現在の川上郡標茶町内の塘路市街と、東に位置する阿寒郡鶴居村の最北部 を結んでいた路線です。この路線には「塘路−二本松−浜頭−妙見台−島波− 中久著呂−宮城−川又」の停車場がありました。 輸送量が多かったため、地元では長年にわたって改良工事とディーゼルカー の導入を働きかけて来ましたが、湿原を横切るルートであり地盤が悪いせい もあって、実現することなく廃止となりました。 | S 4.久著呂線(塘路−中久著呂) 20.586 | 9.久著呂線延長(中久著呂−上久著呂) 8.280 | 40.久著呂線(塘路−上久著呂) -28.878 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 大楽毛 昭43 32-10-7 鶴居 昭32 32- 9-4 当時は「中雪裡」 弟子屈 昭32 31-12-5 ★★ 標茶線(2次)→標茶町営軌道 [1-6-2] 現在の川上郡標茶町内の標茶市街と、北西に位置する同町内の上オソツベ ツ地区を結んでいた路線です。この路線には「標茶−開運町−下御卒別−厚 生−新道−神社前−中御卒別−大曲−上御卒別」の停車場がある本線と「中 御卒別−二区−三区−沼幌」の停車場がある支線がありました。 # 「標茶線(2次)」というのは、この路線が建設される前にも『標茶線』 #が存在したため、研究者 :-)が便宜的に用いている用語です。「標茶線(1 #次)」については後述します。 | S30.標茶線(2)(開運町−神社前) 14.300 動力線 | 32.標茶線(2)延長(神社前−中オソツベツ) 4.200 | 33.標茶線(2)延長(中オソツベツ−上オソツベツ) 4.021 | 36.標茶線(2)延長(開運町−標茶駅前) 1.683 | 41.標茶線(2)延長(中オソツベツ−沼幌) 6.480 | 42.標茶線(2)(開運町−標茶駅前) -1.683 廃止 | 45.標茶線(2)(中オソツベツ−沼幌) -6.480 廃止 | 46.標茶線(2)(開運町−上オソツベツ) -22.521 全廃 図名 発行 リスト番号 標茶 昭46 32- 5-8 鶴居 昭46 32- 9-5 弟子屈 昭48 31-12-6 参考:岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 雪裡線・幌呂線→鶴居村営軌道 [1-6-2] 現在の釧路市内にある新富士市街と、北に位置する阿寒郡鶴居村の中雪裡 地区、ならびに同村の幌呂地区を結んでいた路線です。雪裡線には「新富士− 鳥取−鶴野−丸松−温根内−坂ノ上−下幌呂−下雪裡−長澤−中雪裡」の停 車場が、幌呂線には「下幌呂−幌呂−中幌呂−茂幌呂−元駅逓−上幌呂−新 幌呂下−新幌呂」の停車場がありました。 # 1941年にはバスを改造したガソリンカーが導入されたものの、書類上で #は戦後の改良事業まで「馬力線」として扱われていました。 ○新幌路 | ○中雪裡 ○上幌呂 | | | ○−−−−−○下幌呂 中幌呂 | ○温根内 | ○新富士 | T15.雪裡線(鶴野−下幌呂) 13.856 | S 2.雪裡線延長(新富士−鶴野) 5.796 | 雪裡線延長(下幌呂−上幌呂) 9.475 | 幌呂線(下幌呂−上幌呂) 15.490 | 雪裡線延長(区間不明) 0.483 | 16.(雪裡線・幌呂線動力化) | 18.幌呂線延長(上幌呂−新幌呂) 3.818 | 42.雪裡線(新富士−温根内) -14.6 廃止 | 43.雪裡線(温根内−中雪裡) -13.5 廃止 | 幌呂線(下幌呂−上幌呂) -19.324 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 大楽毛 昭43 32-10-7 鶴居 昭32 32- 9-4 当時は「中雪裡」 徹別 昭32 32-13-6 当時は「雄別」 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩く」JTBキャンブックス,1995 保存車輌あり。6.3参照。 ★★ 茶内線・若松線・円朱別線→浜中町営軌道 [1-6-2][1-6-3] 現在の厚岸郡浜中町の浜中市街と、北に位置する同町内の西円朱別地区、 北東に位置する野付郡別海町の上風蓮地区、ならびに西に位置する厚岸郡厚 岸町の奥別寒辺牛地区を結んでいた路線です。 にもかかわらず :-)、一括して「浜中町営軌道」と呼ばれることが多い路 線です。また「最後まで残った簡易軌道」という点でも特筆すべき存在です。 茶内線には「茶内−秩父内−八線−十線−中茶内−第三小学校−十五線− 萩の里−支所前−西円朱別」の停車場が、若松線には「中茶内−十六線−若 松−別寒辺牛」の停車場が、円朱別線には「秩父内−四号−下茶内−中円朱 別−宮の岡−東円朱別−日向前−上風蓮」の停車場がありました。 ○上風蓮 ○上茶内 ○西円朱別 \ / \ / \ / \ / ○東円朱別 ○若松 ○中茶内 / / \ / ○別寒別牛 \ / \ / ○秩父内 \ ○茶内 | S 2.茶内線(茶内−奥茶内:若松) 13.036 | 円朱別線(秩父内−円朱別:下茶内) 3.397 | 7.円朱別線延長(下茶内−東円朱別) 5.763 | 16.茶内線延長(中茶内−西円朱別) 5.925 | 30.若松線(中茶内−若松)茶内線から分離 5.620 | 茶内線(中茶内−若松)若松線として独立 -5.620 | 32.(茶内線動力化) | 37.(円朱別線動力化) | 39.若松線延長(若松−別寒辺牛) 1.880 | (若松線動力化) | 40.円朱別線延長(東円朱別−上風蓮) 4.240 | 47.茶内線(茶内−西円朱別) -12.959 全廃 | 円朱別線(秩父内−上風蓮) -13.366 全廃 | 若松線(上茶内−別寒辺牛) -7.800 全廃 浜中町役場による説明板「浜中町簡易軌道の歴史」(茶内・ふるさと公園。 保存車輌あり。6.3参照)によれば、 大13(1924) 茶内原野に114戸が入植。 ---- 以来入植者が増加。 昭02(1927) 北海殖民軌道・茶内線、馬力による運行開始。 区間:茶内−厚岸町若松、茶内−下茶内 ---- 名称が北海道簡易軌道となる。 昭28(1953) 浜中町の委託管理運営となる。 昭30(1955) 動力化工事開始。 ---- ディーゼル化、路線総延長34kmとなり、地域の足と して、また牛乳材伐等の生産物の輸送にあたる。 ---- 道路の整備が進み、自家用車、トラックが普及し、 軌道の利用が年々減少すると共に施設が老朽化する。 昭47(1972) 5月1日、廃止。 であるとされています。 図名 発行 リスト番号 厚岸 昭46 32- 2-5 霧多布 昭46 29-14-5 茶内原野 昭47 32- 1-5 姉別 昭49 29-13-6 参考:岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 仁々志別線 [1-6-2] 現在の釧路市内の山花地区と、北に位置する阿寒郡阿寒町の仁仁志別地区 を結んでいた馬力の路線です。地元の方によりますと、仁仁志別は今郵便局 や仁仁志別小中学校があるあたり(吉田商店のあたり)まで来ていたそうで す。現地調査では、仁仁志別のJA阿寒の南側の車道沿いにある築堤が廃線遺 構らしく見えますが、確証は得られていません。この路線には「穏禰平−繁 岡−住吉−仁々志別」の 停車場がありました。 | S12.仁仁志別線(穏禰平:山花−仁仁志別) 12.242 | 39.仁仁志別線(山花−仁仁志別) -12.242 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 阿寒 昭34 32-14-8 大楽毛 昭43 32-10-7 徹別 昭32 32-13-6 当時は「雄別」 ★★ 計根別線・標茶線(1次) [1-6-2][1-6-3] 現在の標津郡中標津町の中標津市街と、南西に位置する同町内の計根別市 街を結んでいたのが計根別線です。計根別市街から南に位置する野付郡別海 町の西春別市街を経て南西に位置する川上郡標茶町の標茶市街に達していた のが標茶線(1次)です。 # 上記の「西春別市街」とは、後の国鉄標津線の西春別駅から南東に約 #4.5km離れています。 # 「(1次)」を付けたのは、前述の「標茶線(2次)」と区別するためです。 #計根別線には「中標津−中標津市街−至誠−唐澤−計根別」の停車場があ #りました。標茶線(1次)には「標茶−両国−西春別−計根別」の停車場は #確認されていますが、これら以外の停車場の存在については定かではあり #ません。 これらの路線は、後述する「根室線(1次)」とともに、沿線の輸送需要が 旺盛であった故に軽便鉄道では力不足であることが露呈し、省線(注:後の国 鉄)標津線に使命を譲りました。 | T15.計根別線(中標津−計根別37線) 7.401 | S 2.計根別線延長(計根別線37線−計根別) 8.254 | 5.標茶線(1)(標茶−両国) 13.837 | 6.標茶線(1)延長(両国−西春別) 13.432 | 7.標茶線(1)延長(西春別−計根別) 11.424 | 9.計根別線延長(計根別−計根別駅前) 0.747 | 11.標茶線(1)(標茶−計根別) -38.453 全廃 | 12.計根別線(中標津−計根別駅前) -16.404 全廃 図名 発行 リスト番号 中標津 昭 8 31- 3-2 昭32 31- 3-4 計根別 昭 8 31- 4-2 昭21 31- 4-3 磯分内 昭 8 31- 8-3 昭21 31- 8-4 標茶 昭22 32- 5-5 昭46 32- 5-8 ★★ 根室線(1次) [1-6-3] 現在の根室市内の厚床市街から北に向かい、野付郡別海町、標津郡中標津 町を経て東に進路を転じ、標津郡標津町の標津市街までを結んでいた長大路 線です。この路線には「厚床−風蓮−矢臼別−西別−北西別−床丹−中春別− 当幌−中標津−開陽−中央−川北−北標津−三本木−標津」の各停車場があ りました。 # これも「(1次)」が付いているのは、後世にも「根室線」が存在したた #め便宜上のものです。 | T14.根室線(1)(厚床−中標津) 48.836 | 15.根室線(1)延長(中標津−三本木) 31.703 | S 2.根室線(1)延長(三本木−標津) 1.744 | 3.根室線(1)延長(標津−臨港) 0.394 | 根室線(1)延長(矢臼別−矢臼別土場) 0.538 | 4.根室線(1)動力化 | 8.根室線(1)(風蓮−矢臼別) -11.569 廃止 | 根室線(1)(厚床−風蓮) -7.097 | 注:風蓮線として分離・馬力化 | 根室線(1)(西別−矢臼別土場) -5.750 | 注:矢臼別線として分離・馬力化 | 9.根室線(1)延長(中標津−中標津駅前) 0.816 | 根室線(1)(西別−中標津) -23.579 廃止 | 13.根室線(1)(開陽−川北、北標津−標津) -26.180 残存部馬力化 | 根室線(1)(川北−北標津) -1.922 忠類線に編入 | 馬力化 | 18.根室線(1)(中標津−開陽) -8.493 図名 発行 リスト番号 備考 厚床 昭21 29-9- 2 姉別 昭 8 29-13-2 昭41 29-13-5 別海 昭 8 28-16-2 当時は「西別殖民地」 昭21 28-16-3 当時は「西別」 標津 昭 9 28-15-2 中標津 昭 8 31- 3-2 昭32 31- 3-4 薫別 昭 8 28-14-2 # ちなみに昭和8年発行の各図は航空写真による測量が行われて*いない* #ものなので、はっきり言ってアテになりません。このため、研究 :-)の際 #には「より新しい」地図が必要です。 ★★ 根室線(2次) [1-6-3] 現在の標津郡中標津町内の開陽地区と、北東に位置する同町内の東武佐 (注:当時は「上武佐」)地区とを結んでいた路線です。第二次大戦中に行わ れた海軍・中標津飛行場(注:現在の中標津空港の一部)の建設に伴って、中 標津−開陽に残っていた「根室線(1次)」が廃止されることになり、その代 替として建設されたものです。 この路線の停車場について詳しいことは判っていませんが、おそらく「開 陽−中央−上武佐」であろうと推定されます。 | S19.根室線(2)(開陽−上武佐) 8.788 | 29.根室線(2)(開陽−上武佐) -8.788 全廃 図名 発行 リスト番号 中標津 昭32 31- 3-4 標津 昭21 28-15-3 ★★ 矢臼別線 [1-6-3] 現在の野付郡別海町の別海市街と、南側に位置する西別川の船着場を結ん でいた路線です。 # 元々は「根室線(1次)」の一部です。 この路線の停車場について詳しいことは判っていませんが、おそらく「西 別−矢臼別−矢臼別土場」であろうと推定されます。 | S 8.矢臼別線(西別−矢臼別土場) 5.750 | 注:根室線から転換 | 11.矢臼別線(西別−矢臼別土場) -5.749 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 別海 −− 該当する旧版図は不明 ★★ 風蓮線→別海町営軌道 [1-6-3] 現在の根室市の厚床市街と、北側に位置する野付郡別海町の上風蓮地区を 結んでいた路線です。後に同町内の国鉄(注:当時)標津線・奥行臼駅と上風 蓮を結ぶルートに変更されました。 元々は省線(注:後の国鉄)標津線が厚床−別海が奥行臼地区を通るルート を採ったため、陸の孤島 :-)となる上風蓮地区のために前述の「根室線(1 次)」の厚床−風蓮が残され、後に上風蓮まで延長されました。 このルートでは途中の風蓮川の河谷を中心に地盤が弱い区間があるため、 戦後にディーゼルカーを導入する際に厚床からの路線は廃止され、奥行臼か らのルートが建設されました。 この路線が厚床に通じていた時期には「厚床−風蓮−平野−倉前−上風蓮」 の各停車場があり、奥行臼からのルートに転換された後は「奥行臼−奥行第 一−奥行第二−奥行第三−富山−1号−2号−学校前−4号−5号−7号−上風 蓮」の停車場がありました。 ○奥行臼 / 上風蓮 / 風蓮 ○−−−−−○ ↑ \ 5線2号 \ 付近 ○厚床 | S 8.風蓮線(厚床−風蓮) 7.097 | 注:根室線(1次)から転換 | 11.風蓮線(1)延長(風蓮−上風蓮5号) 5.819 | 12.風蓮線(1)延長(上風連5号−上風蓮5線9号) 2.240 | 38.風蓮線(2)(奥行臼−学校前) 9.700 | 動力線として使用開始 | 風蓮線(1)(厚床−上風蓮) -10.922 | 経路変更、風蓮線(2)に | 39.風蓮線(2)延長(学校前−上風蓮) 3.320 | 46.風蓮線(2)(奥行臼−上風蓮) -13.200 全廃 図名 発行 リスト番号 厚床 昭21 29- 9-2 姉別 昭41 29-13-5 参考:岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 奥行臼周辺に保存施設、保存車輌あり。5.1標津線、6.2、6.3参照。 ★★ 忠類線 [1-6-3] 現在の標津郡標津町内の川北市街と、北に位置する同町内の古多糠地区を 結んでいた路線です。 当初は前述の「根室線(1次)」の北標津と古多糠を結んでいましたが、省線 (注:後の国鉄)標津線の開通に伴う「根室線(1次)」の縮小で、川北−北標津 が編入されました。 # 旧版地形図で見ると、川北まで延長された際に北標津を通らなくなって #いるように見えるのですが、詳細は未解明です。 この路線には「川北−(北標津)−椴山−古多糠」の停車場がありました。 | S10.忠類線(北標津−古多糠) 8.925 | 13.忠類線(川北−北標津)(根室線(1次)より)編? 1.922 | 32.忠類線(川北−古多糠) -10.847 全廃 図名 発行 リスト番号 薫別 昭21 28-14-3 標津 昭21 28-15-3 ★★ 中春別線・上春別線・西別線・春別線 [1-6-3] 現在の野付郡別海町内を縦横に結んでいた路線です。 # ごく短区間だけ標津郡中標津町を通っています。 これらは「西別−矢牛−下然内−然内−中西別−廣野−上西別−栄進−福 島−春日−西春別−萩野−新西春別」という路線と、「春日−上春別−共和− 豊岡−開盛−盛進−春別」という路線に分けて運行されていたようです。 ____ 春別 / \ (中春別駅) ○上春別 −−−−○ 上西春別 / (西春別駅) ○春日 ○ / \ \ / \ 西別 ○ \上西別 (別海駅) 西春別(市街) ○−−−−−−−−−○ | S 3.西別線(西別−広野) 16.093 | 9.上春別線(上春別−西春別市街) 9.599 | 10.中春別線(中春別線−上春別34線南10号) 8.397 | 11.上春別線延長(西春別市街−西春別駅前:上西春別) 4.577 | 中春別線延長(上春別34線南10号−上春別市街) 9.028 | 12.西別線延長(西別−西別駅前) 0.388 | 春別線(中春別−西春別駅前):上春別線・中春別線を合併 | 31.357 | 13.西別線延長(広野−春日) 9.876 | 西別線延長(上春別−西春別駅前):春別線より編入 14.156 | 春別線(上春別−西春別駅前):西別線に編入 -14.156 | 16.(動力化) | 20.(動力廃止・馬力化) | 22.春別線(中春別−上春別) -17.425 | 29.西別線(上春別−西春別駅前、上西別−春日) -20.599 | 31.西別線(西別−上西別) -19.914 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 別海 昭21 28-16-3 当時は「西別」 計根別 昭21 31- 4-3 ★★ 虹別線 [1-6-3][1-6-2] 現在の野付郡別海町の西春別地区と、北西に位置する川上郡標茶町の虹別 地区を結んでいた路線です。この路線には「西春別駅−興進−虹別−北虹別」 の停車場がありました。 | S13.虹別線(西春別駅前−虹別) 9.717 | 虹別線(北虹別−虹別):弟子屈線より編入 2.464 | 17.虹別線(虹別−北虹別) -2.464 | 27.虹別線(西春別駅前−虹別) -9.717 全廃 図名 発行 リスト番号 計根別 昭21 31- 4-3 磯分内 昭21 31- 8-4 昭24 31- 8-5 # 2つの磯分内図を突き合わせると戦争中の飛行場建設のために軌道が移 #設されたことが推定されますが、詳細は不明です。 ★★ 養老牛線 [1-6-3] 現在の標津郡中標津町内の計根別市街と、北西に位置する同町内の養老牛 地区を結んでいた路線です。この路線には「計根別−上標津−養老牛」の停 車場がありました。 | S13.養老牛線(計根別駅前−養老牛) 11.082 | 36.養老牛線(計根別駅前−養老牛) -11.082 全廃 図名 発行 リスト番号 計根別 昭21 31- 4-3 中標津 昭32 31- 3-4 摩周湖 昭32 31- 7-4 計根別から養老牛を経て裏摩周へ通じる道道・養老牛計根別停車場線の北 東側の道路脇に沿っていたはずだが、すべて牧場となっており、車で通った 限りでは路盤は見つからなかった。 周囲に一軒も家がない所に突然「上標津」バス停があるので、おそらくこ こに上標津停車場があったと推定される。 養老牛市街(結構賑やか)の信号のある十字路にバス停「養老牛」があり、 背後が公園になっている。ここが養老牛停車場であろう(2001.5.1)。 ★★ 藻琴線→東藻琴村営軌道 [1-6-4] 現在の網走市内にある藻琴市街と、南隣に位置する網走郡東藻琴村を結ん でいた路線です。「藻琴−沼ノ上−山里−豊栄−稲富−西倉−東藻琴−上東− 宮ノ前−末広−福山−山園」の停車場のある本線と、「福山−東洋沢」の支 線がありました。 | S10.藻琴線(藻琴−東藻琴) 15.200 動力線 | 12.藻琴線延長(東藻琴−東藻琴原野南36号:山園) 10.236 | 24.藻琴線延長(福山−東洋) 7.480 | 36.藻琴線(藻琴−東藻琴) -15.200 | 37.藻琴線(福山−東洋) -7.480 | 40.藻琴線(東藻琴−山園) -10.222 全廃 図名 発行 リスト番号 小清水 昭24 31- 9-5 藻琴山 昭32 31-10-4 ★★ 斜里線 [1-6-4] 現在の斜里郡斜里町内の斜里市街と、東に位置する同町内の知布泊地区を 結んでいた路線です。この路線には「斜里−東斜里−一本木−赤上−朱円− 海別−島戸狩−幌泊−知布泊」の停車場がありました。 | S 7.斜里線(斜里−知布泊) 17.901 | 26.斜里線(斜里−知布泊) -17.901 図名 発行 リスト番号 備考 斜里 昭21 31- 5-4 峰浜 昭21 31- 1-2 当時は「嶋戸狩」 ★★ 雄武線 [1-7-2] 現在の紋別郡雄武町内の雄武市街から内陸に向かっていた路線です。 | S25.雄武線(雄武−上幌内)着工 24.207 動力線 | 28.雄武線(雄武−上幌内) -24.207 工事中止 全廃 # 下記の旧版地形図に「殖民軌道」が載っているのですが、実際には北隆 #鉱山の専用軌道である可能性があります。 図名 発行 リスト番号 雄武 昭31 38- 1-4 ★★ 問寒別線→幌延町営軌道 [1-7-1] 現在の天塩郡幌延町の問寒別市街と、北方に位置する同町内の上問寒別地 区を結んでいた路線です。この路線には「問寒別−宗谷−四線−八線−十六 線−二十線」の停車場がありました。 | S 4.問寒別線(問寒別−上問寒別) 13.129 | 7.問寒別線延長(上問寒別付近) 0.671 | 16.(動力化) | 27.買収(上問寒別−20線) 2.781 問寒別線に編入 | 46.問寒別線(問寒別−20線) -16.282 全廃 図名 発行 リスト番号 敏音知 昭32 37-15-5 上猿払 昭32 37-14-5 参考:岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 枝幸線・本幌別線・幌別線・歌登線→歌登村営軌道 [1-7-2] 「枝幸線」は、現在の枝幸郡中頓別町内の小頓別市街から東に位置する枝 幸郡歌登町を横断し、さらに東の枝幸郡枝幸町の枝幸市街を結んでいた路線 です。この路線には「小頓別−吉田−毛登別−大島−柴山−熊の沢−秋山 (本)−秋山(分)−中央−歌登−般毛内−一本松−金駒内−下幌別−枝幸」の 停車場がありました。 「本幌別線」と「幌別線」は、歌登町内同士を結んでいた路線です。本幌 別線には「上幌別(注:後に中央)−幌見−旭岡−瀧ノ上−川添−本幌別」の 停車場が、幌別線には「歌登−辺毛内−興生−北志美宇丹−志美宇丹」の停 車場がありました。 小頓別 中央 歌登 枝幸港 ○−−−○−−−○−−−○ / \ ○ ○ 本幌別 志美宇丹 | S 4.枝幸線(小頓別−上幌別6線:歌登) 19.054 | 5.枝幸線延長(上幌別6線−枝幸港) 16.141 | 7.枝幸線動力化 | 8.幌別線(上幌別6線−志美宇丹) 12.636 | 11.本幌別線(上幌別12線:中央−上幌別26線:本幌別) 10.024 | 25.枝幸線(歌登−枝幸) -15.848 | 31.本幌別線(中央−本幌別) -10.024 全廃 | 41.(幌別線動力化) | 44.幌別線(歌登−志美宇丹) -10.024 全廃 | 45.歌登線(小頓別−歌登) -16.770 全廃 図名 発行 リスト番号 備考 音威子府 昭33 37-12-4 中頓別 昭33 37-11-3 歌登(注:幌別6線)周辺以外は記載なし 枝幸 −− −−− 該当する旧版図は不明 乙忠部 −− −−− 該当する旧版図は不明 なお小頓別−歌登−枝幸および歌登−志美宇丹のルートの概要については、 昭和25年発行の1:200000地勢図「枝幸」(リスト番号37-6)でも知ることができ ます。 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くII」JTBキャンブックス,1996 岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 調査報告、保存車輌あり。6.2、6.3章参照。 ★★ 沼川線・幌延線・幌沼線 [1-7-1][1-7-3] 現在の天塩郡幌延町の幌延市街から北隣の天塩郡豊富町を経て、さらに北 隣の稚内市内の沼川市街を結んでいた路線です。この路線には「幌延−清水 澤−南澤−本流−北澤−駒形−上福永−有明−天興−豊別−下豊別−開進− 沼川」の停車場がありました。また、天興から東に短い支線が出ていました が、詳細は不明です。 | S 3.幌延線(幌延−北沢) 13.840 | 8.沼川線(1)(沼川−上福永) 14.909 | 9.沼川線(1)延長(上福永−北沢) 6.239 | 11.幌沼線(幌延−沼川)幌延線・沼川線(1) を合併 34.927 | 23.沼川線(2)(沼川−有明)幌沼線が名称変更 13.436 | 幌沼線(沼川−有明)沼川線(2)に名称変更 | 39.沼川線(2)(沼川−有明) -13.436 全廃 図名 発行 リスト番号 沼川 昭32 43-1-4 豊富 昭32 43-2-5 # 有明−幌延の載った旧版地形図の有無は不明です。 なお幌延−有明−沼川のルートの概要については、昭和28年発行の1:200000 地勢図「天塩」(リスト番号43-6)でも知ることができます。 ★★ 勇知線 [1-7-3] 現在の稚内市内の勇知地区と、西に位置する同市内の下勇知地区を結んで いた路線です。この路線の停車場については定かではありません。 | S19.勇知線(勇知−下勇知7線) 4.? | 22.勇知線(下勇知7線−下勇知3線) 5.? | 32.勇知線(勇知−下勇知) -9.827 全廃 図名 発行 リスト番号 抜海 昭31 43- 5-4 ★★ 仁宇布線 [1-7-4] 現在の中川郡美深町の美深市街と、東に位置する同町内の仁宇布地区を結 んでいた路線です。国鉄美幸線の建設のために廃止されました。この路線に は「美深−七郷−辺渓−緑泉−清瀬−仁宇布」の停車場がありました。 | S10.仁宇布線(美深−仁宇布25線) 21.516 | 17.仁宇布線(美深−仁宇布25線) -21.516 地方林課へ移管 | 31.仁宇布線(美深−仁宇布25線) 21.396 林務部より返還 | 37.仁宇布線(美深−仁宇布25線) -21.396 全廃 図名 発行 リスト番号 名寄 昭40 38-10-5 恩根内 昭31 38- 9-3 仁宇布 昭31 38- 5-3 ★★★ 6.2 調査報告 ★★★ ★★ [1-6-3]別海町の殖民軌道(調査1996 by H.A、再稿2000 by A.S 再々調2001.4 by H.O) ★★ 1. 歴史 気候が厳しく開拓の着手が遅れた根釧地方では、入植を促進するために 「道」によって殖民軌道が敷設されました。 # 詳細は6.1の「根室線・計根別線・風蓮線・中春別線・上春別線・西 #別線・虹別線」あたりの項をご覧ください。 要約すれば、 舟運が使えるために早くから拓けた西別・中標津・標津を結ぶ軌道の 登場 ↓ 輸送需要の増大に伴う省線(注:後の国鉄)標津線の厚床−中標津−標 津の開業と、軌道の内陸への展開 ↓ 省線(注:後の国鉄)標津線の標茶−中標津の開業と、省線を補完する 存在としての路線網の完成 ↓ 自動車の普及に伴う衰退 ということになります。 1950年代の後半には、町内で最後に残った風蓮線に対して、近く :-)の厚 岸郡浜中町や川上郡標茶町の簡易軌道と共に復活を期して大幅な近代化が行 われましたが、赤字から脱することはできませんでした。 2. 見たもの 旧標津線の奥行臼駅の付近に軌道で使われていたものが残されています。 小型のディーゼル機関車とディーゼルカー、転車台の跡、待合室として使用 されていた建物です。この4点セット?は別海町で発行しているパンフレット 等にも町の文化財として紹介されているので、このまま保存されていくもの と思われます。 車両はどちらも保存状態は良く、機関車のほうは、こてこてに再塗装され ていて、ちょっと私には興ざめでしたが。転車台のほうは、撤去する気がな いのでそのままといった風情、建物のほうは(中途半端に新しいので)ちょっ と見るとなんの建物か判りません。この一画の裏手は草地になっており、桜 の木が1本あります。 5月下旬に行ったときには、この桜が満開で、まわりの 緑と見事なコントラストできれいだったことが印象的でした。 この付近には、旧標津線の奥行臼駅、殖民軌道の痕跡、奥行臼駅逓があり、 隣接する駐車場と併せて、公園のようになっています。釧路−根室の、ある いは根室−知床の単調な移動に飽きたら、「奥行パーキング」の標識を頼り に行ってみてください。 3.再々調査(2001.4.30) 奥行臼車庫跡にはディーゼル機関車、ディーゼルカー、集乳缶積載用無蓋 貨車が置かれ、転車台、駅舎、路盤も残っています。 でも看板の説明が簡単なので、事務所は事務所と判らないし、貨車も集乳 缶専用車だとわからないし、転車台も回転部分が残っていないので、巨大な 枯れ井戸のようで、それと知らない人にはわかりません。もう少し説明書き や、往時の写真展示などがあると嬉しいところですが、それでもよく保存さ れている方だと思います。閉め切ってある事務所のガラス越しに中を覗くと、 駅構内の見取り図が貼ってありました。 軌道は旧国道を越えて向い側の国鉄標津線・奥行臼駅の前まで続いていま した(2001.4.30)。 4. 参考 「別海町百年史」 別海町発行 昭和53年(1978年)の発行で幾分古いのですが、殖民軌道をはじめ、開拓の 歴史がかなり詳しく書かれています(町の歴史=開拓の歴史ではありますが)。 別冊の地図には、鉄道や道路の路線図、港湾の事業計画図、入植状況などが あり、結構読み応えがあります。 ★★[1-6-4]東藻琴村営軌道 (現地調査:1997.5 by A.S, 2002.5 by H.O)★★ 釧網線の誘致を巡る小清水村と斜里村の競争はとても激しいものがありました。 8.3章の「小清水町の鉄道史」でお伝えします。しかしさらにもう1つ、網走町 (現・網走市。ただし、藻琴軌道の沿線の大半は後に分村して東藻琴村になる)と の競争もありました。 *** 文献調査 2002.3 by H.O *** 1.岩崎清一 小清水町史には「北見鉄道の創設者・初代専務取締役」として登場します。 名前の後に「(旭川)」としてあるので、旭川在住の財界人ではないかと思う のですが、詳細不明です。ご存知の方、教えて下さい。 一方でこの岩崎清一は網走の金谷深恵の友人で、大正末期に2人は藻琴軌 道株式会社を設立し、藻琴軌道の誘致活動を始めています。釧網線の藻琴駅 から内陸に伸びる簡易軌道を計画したのですが、同じく釧網線止別駅から内 陸に伸びる計画の北見鉄道が採択され(1930(S5)年運行開始)、藻琴軌道は計 画が見送られてしまいました。 2.陳情、請願 東藻琴村史には1935(S10)年の運行開始に至るまでの陳情、請願に沢山の 政治家と役所名が登場します。北海道選出の国会議員を動かし、道庁に働き かけ、町長と一緒に出札(東京へ行くのは「上京」ですが札幌へ行くのは 「出札」と言うようです)して滞在中の国務大臣と面会したり、と地域の発 展の為に大変な努力をしたのだな、ということがよく伝わってきます。 一方で、最近とかく問題になっている公共事業云々は、こうした歴史から 培われて脈々と現代に至っているのだな、と読み取ることもできます。一部 の人の利益の為でなく、本当に必要なものが本当に必要な人や所へ作られる のなら、決して税金の無駄遣いにはならないのですが、…続きの言葉は各自 で考えてみて下さい。 3.年表 大正末期 藻琴軌道株式会社設立。 1925(T14)4月 北海道拓殖計画に藻琴軌道上程される。 隣村の北見鉄道の開通もあって計画は一旦見送りとなるが、粘り強い誘致 活動が続けられ、軌道敷設の許可がおりる。 馬車鉄道で計画が進められたが、標津線の工事に伴って撤去された殖民軌 道根室線の軌道施設を利用できることになり、ガソリン機関に格上げ。 1935(S10)10月11日 藻琴軌道、運行開始。当初区間は藻琴−東藻琴。 敷地は地元民の寄付。 道庁の直営だが、便宜上、沿線住民による軌道運行組合を結成して運営。 貨車に10人乗り客車を併結したが、乗切れない乗客は荷物の上に乗った。 1936(S11) 東藻琴市街より山園部落まで10.222kmの測量開始。 1937(S12) 同区間、着工。 1938(S13)5月1日 同区間開通。 9月 廃止になった殖民軌道根室線より、機関庫と修理工場を中 標津から移築。 殖民軌道標茶線より倉庫を移築。 太平洋戦争の激化に伴ってガソリンが入手困難となり、木炭で営業を継続。 終戦後の拓殖計画により、東洋沢地区が入植地区となる。 1948(S23) 東洋沢支線(末広部落福山より分岐)測量開始。 1949(S24) 7月20日 同区間、着工。 12月18日 同区間7.48km、運行開始。 この頃の路線(軌間762mm)と駅は、 本線:(25.422km)藻琴−沼ノ上−昭和−山里−豊栄−旭−稲富−境− 西倉−東藻琴−上東−宮前−末広−福山−山園 支線:(7.480km)福山−東洋 1953(S28) 農林省の所管を経て村営に移管。 1958(S33) 改良工事(橋梁架け替え)実施。 1959(S34) 改良工事(路盤整備、軌条取替え)実施。 1960(S35) 40人乗りディーゼル機関車導入。 1961(S36)3月13日 道道と並行していることなどを理由に、網走開発建設 部より改良工事打ち切りが通告される。 5月16日 道知事より一部区間の廃止が勧告される。 1962(S37)9月30日 藻琴−東藻琴、末広−東洋 軌道撤去完了。 残った東藻琴−山園は道路条件が悪いため、運行継続。 #先に掲げた路線と比較すると、末広−東洋は福山−東洋の間違い? 道路網の整備と共に軌道利用は急速に衰退。累積赤字拡大。 1964(S39)3月17日 村議会で廃止決定。 # 東洋沢支線が作られた頃までは経営は至極順調であったようです。老朽 化と道路整備が進んで利用が減少し、改良工事を行ったものの、結局は 立ち直れず便利になった道路に取って代わられた、ということですね。 参考資料 東藻琴村誌(S34)、東藻琴村史(S47)、網走市史(1971(S46)) *** 現地調査 *** 1.1997.5 1)東藻琴市街では、軌道跡は道道の西の「西裏通り」になっています。 2)東洋沢支線の福山橋から約1kmは車道に転換*されていない可能性が高いの ですが、付近に道路がないので進入していません。 2.2002.5 1)稲富と山里の間の道道の西側に細長い雑木林が断片的に続いており、用水 路でもなかったので、これが軌道跡ではないかと思います。 2)戦後の緊急入植地(つまり、海外からの引揚者などの雇用のはけ口)となっ た山奥の東洋沢はどんな所か興味があったのですが、木が生えていない所 (つまり現在も人の手が加えられている所)は、丘陵地帯の牧草地で、とこ ろどころ離農した廃屋が見られるごく普通の酪農地帯の風景でした。木が 生えて森になっているところは急斜面や川沿いの湿地が多かったように思 います。入植した人は森の状態で到着して「さあ開拓を始めなさい」とい うことだったのかなあ、と想像します。 もっとも、雑木を切って作った木炭は開拓当初の現金収入源であったよ うですが。 ★★[1-7-2]歌登村営軌道 (現地調査:2002.5 by H.O)★★ 歌登は、映画「駅・STATION」に登場する桐子(一人で居酒屋「桐子」を増毛 でやっている)の出身地です。ま、それは別にして、歌登は入植で拓かれた山 の中の農山村です。健康回復センターという温泉施設の庭先に簡易軌道のデ ィーゼル機関車が保存展示されており、説明板(歌登町史からの抜粋)があり ました。文章で書かれているのですが、6.1章と合わせて年表にするとこんな 感じになります。6.1章では「幌別線」としてある路線は、説明板では「志美 宇丹線」となっています。 1927(S02) 北海道第ニ期拓殖計画発表。 1928(S03) 4月 雪解けを待って拓殖軌道起工。 12月 小頓別から上幌別六線市街までの19kmが開通。 1930(S05) 9月 枝幸までの16.15kmも開通し、小頓別〜枝幸間35kmの拓殖軌 道が完成。(馬鉄) 1932(S07) 小頓別〜枝幸間は動力も馬力からガソリンカーへ転換。 1935(S10) この頃までには志美宇丹、本幌別へと軌条が伸びる。 終戦とともに、拓殖鉄道は簡易軌道と改められ、その後実質的な経営も村に 任されるようになる。 1950(S25) 歌登〜枝幸間と十二線〜本幌別間の運行を中止。トラックの 出現等による利用率の低下が原因。 1952(S27)頃からは、軌道の冬期運行のため、住民は1戸1名づつスコップと 手弁当を持って軌道除雪に出動し、自分達の生命線を守るため、このよう な奉仕活動を毎年数回づつ繰り返した。 1958(S33) 志美宇丹線、馬鉄から動力化。 1962(S37) 町制施行。歌登〜小頓別間と歌登〜志美宇丹間をディーゼル カーで結ぶ。 マイカー時代の到来とともに、次第に収支は逆転する。 1979(S45)11月 着々と工事が進みつつあった美幸線にその将来を託して、軌 道の歴史に終止符を打つ。 美幸線は通る前になくなってしまいましたが、国道は各方面伸びてます。な お、展示されているディーゼル機関車は、昭和30年代後半(1960年代)から 歌登−小頓別間を原木・製材・チップ或いは澱粉等の産物を満載した4-5両の 貨車を牽引して走ったものだそうで、「料金は、小頓別までの19kmで、4t貨 車貸切りで1500円ほどであった」とあることから、人間の往来の為よりも産 物の輸送が主目的であったと考えられます。 ★★ 関連ホームページ ★★ http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8284/ # 前記の今井さんのページです。 http://www.knc.ne.jp/~gonzou/ruin1.htm # 要するに編者のページです。 ★★★ 6.3 保存車輌情報 ★★★ 枝幸線→歌登町営軌道(ディーゼル機関車): 枝幸郡歌登町[1-7-2]から美深に向かう道道・美深中頓別線に沿った 歌登町内の健康回復村に展示されています(2002.5)。 風蓮線→別海町営軌道(ディーゼル機関車・ディーゼルカー): 野付郡別海町[1-6-3]の国鉄標津線・奥行臼駅跡と道路を隔てた斜め 向いにあたる町営軌道の駅跡に展示されています。他に集乳缶を積んだ 無蓋車もあります(2001.5)。 が、この路線の名物?だったステンレス製のミルクタンク車は保存さ れていません。 # 町内の個人が保存しているという説もありますが、未確認。 茶内線・若松線・円朱別線→浜中町営軌道(ディーゼル機関車): 厚岸郡浜中町[1-6-2]・茶内にあるJR茶内駅から、R44に向かって300m ほど進んだ中学校裏の「ふるさと広場」に展示されています(2001.5)。 # 傍らにディーゼルカー(注:正確には「自走客車」)の台車だけ(つま り台車を除いて朽ち果ててなくなってしまった)も保存されています。 雪裡線・幌呂線→鶴居村営軌道(ディーゼル機関車・ディーゼルカー): 阿寒郡鶴居村・中雪裡の鶴居村郷土館[1-6-2] 雪裡線・幌呂線→鶴居村営軌道(ディーゼル機関車): 紋別郡丸瀬布町[1-6-4]・上武利にある「いこいの森」にて、SLが不 調の場合のピンチヒッターとして遠く岡山から来た客車を牽いています。 # 鶴居村営軌道の廃止後は釧路市内の木材加工工場で働いていました。 ★★★★★ 7 森林鉄道 ★★★★★ 木材の搬出が主な業務であった軽便鉄道をこう呼びます。北海道の場合、 - 戦前に北海道庁拓殖部が建設したもの - 戦前に帝室林野局が建設したもの - 戦前に東京帝国大学が建設したもの - 戦後に林野庁が建設したもの - 戦前/戦後をあわせて民間企業が建設したもの を総称することになります。 ちなみに、民間企業が建設/運行した路線については会社の解散の後では 資料が散逸してしまう場合が多く、もはや全貌の解明は不可能と思われます。 なお、道内の森林では1954年の台風で伐採適期の大木の多くが失われ、以 後の木材生産が急減したことも、道内の森林鉄道が1960年代はじめまでに相 次いで姿を消した理由として挙げられます。 国有、あるいはそれに準じる森林鉄道には - 30年以上の使用を前提に建設された恒久的な施設であり、定期的に列 車が運行された幹線である「一級線」 - 支線である「二級線」 - 当該地域で伐採が行われる期間だけ設置され、木材の搬出の完了とと もに撤去される「作業軌道」 の3種類があります。 これらの内で、特に作業軌道については軌道の建設と沿線での伐採作業が 併行して行われることが多く、軌道の完成後は一気に搬出が行われ、開通か ら数週間〜数ヶ月で使命を終えた場合も少なくありません。これらは殆どの 場合地図に載ることもなく、盛んに使われていたのは40年以上も前のこと ですので、地元でも林業に関わっていた人以外には、知る人とてありません。 その一方、森林鉄道が現役であった時代にはレールは貴重な資材であり、 廃止された路線のレールは(自然災害等で回収できなくなった場合を除いて) 徹底的に再利用されました。このため、 A B +--------+------------+ C +--------+ D のような路線があった場合に、B-Cの区間である作業軌道は(ある年の)5月に 完成し、それと同時にフルに運転を行って7月には伐採済の木材の搬出を終え て廃止。その区間のレールを直ちにB-Dの区間である新たな作業軌道に転換す る工事を実施し、こちらは同年の8月に完成。し、こちらも11月には木材の搬 出を終えて廃止…というような場合も珍しくありませんでした。 このような場合、統計資料の類には「X年度の運行キロ」としてA-B、B-C、 B-Dのすべてが計上されるため、データを読む際には注意が必要です。 解説書の中には機関車が導入された路線(だけ)を「森林鉄道」と呼び、馬 が動力源であった路線を「林用軌道」と呼んでいる場合もあります。しかし 道内では集材現場と貯木場が離れている場合が多いため、旧版地形図にある 「森林鉄道」/「林用軌道」という記載の違いが、必ずしも動力/馬力に対応 していた訳ではありません。 ★★★ 7.1 データバンク ★★★ 以下で取り上げるのは、現在までに存在が確認できた分だけです。 ★★ 上ノ国森林軌道 [1-1-3] 檜山郡上ノ国町の石崎地区にあった貯木場から、石崎川を溯っていた路線 です。他の鉄/軌道との連絡を持たず、搬出された木材は石崎港から舟運さ れたものと考えられます。 図名 発行 リスト番号 備考 上ノ国 −− 51-14-?? 該当図は不明 大千軒岳 −− 51-15-?? 該当図は不明 ★★ 早来軌道 [1-2-2] 勇払郡追分町にある室蘭本線・早来駅の東から南東に進んで勇払郡厚真町の 振老地区で厚真川に沿って北東に進路を転じ、支流のシュルク沢川の上流に 達していた路線です。 図名 発行 リスト番号 早来 昭5 46-4-2 ★★ 三井物産専用鉄道苫小牧軽便鉄道 [1-2-2] 苫小牧市内の王子製紙苫小牧工場から、南東に位置する勇払郡鵡川町の鵡川 地区を結んでいた専用鉄道です。この路線の貨物の多くを王子製紙苫小牧工 場向けの木材が占めたため「森林鉄道」と考えられる場合が多いです。 後に国有化されて日高本線の一部となりました。 図名 発行 リスト番号 備考 苫小牧 昭5 47-5-2 鵡川 −− 47-1-?? 未確認 富川 −− 41-13-?? 未確認 ★★ 王子軽便鉄道(山線) [1-2-2][1-3-2] 正しくは「王子製紙株式会社苫小牧工場専用軌道」です。苫小牧市内にある る工場から、北西に位置する支笏湖畔に達していた路線です。支笏湖畔から 千歳川の上流に支線が延びていました。 自社の木材以外にも、支笏湖周辺の御料林の木材搬出に使われました。 図名 発行 リスト番号 苫小牧 昭5 47-5-2 千歳 昭12 46-8-3 樽前山 昭12 46-12-2 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVII」JTBキャンブックス,1999 7.2に現地調査報告あり。 ★★ 幾春別森林鉄道 [1-2-3] 三笠市の幾春別市街にある貯木場から、幾春別川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 岩見沢 昭31 46- 1- 8 幾春別岳 −− 40-13-?? 記載なし 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVII」JTBキャンブックス,1999 1:200000地勢図「夕張岳」(昭和34年)(注:リスト番号は40-8) ★★ 主夕張森林鉄道 [1-2-3] 夕張市の鹿島市街にある貯木場から、シュウパロ川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 石狩鹿島 昭37 40-14-5 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くV」JTBキャンブックス,1998 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 下夕張森林鉄道/夕張岳森林軌道 [1-2-3] 夕張市の南部市街にある貯木場から、パンケモユーパロ川を溯っていた路 線です。 図名 発行 リスト番号 石狩鹿島 昭37 40-14-5 紅葉山 昭36 40-15-5 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くV」JTBキャンブックス,1998 大夕張ダムのところに鉄橋がかかってます。3弦トラス橋は珍しいそうです。 国道 452 号からもよく見えます。 ★★ 遠幌加別森林軌道 [1-2-3] 夕張市の遠幌市街にある貯木場から、遠幌加別川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 石狩鹿島 −− 40-14-?? 未確認 ★★ 芦別森林鉄道 [1-2-4] 芦別市の上芦別市街にある貯木場から、空知川の支流の芦別川を溯ってい た路線です。 図名 発行 リスト番号 上芦別 昭36 39-16-4 幾春別岳 昭37 40-13-4 ★★ 定山渓森林鉄道 [1-3-1] 札幌市南区の定山渓市街にある貯木場から、豊平川の本流を溯っていた路 線です。 図名 発行 リスト番号 定山渓 昭43 46-15-7 7.2に現地調査報告あり。 ★★ 漁(後の恵庭)森林軌道 [1-3-2] 恵庭市の恵庭市街にある貯木場から、漁川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 恵庭 昭22 46-7-4 石山 昭29 46-11-6 ★★ 千歳鉱山美笛鉱業所専用軌道 [1-3-2] 千歳市の美笛地区(注:支笏湖の西側)と鳴尾の間に建設された鉱山専用鉄道 です。第二次大戦中は木材の搬出に使われたので森林鉄道の範疇に入れら れる場合が多いです。 図名 発行 リスト番号 備考 樽前山 昭12 46-12-2 双葉 昭22 46-16-2 当時は「壮渓珠」 ★★ 層雲峡森林鉄道 [1-4-1] 上川郡上川町の上川市街にある貯木場から、石狩川の本流を溯っていた路 線です。 図名 発行 リスト番号 備考 上川 −− 39-1-?? 記載なし ★★ 落合森林鉄道 [1-4-2] 空知郡南富良野町の落合市街にある貯木場から、空知川の支流であるシー ソラプチ川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 落合 −− 40-6-?? 記載なし 7.2に現地調査報告あり。 ★★ 幾寅森林軌道 [1-4-2] 空知郡南富良野町の幾寅市街にある貯木場から、空知川の支流である幾寅 川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 西達布 −− 40-5-?? 記載なし ★★ 金山森林鉄道 [1-4-2] 空知郡南富良野町の金山市街にある貯木場から、空知川の支流のトナシベ ツ川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 石狩金山 −− 40-10-?? 記載なし 参考: 1:200000地勢図「夕張岳」(昭34年)(注:リスト番号40-8)に記載あり ★★ 東京帝国大学農学部付属北海道演習林森林軌道 [1-4-2] 1)空知郡南富良野町の下金山市街から空知川の本流および支流を溯ってい た路線 2)富良野市の布部市街から布部川を溯っていた路線 の総称です。 図名 発行 リスト番号 備考 山部 −− 40-9-?? 記載なし 富良野 −− 39-12-?? 記載なし 参考:布部川沿いのルートについては、1:200000地勢図「夕張岳」(昭34年) (注:リスト番号40-8)に記載あり ★★ 日高拓殖鉄道 [1-5-1] 沙流郡門別町の富川地区と、静内郡静内町の静内地区を結ぶ私鉄です。貨物 輸送の多くを王子製紙苫小牧工場向けの木材が占めたため、この路線も森林 鉄道の一種と考えられる場合が多いです。後に国有化されて日高本線の一部 部となりました。 図名 発行 リスト番号 備考 富川 −− 41-13-?? 未確認 門別 昭5 41-14-2 静内 昭5 41-10-2 当時は「下下方」 ★★ 沙流鉄道 [1-5-1] 沙流郡門別町の富川地区と、同郡平取町の平取地区を結ぶ私鉄です。貨物輸 送の多くを王子製紙苫小牧工場向けの木材が占めたため、この路線も森林鉄 道の一種と考えられる場合が多いです。 図名 発行 リスト番号 備考 富川 昭21 41-13-3 当時は「佐瑠太」 ★★ 陸別・斗満森林鉄道 [1-5-4] 足寄郡陸別町の陸別市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)利別川の支流のニオトマム川を溯っていた路線 2)利別川の支流の陸別川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 陸別 昭44 34-8-4 上足寄 昭32 34-4-5 芽頭温泉 昭45 38-12-4 小利別 昭32 34-7-3 注: 1:200000地勢図「北見」(昭34)(注:リスト番号34-8)に記載あり ★★ 足寄森林鉄道 [1-5-4] 足寄郡足寄町の足寄市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)足寄川の本流を溯っていた路線 2)足寄川の支流の螺湾川を溯っていた路線 3)足寄川の支流の茂足寄を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 足寄太 昭32 35-5-4 螺湾川/茂足寄川沿いの路線につ いては記載なし 上足寄 昭32 34-4-5 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVI」JTBキャンブックス,1999 ★★ 音更森林鉄道 [1-5-4] 河東郡上士幌町の三股市街にある貯木場から、西に音更川の本流を溯って いた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 石狩岳 昭36 34-15-4 十勝三股のレストラン、三股山荘の北側にある木造の空家〜というか、廃屋 寸前〜は森林鉄道の機関庫でした。 終点は岩間温泉付近で、当時は岩間温泉には作業員宿舎が数棟あったそう です。 ★★ 王子製紙十勝上川運材軌道/十勝上川森林鉄道 [1-5-4] 上川郡新得町の屈足市街にある貯木場から、十勝川の本流を溯っていた路線 です。 図名 発行 リスト番号 新得 昭44 40-2-7 佐幌岳 昭33 40-1-4 十勝川上流 昭33 39-4-3 岩松トンネル トムラウシ温泉(ないしはヌプントムラウシ温泉でもいいですが^^;)へ向 かう道路の岩松湖岸です。温泉へ向かって岩松ダムを過ぎると覆道が断続的 に続くのですが、その1つの紅葉覆道を出た直後、左の山肌に現れます。 緑の扉で閉ざされていますが、写真付きの説明板があり、今後も保存され ると思われます。 (2002.12.31) なお、ずっと奥のトムラウシ(当時「富村牛」)には小学校跡があり、同じ スタイルの写真入説明板があります。発見したのは夏で、すっかり草や木の 枝に埋もれていました。材木輸送用の鉄道でしたが、開拓や造材で山に入っ た人にとっても、この鉄道は命綱だったのだろうと思い致されます。 ★★ 上札鶴森林鉄道 [1-6-1] 斜里郡清里町の緑市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)札弦川の本流を溯っていた路線 2)札弦川の支流のオニセップ川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 斜里岳 昭32 31-6-5 摩周湖 昭32 31-7-4 7.2に現地調査報告あり。 ★★ 上尾幌森林軌道 [1-6-2] 厚岸郡厚岸町の上尾幌市街にある貯木場から、尾幌川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 尾幌 −− 32-6-?? 記載なし ★★ 渚滑(後の濁川)森林鉄道 [1-6-4] 紋別郡滝上町の濁川市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)渚滑川の本流を溯っていた路線 2)渚滑川の支流のオシラネップ川を溯っていた路線 3)オシラネップの支流のペンケプシュナイ川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 滝上 昭31 33-15-3 立牛 昭31 33-16-3 渚滑岳 昭31 38-4-3 上川 昭36 39-1-7 ★★ 武利森林鉄道 [1-6-4] 紋別郡丸瀬布町の丸瀬布市街にある貯木場から、以下の路線の総称です。 1)湧別川の支流の武利川を溯っていた路線 2)湧別川の支流の丸瀬布川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 丸瀬布南部 昭33 34-9-5 当時は「丸瀬布」 大和 昭33 34-10-4 丸瀬布北部 −− 33-12-?? 記載なし 沿線にある「いこいの森」内の郷土資料館に若干の写真展示があります。 「いこいの森」ではここを走っていた蒸気機関車が牽引する列車に乗ること も出来ます。詳細については9章「いこいの森」を参照。 富士見地区から峠にかけての廃線跡を転換したのは「大町林道」と名付け られています。一般車通行禁止。 塩別つるつる温泉の辺りから温根湯市街が終わるまで、R39と並行して南 300mほどのところに「温根湯林鉄通り」があります。(2002.5) 続きは「るべしべ歯科」?の所でR39を横断し、JR留辺蘂駅の南まで続いてい ます。確か「留辺蘂林鉄通り」なんて名前だった筈。 ★★ (上)生田原森林鉄道 [1-6-4] 紋別郡生田原町の生田原市街にある貯木場から、生田原川の支流の浦島内 川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 生田原 昭33 34-5-2 丸瀬布南部 昭33 34-9-5 当時は「丸瀬布」 7.2に現地調査報告あり。 ★★ 温根湯森林鉄道 [1-6-4] 常呂郡留辺蘂町の留辺蘂市街にある貯木場から無加川の本流を溯り、石北峠 のすぐ南で分水嶺を越えていた路線です。 図名 発行 リスト番号 留辺蘂 昭33 34-6-3 大和 昭33 34-10-4 常元 昭33 34-11-4 石狩岳 昭36 34-15-4 参考:宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 塩別つるつる温泉の辺りから温根湯市街が終わるまで、R39と並行して南 300mほどのところに「温根湯林鉄通り」があります。(2002.8) その先は「るべしべ歯科」?の所でR39を横断し、JR留辺蘂駅の南まで続 いているとのこと。「留辺蘂林鉄通り」なんて名前だそうな。 また、富士見地区から峠にかけての廃線跡を転換したのは「大町林道」と 名付けられています。一般車通行禁止。 ★★ 岸尾木材店運材軌道 [1-6-4] 常呂郡留辺蘂町の留辺蘂市街にある貯木場から、無加川の支流の東無加川 を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 留辺蘂 −− 34-6-?? 記載なし ★★ 置戸森林鉄道 [1-6-4] 常呂郡置戸町の置戸市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)常呂川の本流を溯っていた路線 2)常呂川の支流の仁居常呂川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 留辺蘂 昭33 34-6-3 小利別 昭32 34-7-3 常元 昭33 34-11-4 石狩岳 昭36 34-15-4 ★★ 津別森林鉄道 [1-6-4] 網走郡津別町の津別市街にある貯木場から、津別川の本流を溯っていた路 線です。 図名 発行 リスト番号 美幌 昭33 31-14-5 上里 昭33 31-15-4 ★★ 羽幌森林鉄道 [1-7-1] 苫前郡羽幌町の羽幌市街にある貯木場から、羽幌川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 羽幌 昭35 44-6-6 苫前 昭35 44-7-6 三渓 昭35 44-3-4 参考:岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 古丹別森林鉄道 [1-7-1] 苫前郡苫前町の古丹別市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)古丹別川を溯っていた路線 2)同川の支流の三毛別川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 苫前 昭35 44-7-6 三渓 昭35 44-3-4 達布 昭35 44-4-4 ★★ 達布(小平)森林鉄道 [1-7-1] 留萌郡小平町の達布市街にある貯木場から、小平蘂川を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 達布 昭35 44-4-4 幌加内 昭35 38-16-6 ★★ ウツナイ(宇津内)森林軌道 [1-7-2] 枝幸郡浜頓別町の下頓別地区にある貯木場から、頓別川の支流の宇津内川 を溯っていた路線です。 図名 発行 リスト番号 備考 浜頓別 昭22 37-10-2 上猿払 −− 37-14-?? 掲載図は不明 ★★ 美深森林鉄道(仁宇布殖民軌道) [1-7-4] 中川郡美深町の美深市街にある貯木場から、天塩川の支流のニウプ川を溯っ ていた路線です。美深−仁宇布25線の区間は戦後に「簡易軌道仁宇布線」と なりました。 図名 発行 リスト番号 名寄 昭40 38-10-5 恩根内 昭31 38- 9-3 仁宇布 昭31 38- 5-3 ★★ 珊瑠(下川)森林鉄道 [1-7-4] 上川郡下川町の下川市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)名寄川の支流のサンル川を溯っていた路線 2)名寄川の支流のパンケ川を溯っていた路線 3)名寄川の支流のペンケ川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 下川 昭35 38-7-5 ペンケ川沿いの路線の記載なし サンル 昭35 38-6-4 ★★ 奥名寄森林鉄道 [1-7-4] 上川郡下川町の一の橋市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)名寄川本流を溯っていた路線 2)名寄川の支流の然別川を溯っていた路線 3)名寄川の支流の茂珊瑠川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 西興部 昭31 38-3-3 名寄川本流沿いの路線と然別川沿い の路線のみ記載 上興部 昭31 38-2-4 然別川沿いの路線のみ記載 下川 −− 38-7-?? 記載なし サンル −− 38-6-?? 記載なし ★★ 士別軌道 [1-7-4] 士別市の士別市街と、東に位置する上川郡朝日町を結ぶ私鉄です。敗戦まで 宮内省が筆頭株主であり、最大の顧客が帝室林野局だったので森林鉄道の範 疇に入れられる場合が多いです。 図名 発行 リスト番号 備考 士別 昭32 38-11-6 剣淵 昭41 38-12-4 岩尾内湖 昭31 38-8-6 ★★ 士別(天塩岳)森林鉄道 [1-7-4] 上川郡朝日町の朝日市街にある貯木場からの、以下の路線の総称です。 1)天塩川の本流を溯っていた路線 2)天塩川の支流のペンケヌカナンプ川を溯っていた路線 3)天塩川の支流の似峡川を溯っていた路線 4)天塩川の支流の咲留川を溯っていた路線 図名 発行 リスト番号 備考 岩尾内湖 昭31 38-8-6 当時は「奥士別」 渚滑岳 昭31 38-4-3 愛別 昭36 39-5-5 上川 昭36 39-1-7 ★★★ 7.2 調査・研究報告 ★★★ ★★ 関連ホームページ ★★ http://www.knc.ne.jp/~gonzou/ruin2.htm # 要するに筆者のwww pageなんですけど(^^;。 ★★ 王子軽便鉄道(山線) [1-2-2][1-3-2] 2つ路線がありました。支笏湖周辺の古地図(注:国土地理院発行「樽前山」 S12発行)によれば、始点は現在の支笏湖温泉街の外れにある国民休暇村の湖畔 沿いで、ここに湖畔駅がありました。路線はここから出発して道々37号沿いに 千歳方面へ通じていたものと、R276沿いに苫小牧方面へ通じていたものの2路 線です。「鉄道廃線跡を歩くVII」によれば、それぞれ「湖畔−分岐点−貯木 場」と「分岐点−第四発電所」だそうです。ちなみに「貯木場」は苫小牧市街 にある工場の中で、「第四発電所」は現在の千歳市上千歳の一角です。 道々37号とR276のそれぞれの道路脇には自転車専用道路が走っていますが、 これが森林軌道の跡です。車で車道を走っただけなので、説明板のたぐいがあ るのかどうかわかりませんが、下記の交差点脇の◎の位置には看板が立ってい ますが鉄道とは無関係です。(注:下図の●に「分岐点」という名の駅があった とされています)。 ● 至 −−−−−−−− 至 支笏湖温泉 |◎ 千歳 | | 至 苫小牧 (調査: 2000.4.30) 支笏湖畔の千歳川の河口に鉄橋が架かっています。赤と緑の塗装が支笏湖の 風景に映える綺麗な橋ですが、実は現存する道内最古の鉄橋です。説明看板か ら年表に書き直してみました。 1899(M33) 北海道官設鉄道上川線の砂川−妹背牛間の空知川に「第一空知川 橋梁」として掛けられる。設計は英国人技師ボーナル、英国製の 200フィートダブルワーレントラス橋。 1908(M41) 王子製紙株式会社、千歳川に建設する発電所の建設資材輸送のた め、王子軽便鉄道の運行を苫小牧−支笏湖間で開始。 1924(T13)頃 王子製紙株式会社が鉄橋の払い下げを受け、現在位置に移設。 1951(S26) 王子軽便鉄道廃止。 1994-1996(H6-8) 橋保存のため改修。 1997(H9) 同じ位置に復元され、人道橋となる。 (調査:2003.GW) この他、苫小牧駅近くの公園には東京の紙の博物館から里帰りした車輌が 保存されているそうですが、未調査です。 ★★ 定山渓森林鉄道 [1-3-1] (調査:2002.3.21 by H.O) バスで札幌から定山渓に着き、1/5万よりは詳しい地図があるだろう、とま ず観光案内所へ行きました。パンフレットを見ていると、お姉さんに近いおば さん係員がどんな用か訊いてきました。「実は鉄道…」と言うのが恥ずかしか ったのですが、うさん臭がるかと思ったらあべこべに、懇切丁寧に自分が記憶 している位置などを、ホテル街の地図に書き込んでくれたり、奥から書籍など を引っ張り出してきて説明してくれたりしました。で、森林鉄道については ・町外れ(一番中山峠寄り)の営林署(現森林局)の貯木場から出ていた。 ・定山渓鉄道には乗り入れていなかった。 ・山側の終点は現在はダム湖(定山湖)に沈んでいる。 (編者注:西裕之「全国森林鉄道」等によれば、終点はダム湖よりさらに 数km上流) ・森林局から約2kmは遊歩道として整備されている。 ・ダム手前の「定山渓自然の村」付近は約4kmが林道として残っている。 ・遊歩道と林道間の約1kmはどうなったのか不明。 ・森林局-遊歩道-ダム観光用車道-林道-定山渓自然の村 の間を走るマラソン 大会を年1回実施している。(2002年は7月8日を予定) ・廃止されたのは1967(S42)年。 等々がわかりましたが、遊歩道には雪が残っていたので、現地調査はまた今度。 ★★ 落合森林鉄道 [1-4-2] (調査: 1999.12.31 by H.O) 富良野から帯広へ根室本線で向かう途中、落合駅で停車時間が13分もあった ので、運転士さんに昔の話を聞きました。 現在、駅は無人ですが、最盛期には駅員さんが20数名もいたそうです。待合 室を出たところが1番線、古めかしい木造跨線橋を渡ると2,3番線があり、3番 線は富良野方面から落合止まりの専用ホームになってます。3番線の向こうは 広〜い空き地?(とりあえず冬なので、雪原だった)になっており、ここには引 込線が3つぐらいあって、昔は山のように木材が積み上げられていたそうです。 森林鉄道もここから出ていたそうですが、詳しいルートまでは運転士さんも知 らないとのこと。 (編集者注:落合森林鉄道1943年に廃止になっているので、落合の町の中でも往 時を知る人を探すのは大変だと思います) 今は引き込み線はまったく使われていないのですが、隅に1つ残った機関庫 (昔はもっとあったらしい)にはラッセル車が格納されており、必要な時には出 動するとのこと。 「こっちは根室"本線"だからね、石勝線より格は上なんだけど、すっかりロー カル線になってしまったね。特急も通らないし。」と運転士さん。 20数人の駅員と材木の積み下ろしの喧噪を思い描くだけで楽しく?なるのが 鉄道考古学者でした。:p というわけで森林鉄道のルート調査はできなかった のですが… m(..)m (付記:落合駅前を狩勝峠に向かうと間もなくシーソラプチ川に沿って北上する 車道が分かれますが、その車道がシーソラプチ川を渡った直後に、当路線で唯 一?の遺構である切取りが隠れています。もっとも、早春か晩秋でないと発見 は難しいかもしれませんけど) 以下、落合駅見取り図: ←新得 |待合室|−− →富良野 ホーム  ̄ ̄ ̄ ̄ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄跨 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ++++++++++++++++++++++++++++++|線++++++++++++ 1番線 ++++++++++++++++++++++++++++++|橋++++++++++++ 2番線 | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄| | ホーム −− |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 3番線 引き込み線跡地 □ラッセル車 機関庫 ★★ 上札鶴森林鉄道 [1-6-1] ***** 文献調査:2002.2 by H.O ***** 清里町史(1978(S53)発行)に若干の記述がありました。 −歴史− 1934(S09) 斜里営林署の官行伐採開始時に運材用として敷設。 1955(S30) 林業機械化に伴うチェーンソーやトラックの採用により姿を消す。 #鉄道の廃止理由でトラックはわかりますが、なんでチェーンソーが関係するん #でしょうね?機械化で運ぶ木材の長さが変わったとか??? #町史の写真によれば、SLが使われ、軌道は国鉄などより狭かったようです。 −区間− 上斜里(現・釧網線清里町)〜林内奥本流 #文章では「上斜里」としているのですが、緑駅(あるいは緑貯木場)の誤記です。 #これは昔は緑駅の住所が上斜里村上札鶴で、駅名が「上札鶴」であったことか #らきた混同と思われます。また、林内奥本流とは駅名ではなく、終点あたりの #通称地名を漠然と指しているようです。 ***** 文献調査:2002.5 by A.S ***** 歴代の「北見営林局事業統計書」だと、たとえばS.27の斜里営林署管内には3路 線・16763mの林鉄線があったことになっています。この内の1つは上札鶴森林鉄 道の筈ですが、他の2路線について現時点では判りません。 ★★ (上)生田原森林鉄道 [1-6-4] (調査:1999.12.29 by H.O) 1.文献調査 まず、石北線・生田原駅に併設されている生田原町立図書館で町史や町内地 図などを調べました。残念ながら線路が記載されているものはなく、2人いた 係の人にも聞いてみましたが、「あったことはあった」というだけで詳しいこ とはご存知ではありませんでした。 「生田原町史」(1981発行)、「続生田原町史」(1997発行)によると、生田原 は森林伐採の基地として発展した町で、かつては映画館やカフェなど遊び場所 もたくさんあったようです。駅出口と反対側の敷地に大きな貯木場があり、こ こから2方向へ森林鉄道が延びていました。 1928(S 3) 生田原貯木場開設。 1929(S 4) 貯木場〜清里間に森林軌道敷設。馬30余頭による馬鉄だった。 1942(S17) 機関車による森林鉄道に改修され、「上生田原森林鉄道」となる。 機関車3両、貨車40両。 9月、もう1つの森林鉄道が奥浦島(現岩戸)・武利越まで開設され る。(最延長71.4km) 1949(S24) この頃、上生田原森林鉄道は最延長21.2kmとなる。 1954(S29) 両鉄道とも、管内で最初に廃止となる。(編注:「管内」はS.24以 降の「北見営林局事業統計書」で見ると、遠軽営林署の管内にあっ た森林鉄道は"野上経営区"所属の2区間だけとなっているため、 「支庁内初」または「局内初」だと思われます。「遠軽町野上」だ と石北本線・新栄野駅の東方になってしまうのですが、他に相当す る路線が記載されていないので生田原森林鉄道を指しているものと 判断しました。) 清里へは生田原川本流沿い、奥浦島へは浦島内川沿いということになります が、どちらも最延長キロ数だけ遡ると峠の向こうまで行ってしまいますので、 どのような計算をしたのかは今後の調査課題です。 生田原川と浦島内川は駅のすぐ近くで分岐しているのですが、1954年の地図 (注:町制施行記念生田原町市街図)では蛇行していた生田原川は、1980年の地 図では改修されてまっすぐになり、分岐点も変えられており、林鉄跡が残って いるかどうかは微妙です。 2.実地調査 雪が積もっていますのでXCスキーを使用し、駅近くから生田原川の堤防沿い に川を遡ってみることにしました。川沿いは綺麗に遊歩道として整備されてお り、オホーツク文学碑とか、一般人の入選俳句の碑などが並んでいました。も ちろん奥浦島方面への林鉄の鉄橋跡もありません。浦島内川沿いに数km歩いて みましたが、右岸は山、左岸は綺麗に土手が整備され、土手はいつのまにか牧 場(=個人の所有地)になってしまい、跡はまったく見つからずじまいでした。 今でも製材所は街のあちこちにあります。また、木材から発想して、木のお もちゃを集めた「ちゃちゃワールド」やきのこ栽培などで町おこしを計ってい るようです。1954年の貯木場隣りには倉本木材という会社が大きく場所を占め ているのですが、今は同じ場所で倉本産業と名前を変えてきのこの栽培工場に なっています。 ★★★★★ 8 その他の鉄道 ★★★★★ ★★★ 8.1 道内に存在した私鉄(データ編) ★★★ ここで取り上げるのは、地方鉄道法または軌道法に基づいて運行されていた 路線、要するに「運賃を払えば誰でも乗れる」鉄道です。今では、JRの他には 札幌や函館の市電ぐらいしか残っていない道内ですが、昔はこんなにありました。 なお、本章のリストの「その他の文献」の項に記載がない路線も、10章で取 り上げた田中和夫「北海道の鉄道」および和久田康雄「私鉄史ハンドブック」 には載っています。 路線名の欄の→:買収 路線名の欄の×:廃止 駅名の前の○ :他の鉄道との接続駅 駅名の前の● :分岐駅 区間の−…− :途中駅の省略 ★★ 亀函馬車鉄道→函館馬車鉄道→函館水電→帝国電力 →大日本電力→道南電気軌道→函館市 区間 :○宝来町-栄町-労働会館前-○松風町・ ○函館駅前-若松町-海岸町-万代町-●ガス会社前-宮前町-新世端前- 梁川車庫前-梁川町-○五稜郭公園前・ ●ガス会社前-亀田町-大野新道-鉄道工場前-○五稜郭駅前 エリア:[1-1-1] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 渡島海岸鉄道→× 区間 :○森−仮東森−東森−尾白内−掛澗−東掛澗−度杭崎−砂原 エリア:[1-1-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 大沼電鉄→× 区間 :○大沼公園−大八園−池田園−新銚子口−大沼温泉−駒見−宮浜−鹿部 エリア:[1-1-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVI」JTBキャンブックス,1999 原口隆行「日本の路面電車II」JTBキャンブックス,2000 ★★ 寿都鉄道→× 区間 :○黒松内−中の川−湯別−樽岸−寿都 エリア:[1-2-1] ほっかいどガイド:8.3 寿都鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIV」JTBキャンブックス,1997 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 ★★ 岩内馬車鉄道→国鉄(岩内線)→× 区間 :岩内−西前田−前田−幌似−国富−○小沢 エリア:[1-2-1] ほっかいどガイド:5.1 岩内線 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVII」JTBキャンブックス,1999 ★★ 胆振線→胆振縦貫鉄道→国鉄(胆振線)→× 区間 :○倶知安-六郷-参郷-寒別-北岡-●京極-東京極-南京極-留産-喜茂別- 北鈴川-御園-尾路遠-新大滝-優徳-北湯沢-○伊達紋別・ ●京極-脇方 エリア:[1-2-1] ほっかいどガイド:5.1 胆振線 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIII」JTBキャンブックス,1997 ★★ 胆振鉄道→(胆振縦貫鉄道に合併) 区間 :京極−喜茂別 エリア:[1-2-1] ほっかいどガイド:5.1 胆振線 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIII」JTBキャンブックス,1997 ★★ 北海道鉱業鉄道→北海道鉄道→国鉄→JR(千歳線・函館線・富内線(×)) 区間 :沼ノ端−…−豊城−…−旭岡−…−栄−…−富内 苗穂−…−月寒−…−沼ノ端 富内−…−振内−…−日高町 エリア:[1-2-2][1-5-1] ほっかいどガイド:5.2 千歳線 その他の文献 : ★★ 洞爺湖電気鉄道→× 区間 :○虻田−見晴−洞爺湖−湖畔 エリア:[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 早来軌道→早来鉄道→× 区間 :○早来−中土場−峠−厚真−幌内 エリア:[1-2-2] ほっかいどガイド:7.1 早来軌道 その他の文献 :堀淳一「消えた鉄道を歩く」講談社文庫 岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 王子製紙苫小牧工場専用鉄道(山線)→× 区間 :苫小牧工場−上千歳・湖畔 エリア:[1-2-2][1-3-2] ほっかいどガイド:7.1 王子軽便鉄道(山線) その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVII」JTBキャンブックス,1999 ★★ 三井物産専用鉄道苫小牧工場軽便鉄道→国鉄日高本線 区間 :○苫小牧−○佐瑠太 エリア:[1-2-2] ほっかいどガイド:7.1 三井物産専用鉄道苫小牧軽便鉄道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 登別温泉軌道→登別温泉→× 区間 :○登別駅−登別温泉場 エリア:[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 原口隆行「日本の路面電車II」JTBキャンブックス,2000 ★★ 厚真軌道→× 区間 :厚真−幌内 エリア:[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 幌内鉄道→北海道炭礦鉄道→作業局→国鉄→JR(函館線・ 石勝線・幌内線(×)・歌志内線(×)・手宮線(×)・室蘭線) 区間 :手宮−…−札幌・ 札幌−…−幌内・ 幌内太−…−幾春別・ 岩見沢−…−歌志内 エリア:[1-2-3][1-3-2][1-3-3] ほっかいどガイド:5.1 幌内線、歌志内線、手宮線 その他の文献 : ★★ 石狩石炭→飯田延太郎→美唄鉄道→三菱鉱業→× 区間 :○美唄−東美唄−東明−盤の沢−我路−美唄炭山−常盤台 エリア:[1-2-3] ほっかいどガイド:8.3 美唄鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩く」JTBキャンブックス,1995 岡田誠一「キハ41000とその一族(下)」ネコパブリッシング,1999 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 三菱鉱業→三菱大夕張炭礦→三菱石炭鉱業→× 区間 :○清水沢−新清水沢−遠幌−南大夕張−農場前−明石町−千年町− 大夕張−大夕張炭山 エリア:[1-2-3] ほっかいどガイド:8.3 三菱大夕張炭砿鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIV」JTBキャンブックス,1997 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 三井鉱山→三井芦別鉄道→× 区間 :○芦別−高校通り−山の手町−三井芦別−入山−中の丘−幸町−緑泉− 西町アパート前−芦の湯前−頼城−玉川町 エリア:[1-2-4] ほっかいどガイド:8.3 三井芦別鉄道 その他の文献 :寺本孝広「炭山への道」、「立入厳禁」編集委員会、1999 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 ★★ 定山渓鉄道→× 区間 :○白石−東札幌−豊平−北茨木−澄川−慈恵学園−真駒内−緑ヶ丘− 石切山−藤の沢−十五島公園−下藤野−東簾舞−簾舞−豊滝−滝の沢− 小金湯−一の沢−錦橋−白糸の滝−定山渓 エリア:[1-3-1] ほっかいどガイド:8.3 定山渓鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩く」JTBキャンブックス,1995 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 札幌温泉電気軌道→札幌郊外電気軌道→× 区間 :南一条−南三条−南六条−南七条−南八条−南九条−温泉下 エリア:[1-3-1] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 札幌石材馬車鉄道→札幌市街軌道→札幌電気軌道→札幌市→× 区間 :(札幌市内) エリア:[1-3-1] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 札幌軌道→× 区間 :○札幌−東阜園前−興農園前−新琴似−製線所前−中島−二番通− 篠路−前田農場前−茨戸−川岸 エリア:[1-3-1] ほっかいどガイド その他の文献 ★★ 夕張鉄道→北海道炭礦汽船→× 区間 :○野幌−北海鋼機前−上江別−下の月−晩翠−南幌−双葉−長沼−北長沼 −中央農試前−○栗山−角田−継立−新二岐−錦沢−平和−鉱業所前− 夕製前−若葉−営林署前−○鹿ノ谷−末広−夕張本町 エリア:[1-3-2][1-2-3] ほっかいどガイド:8.3 夕張鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩く」JTBキャンブックス,1995 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 江別村→江別町→× 区間 :○江別駅−江別川堤防 エリア:[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 軽石軌道→× 区間 :○軽川−新川−四線−七線−九線−花畔 エリア:[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 江当軌道→× 区間 :○当別−蕨岱−六号−三原−江別 エリア:[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 余市臨港鉄道→× 区間 :○余市−黒川町−浜余市 エリア:[1-3-4] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 上川馬車鉄道→× 区間 :(旭川市内) エリア:[1-4-1] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 旭川電気軌道→× 区間 :○旭川−旭川一条−○旭川四条−●旭川追分−二号線−千代田−四号線 −観音−坂の上−旭正−上旭正−十号−西九号−西川−西六号− 東川学校前−東川・ ●旭川追分−竜谷学園前−墓地前−愛宕−二丁目 −役場前−四丁目−五丁目−旭山公園 エリア:[1-4-1] ほっかいどガイド:8.3 旭川電気軌道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIII」JTBキャンブックス,1997 原口隆行「日本の路面電車II」JTBキャンブックス,2000 岡田誠一「キハ41000とその一族(下)」ネコパブリッシング,1999 ★★ 旭川市街軌道→× 区間 :○旭川駅前-●一條九丁目-●四條九丁目-六條九丁目-八條八丁目-旭橋- 旭町三丁目-大町三丁目-●北海道神社前-市営球場前-●競馬場北口前- 国立病院前−一線六号・ 曙通-●一條九丁目-八條十五丁目・ 四條一丁目-●四條九丁目-四条十七丁目・ ●北海道神社前-大町五丁目- 大町七丁目-大町九丁目-一区前-二区前-三区前-春光台前-●競馬場北口前 エリア:[1-4-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :原口隆行「日本の路面電車II」JTBキャンブックス,2000 ★★ 沙流軌道→沙流鉄道→× 区間 :○富川−東佐瑠太−紫雲古津−荷菜−平取 エリア:[1-5-1] ほっかいどガイド:7.1 沙流鉄道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 日高拓殖鉄道→国鉄日高本線 区間 :○佐瑠太−静内 エリア:[1-5-1] ほっかいどガイド:7.1 日高拓殖鉄道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 十勝鉄道→× 区間 :○帯広−●新帯広−女学校前−工場前−農学校前−十勝稲田−川西− 豊西−●藤−美栄−十勝清川−上清川−●南太平−太平・ ●新帯広−帯広大通・ ●藤−基松−●常盤−坂上−美生−上美生・ ●常盤−上帯広−広野−上広野−八千代・ ●南太平−戸蔦 エリア:[1-5-3][1-5-4] ほっかいどガイド:8.3 十勝鉄道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 河西鉄道→(十勝鉄道に合併) 区間 :○清水−下清水−人舞−●熊牛−下美蔓−中美蔓−上美蔓−●下幌内 −上然別−○鹿追・ 北熊牛−●熊牛−本村−南熊牛・ ●下幌内−上幌内 エリア:[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 北海道拓殖鉄道→× 区間 :○新得−南新得−佐幌−屈足−新幌内−○鹿追−北笹川−自衛隊前 −瓜幕−中瓜幕−東瓜幕−中音更−○上士幌 エリア:[1-5-4] ほっかいどガイド:8.3 北海道拓殖鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIII」JTBキャンブックス,1997 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 ★★ 釧路鉄道→作業局→国鉄→JR(釧網本線) 区間 :○標茶−南弟子屈−ニタトリマップ−ウノシマイチヤルシヘ−美留和− −ポンチヲワッカ−跡佐登 エリア:[1-6-1][1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 : ★★ 釧路臨港鉄道→太平洋石炭販売輸送→× 区間 :城山-○別保-永住町-○春採-観月園-沼尻-米町-知人-真砂町-臨港-入舟町 エリア:[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 北海炭礦鉄道→雄別炭礦鉄道→雄別鉄道→雄別炭礦 区間 :○釧路−新釧路−中園−鳥取−北斗−山花−桜田−阿寒−古潭−新雄別 −真澄町−雄別炭山 エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド:8.3 雄別鉄道 その他の文献 :星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 根室拓殖軌道→根室拓殖鉄道→× 区間 :○根室−友知−沖根婦−婦羅理−歯舞 エリア:[1-6-3] ほっかいどガイド:8.3 根室拓殖鉄道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 加田芳英(他)「根室拓殖鉄道」(自費出版),1997 トワイライトゾ〜ンMANUAL3,ネコパブリッシング 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 ★★ 北見鉄道→× 区間 :○止別−野坂−小清水 エリア:[1-6-4] ほっかいどガイド:8.3「小清水町の鉄道史」 その他の文献 : ★★ 湧別軌道→× 区間 :○湧別−丁寧 エリア:[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 鉄道院湧別軽便線→石北本線 区間 :○留辺蘂−○社名淵 エリア:[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★ 留萠鉄道→鉄道省(留萠線)→留萠鉄道→× 区間 :○恵比島−大通−幌新−袋地−新雨竜−宝沢−太刀別−昭和 エリア:[1-7-1] ほっかいどガイド:8.3 留萠鉄道 その他の文献 : ★★ 羽幌炭礦鉄道→× 区間 :○築別−五線−七線沢−上築別−曙光−●曙−桜ヶ丘−古賀町−築別炭礦・ ●曙−三毛別−上羽幌 エリア:[1-7-1] ほっかいどガイド:8.3 羽幌炭礦鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くIV」JTBキャンブックス,1997 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 天塩鉄道→天塩炭礦鉄道→× 区間 :○留萠−春日町−桜山−天塩本郷−沖内−天塩住吉−達布 エリア:[1-7-1] ほっかいどガイド:8.3 天塩炭礦鉄道 その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVI」JTBキャンブックス,1999 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 ★★ 士別軌道→× 区間 :○士別−兵村−九十九−中士別−学前−奥野−鳴戸−上士別−十九線− ニ十二線−二十七線−御料地 エリア:[1-7-4] ほっかいどガイド:7.1 士別軌道 その他の文献 :岡本憲之「全国軽便鉄道」JTBキャンブックス,1999 ★★★ 8.2 道内の専用線(データ編) ★★★ ここで述べるのは、道内にあった「原則として貨物専用(*)」の鉄道の内、 国鉄線の貨車が乗り入れていた路線です。 (*)鉱山の専用鉄道では「便乗」として一般乗客を乗せていた路線も多いです。 資料が限られているので、実在した路線が抜けている箇所も多いと思います。 また、現在までに存在が確認できている路線だけでも以下のリストの数倍にな るのですが、全部を挙げると膨大になるので本稿ではキロ数が1km以上の路線 だけを扱っています。 以下では廃止されたことが確認できるもの、および推定されるものの対して 「(廃止)」と付記してありますが、付記していない路線の中にも既に廃止され て跡形もない事例もあるかもしれません。あらかじめご了承ください。 「専用線一覧表」は公刊*されなかった*のですが、ネコパブリッシング発行 の以下の書籍に収載されています。 - 昭和26年版 → トワイライトゾ〜ンMANUAL8,1999 - 昭和32年版 → トワイライトゾ〜ンMANUAL7,1998 - 昭和39年版 → トワイライトゾ〜ンMANUAL9,2000 - 昭和42年版 → トワイライトゾ〜ンMANUAL5,1996 - 昭和58年版 → トワイライトゾ〜ンMANUAL6,1997 ★★ 函館市(公共臨港線) 区間 :函館(国鉄函館本線)−?(1.2km) エリア :[1-1-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) ★★ 新亜細亜石油→アジア石油? 区間 :七重浜(国鉄江差線)−?(1.9km) エリア :[1-1-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 北海道瓦斯(廃止) 区間 :五稜郭(国鉄函館本線)−?(1.5km) エリア :[1-1-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 日本セメント(廃止) 区間 :上磯(国鉄江差線)−?(1.2km) エリア :[1-1-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,39,42年版) 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 ★★ 日鉄鉱業(廃止) 区間 :喜茂別(国鉄胆振線)−?(6.6km) エリア :[1-2-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 茅沼炭化礦業(廃止) 区間 :岩内(国鉄岩内線)−?(6.3km) エリア :[1-2-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 ★★ 北海道砂鉄鋼業→北菱産業?(廃止) 区間 :長和(国鉄室蘭本線)−?(1.0km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42年版) 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 台湾製糖→台糖→北海道糖業? 区間 :伊達紋別(国鉄室蘭本線)−?(1.8km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 室蘭埠頭 区間 :本輪西(国鉄室蘭本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 中卯商会(廃止) 区間 :本輪西(国鉄室蘭本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42年版) ★★ 富士製鉄(廃止?) 区間 :東室蘭(国鉄室蘭本線)−?(2.1km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,39年版) ★★ 富士セメント→日鉄セメント? 区間 :東室蘭(国鉄室蘭本線)−?(2.4km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42,58年版) ★★ 北海道曹達 区間 :幌別(国鉄室蘭本線)−?(1.7km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) ★★ 大昭和製紙 区間 :萩野(国鉄室蘭本線)−?(2.6km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 鉄道砂利(廃止) 区間 :白老(国鉄室蘭本線)−?(2.0km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 山本久吉(廃止) 区間 :白老(国鉄室蘭本線)−?(1.3km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 日本通運(廃止) 区間 :白老(国鉄室蘭本線)−?(1.3km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 苫小牧製紙→王子製紙工業?(廃止) 区間 :苫小牧(国鉄室蘭本線)−?(1.0km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 岩倉組(廃止) 区間 :苫小牧(国鉄室蘭本線)−?(2.5km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39年版) ★★ 苫小牧市長(公共臨港線) 区間 :苫小牧(国鉄室蘭本線)−?(2.0km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42,58年版) ★★ 日本製鉄→富士製鉄?(廃止) 区間 :御崎(国鉄室蘭本線)−?(1.4km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 日本製鋼所(廃止) 区間 :御崎(国鉄室蘭本線)−?(2.8km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 日本埠頭海運→日通埠頭海運?(廃止) 区間 :御崎(国鉄室蘭本線)−?(1.4km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42年版) ★★ 国策パルプ(廃止) 区間 :勇払(国鉄日高本線)−?(1.8km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,39,42年版) ★★ 配炭公団清算事務所(廃止) 区間 :虻田(国鉄室蘭本線)−?(2.4km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 北海道工業(廃止) 区間 :虻田(国鉄室蘭本線)−?(2.0km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 苫小牧製紙→王子製紙?(廃止) 区間 :穂別(国鉄富内線)−?(2.3km) エリア :[1-2-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 三菱鉱業(廃止) 区間 :茶志内(国鉄函館本線)−?(2.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 三井鉱山(廃止) 区間 :南美唄(国鉄函館本線)−?(1.2km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 井華鉱業→住友石炭鉱業?(廃止) 区間 :幾春別(国鉄幌内線)−?(1.1km+2.2km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 札幌営林局→岩見沢営林署(廃止) 区間 :幾春別(国鉄幌内線)−?(1.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 北海道炭礦汽船真谷地炭砿専用鉄道(廃止) 区間 :沼ノ沢(国鉄夕張線)−真谷地(4.4km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド:8.3 北海道炭礦汽船真谷地炭砿専用鉄道 その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,39,42年版) 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くV」JTBキャンブックス,1998 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :清水沢(国鉄夕張線)−?(1.2km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :夕張(国鉄夕張線)−?(1.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 大夕張営林署(廃止) 区間 :南大夕張(三菱鉱業)−?(1.3km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 新夕張炭砿(廃止) 区間 :鹿の谷(夕張鉄道)−?(1.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :若菜(夕張鉄道)−?(1.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,42年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :平和(夕張鉄道)−?(1.0km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,42年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :新二岐(夕張鉄道)−?(4.7km) エリア :[1-2-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,42年版) ★★ 井華鉱業→住友石炭鉱業→大日興産?(廃止) 区間 :奈井江(国鉄函館本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 三井鉱山(廃止) 区間 :奈井江(国鉄函館本線)−東奈井江(6.5km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド:8.3 三井砿山奈井江専用鉄道 その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 ★★ 東洋東圧工業→三井東圧化学? 区間 :豊沼(国鉄函館本線)−?(2.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 北海道電力 区間 :滝川(国鉄函館本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 夕張製作所(廃止) 区間 :滝川(国鉄函館本線)−?(2.5km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 滝川化学工業(廃止) 区間 :滝川(国鉄函館本線)−?(2.4km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :歌志内(国鉄歌志内線)−?(1.9km+1.6km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,42年版) ★★ 空知炭鉱(廃止) 区間 :歌志内(国鉄歌志内線)−?(1.4km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42,58年版) ★★ 札幌営林局(廃止) 区間 :上芦別(国鉄根室本線)−?(1.0km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 三菱鉱業芦別鉱業所(廃止) 区間 :上芦別(国鉄根室本線)−辺渓三坑(6.6km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,42年版) 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVI」JTBキャンブックス,1999 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 北菱産業(廃止) 区間 :上芦別(国鉄根室本線)−?(1.6km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42年版) ★★ 東海産業(廃止) 区間 :赤平(国鉄根室本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 井華鉱業(廃止) 区間 :赤平(国鉄根室本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 北海道炭礦汽船(廃止) 区間 :赤平(国鉄根室本線)−?(1.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 砂川砂利工産(廃止) 区間 :砂川(国鉄函館本線)−?(1.9km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 三井鉱山→住友石炭鉱業?(廃止) 区間 :神威(国鉄歌志内線)−?(2.1km) エリア :[1-2-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 北海道大学(廃止) 区間 :桑園(国鉄函館本線)−?(1.5km) エリア :[1-3-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32年版) ★★ 豊羽鉱山(廃止) 区間 :藤の沢(定山渓鉄道)−?(2.1km) エリア :[1-3-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 豊羽鉱山(廃止) 区間 :錦橋(定山渓鉄道)−?(6.1km) エリア :[1-3-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32年版) ★★ 北海道電力江別発電所専用鉄道(廃止) 区間 :江別(国鉄函館本線)−発電所(2.4km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くV」JTBキャンブックス,1998 専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 北日本製紙→王子製紙? 区間 :江別(国鉄函館本線)−?(3.0km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くV」JTBキャンブックス,1998 専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) ★★ 北海道庁(廃止) 区間 :江別(国鉄函館本線)−?(1.5km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 日本通運(廃止) 区間 :江別(国鉄函館本線)−?(1.2km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 陸上自衛隊 区間 :島松(国鉄千歳線)−?(2.5km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 住鉱吉野石膏→北海道吉野石膏 区間 :恵庭(国鉄千歳線)−?(1.0km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42,58年版) ★★ 大林組(廃止) 区間 :千歳(国鉄千歳線)−?(2.2km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 航空自衛隊(廃止) 区間 :千歳(国鉄千歳線)−?(1.1km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42年版) ★★ 北海道炭礦汽船→北星炭砿(廃止) 区間 :美流渡(国鉄万字線)−?(2.8km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド:8.3 美流渡・北星炭鉱線 その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛1」ないねん出版,2000 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 札鉄工業→札建工業(廃止) 区間 :由仁(国鉄室蘭本線)−?(2.2km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39年版) ★★ 北海道砂利採取(廃止) 区間 :由仁(国鉄室蘭本線)−?(1.0km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :昭和26年版専用線一覧表 ★★ 北海道庁(廃止) 区間 :由仁(国鉄室蘭本線)−?(2.2km) エリア :[1-3-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 北海道木材化学(廃止) 区間 :近文(国鉄函館本線)−?(1.4km) エリア :[1-4-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42年版) ★★ 国策パルプ+北海道林業(廃止) 区間 :新旭川(国鉄宗谷本線)−?(1.1km+1.4km+1.4km) エリア :[1-4-1] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 日鉄鉱業(廃止) 区間 :東鹿越(国鉄根室本線)−?(1.1km) エリア :[1-4-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39年版) ★★ 札幌通商産業局(廃止) 区間 :帯広(国鉄根室本線)−?(1.4km) エリア :[1-5-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 帯広市開発公社 区間 :帯広(国鉄根室本線)−?(1.5km) エリア :[1-5-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和58年版) ★★ 日本甜菜製糖専用鉄道 区間 :十勝清水(国鉄根室本線)−?(1.0km) エリア :[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ ホクレン 区間 :十勝清水(国鉄根室本線)−?(2.3km) エリア :[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42,58年版) ★★ 大日本製糖→北海道糖業? 区間 :勇足(国鉄池北線)−?(2.4km) エリア :[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42,58年版) ★★ 苫小牧製紙(廃止) 区間 :本別(国鉄池北線)−?(1.5km+1.1km) エリア :[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 士幌町農協(廃止) 区間 :士幌(国鉄士幌線)−?(1.0km) エリア :[1-5-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和58年版) ★★ 太平洋炭砿(廃止) 区間 :春採(釧路臨港鉄道)−?(2.6km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42年版) ★★ 雄別炭礦(廃止) 区間 :尺別(国鉄根室本線)−尺別炭山(10.8km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド:8.3 雄別炭砿尺別鉄道 その他の文献 :大堀尚己「森に還るヤマ」(トワイライトゾ〜ンMANUAL6)、 ネコパブリッシング、1997 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩くVIII」JTBキャンブックス,2001 ★★ 本州製紙 区間 :大楽毛(国鉄根室本線)−?(2.5km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 十条製紙(廃止) 区間 :新富士(国鉄根室本線)−?(1.5km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 埠頭倉庫(廃止) 区間 :新富士(国鉄根室本線)−?(2.6km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 武田木材工業(廃止) 区間 :釧路(国鉄釧路本線)−?(1.1km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和39,42年版) ★★ 釧路土木現業所→釧路開発建設部?(廃止) 区間 :門静(国鉄根室本線)−?(1.9km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 日本通運(廃止) 区間 :門静(国鉄根室本線)−?(1.8km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 釧路港港湾管理者(公共臨港線) 区間 :浜釧路(国鉄根室本線)−?(1.1km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42,58年版) ★★ 日本甜菜製糖(廃止) 区間 :磯分内(国鉄釧網本線)−?(1.9km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 太平洋炭砿(廃止) 区間 :上別保(国鉄根室本線)−?(1.6km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26年版) ★★ 釧路港港湾管理者(公共臨港線)(廃止) 区間 :新釧路(雄別鉄道)−?(2.6km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42年版) ★★ 明治鉱業(廃止) 区間 :西庶路(国鉄根室本線)−?(2.7km) エリア :[1-6-2] ほっかいどガイド:8.3 明治鉱山西庶路鉱業所・本岐炭砿専用鉄道 その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39年版) ★★ ホクレン 区間 :中斜里(国鉄釧網本線)−?(1.4km) エリア :[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42,58年版) ★★ 芝浦製糖(廃止) 区間 :上常呂(国鉄池北線)−?(2.2km) エリア :[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39年版) ★★ 北海道糖業 区間 :上常呂(国鉄池北線)−?(5.4km) エリア :[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和58年版) ★★ 北見パルプ(廃止) 区間 :元紋別(国鉄名寄本線)−?(1.0km) エリア :[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和42年版) ★★ 日本甜菜製糖(廃止) 区間 :美幌(国鉄石北本線)−?(1.7km) エリア :[1-6-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39,42年版) ★★ 藤田鉱山→藤田炭鉱→藤田石炭鉱業(廃止) 区間 :小石(国鉄天北線)−?(1.7km) エリア :[1-7-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 北海道農材工業(廃止) 区間 :上興部(国鉄名寄本線)−?(1.3km) エリア :[1-7-2] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) ★★ 日曹炭礦(廃止) 区間 :豊富(国鉄宗谷本線)−?(18.1km) エリア :[1-7-3] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42年版) 星良助「北国の汽笛2」ないねん出版,2001 ★★ 日本甜菜製糖 区間 :士別(国鉄宗谷本線)−?(1.7km) エリア :[1-7-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39,42,58年版) 瀬古龍雄「B6回顧録(私鉄・専用鉄道・専用線編)」 ネコパブリッシング,2000 ★★ 日本林産工業(廃止) 区間 :士別(国鉄宗谷本線)−?(2.1km) エリア :[1-7-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和32,39年版) ★★ 旭川営林局(廃止) 区間 :士別(国鉄宗谷本線)−?(1.1km) エリア :[1-7-4] ほっかいどガイド: その他の文献 :専用線一覧表(昭和26,32,39年版) ★★★ 8.3 調査報告 ★★★ ★★ 寿都鉄道 (調査2003.4.30 by H.O)★★ 1.小史 1918(T07) 8月 寿都鉄道(株)設立。寿都からのニシン輸送を見込む。 1920(T09)10月24日 全線開通。蒸気機関車使用。 沿線の非鉄金属鉱山からの輸送にも使用されるようになる。 やがてニシンは不漁になる。 1962(S37) 非鉄金属鉱山閉山。 1967(S42) 4月 豪雨で路盤流出。 1968(S43) 8月 運転休止。 1972(S47) 5月 1日 廃止。 2.遺構 <黒松内駅>JR黒松内駅に接続していたのだが痕跡なし <黒松内−中の川>黒松内市街北西のはずれから直接中の川集落へ向かう道路沿い の左右に所々路盤らしきものが見られる。 <中の川駅>現在の集落の中にあったのだが、整地されて痕跡なし。 <中の川−湯別> 朱太川を西岸沿いに走っていたはずだが、並行する車道がなく未確認。 <湯別駅>郵便局などがある集落中心部にあったのだが、痕跡不明。路地の曲がり 具合などから位置を推定するのみ。 <湯別−樽岸−寿都の少し手前> 樽岸町に入ると山は海まで迫り、集落も国道229号も海に沿って細く続く。 〜〜〜海〜〜〜〜 −海と陸の境界− ===国道=== □□家□□家□□ ++++++路盤++++++ :::崖:::: ずっとこんな位置関係が続き、路盤は家々の裏手の斜面中腹に続いている。 ところどころ崖から小さな川が海に流れ込んでおり、鉄橋が残っている。 1箇所、かなり大きな鉄橋は寿都鉄道最大の名所で、上に水道管を通して 枕木も残っているのだが、実はこの鉄橋は見逃してしまい、替わりに小さ な鉄橋を多数見つけた。 <樽岸駅>樽岸バス停の裏手。更地になっている。 <寿都駅>跡地に市役所、消防署などが一列に並んでいる。 <その他>跡碑や記念館の類はない模様。 ★★ 定山渓鉄道 (by Y.U, A.S 現地調査2002.3 by H.O) ★★ 1.沿革 札幌市街から定山渓まで走っていました。夕張鉄道と並んで、札幌郊外で 「今あったら…」と惜しまれる路線の1つです。 近年の藤野、簾舞(みすまい)あたりの住宅建設は目を見張るものがあり、 もし鉄道が残っていたら今頃は複線化されていたかもしれません。しかし鉄道 が廃止された今では札幌中心部へのアクセスがR230だけしかないため、特に冬 季の渋滞は中心部まで2時間や3時間は平気でかかります。鉄道用地の一部を現 在の地下鉄南北線が使用していますので、もし廃止になっていなかったら(地 下鉄を含め)どんな都市計画になっていたのか、興味のあるところです。 2.歴史 開業 1918(大 7)年 廃止 1969(昭44)年10月31日 じょうてつバスのホームページ: http://www.joutetsu.co.jp/about/ayumi.html にとても詳しいです。でも残念ながらまだ完結していません。これと「さっぽ ろ文庫・定山渓温泉」(北海道新聞社)を合わせて読むと、定山渓温泉の発展、 定山渓周辺の森林資源の開発、豊羽鉱山の開発、石切山からの石材搬送などで 随分好調だった様子がうかがえます。簾舞ある札幌市文化財の旧黒岩家の説明 看板を読むと、明治初期には石山から定山渓の間にはこの黒岩家1軒しかなか ったとあり、隔世の感があります。 開業当初はSLによる運行でしたが、当時の国鉄が道内に電化区間を持たない 時代に電化したため、札幌駅への乗り入れのためだけにディーゼルカーを新調 したり、現在は準鉄道記念物として小樽の交通記念館で展示されている開拓使 時代の客車を長年保有していたり、と鉄道史的に見ても面白い存在です。 3.各駅探訪(調査年号の記載のないものは全て2002.3調査) 定山渓から苗穂まで、各駅にご紹介します。 定山渓−石山間はR230と豊平川の間を走っており、豊平川に流れ込む沢が多 いため、橋脚を多数見つけることができます。山間部では路盤も残っています。 また、バスの本数が多いため安心して徒歩調査できます。 <定山渓>:定山渓観光案内所の裏に公園があり、駅跡の碑がある。ホームは 石積みが2コほど転がっているのみで、面影をとどめていない。なお、じょ うてつバスの終点は駅跡ではない。 <定山渓−白糸の滝>:温泉街の間を路盤跡が何となく残っている。 万世閣の裏−章月グランドホテルの前−ホテル山水の裏 −新王子製紙・北友荘の前−白糸ホテルの裏 <白糸の滝駅>:敷地が北海道秘宝館になり、両側の沢に鉄橋が残っている。 <白糸の滝−錦橋駅>:ここから新旧のR230の間を進み、 ひまわり公園−(錦橋駅跡)−温泉病院裏 と通っていた。 <錦橋駅>:錦橋バス停がある。整地され、じょうてつ不動産のプレハブ建て の工事事務所がある。1軒のよろず屋(和田商店)の存在が「ここが駅前だ」 と主張していた。 <一の沢駅付近>:一の沢バス停から少し定山渓へ戻ったところに一の沢があ り、両岸にレンガの橋脚が残っている。橋桁はなく、豊羽鉱山(株)管理の 送水管が通っている。 <小金湯駅付近>:「小金湯」という交差点はR230に3つあり、このうちの1 つから松の湯へ行く道が軌道跡を横切っている。しかし軌道は車道にするた めに壊されつつあり、工事事務所に当時のものかと思われる「こがねゆ」の 駅看板が取り付けられていた。 街中を通る道路と豊平川の間を通っており、車道整備が進む中にも鱒沢と 滝ノ沢にかかる鉄橋が残り、断片的に路盤も残っている。 <滝ノ沢駅>:ホームや駅舎は残っていないが、駅構内に初代駅長が植えたと いうソメイヨシノ2本が説明看板付きで保存されている。 <滝ノ沢−豊滝−簾舞>:R230は高いところを通っているが、豊平川を見下ろ す眼下に路盤がところどころ見える。 <簾舞駅>:街中を通る旧道から豊平川対岸の砥山発電所へ行く道の途中、製 材所のあたりが駅のあった場所。 <簾舞−東簾舞−藤ノ沢>:簾舞市街の中継ポンプ所の前に路盤がある。 ・簾舞鉄橋:橋桁はないが、両岸にレンガの橋脚が残っている。 ・札幌市文化財の黒岩家旧家裏の公園を通っている。 ・藤野までの山間部は路盤が残っている。 ・藤野市街は路盤は新興住宅地や大型店舗となっており、判別が困難。 #住宅街での調査は犬に吼えられて大変です。 <藤ノ沢駅>:藤野市街がすっかり終わった石山側の端、東藤野バス停裏の公 園が駅跡。R230の反対側正面には古ぼけた一棟の建物があり、藤ノ沢特定 郵便局とその名もずばり「ふじのストアー」が入っている。ここが藤野の 駅前だ、中心だと自己主張している。しかし君たち、もう駅はここにはな いのだ! <藤ノ沢−石山(当初の駅名は石切山)>:R230は豊平川を跨ぐ石山大橋のあ たりで定山渓鉄道と交錯し、鉄道は川を渡らずに地下鉄真駒内まで通って いたようだ。石山大橋手前(定山渓寄り)の川沿いに路盤がある。雪が積も っていたが、おそらく自転車道だろう。 <石山−北茨木−真駒内>:鉄道跡は未調査 地下鉄を延長する計画があり、石山までは採算ラインをクリアできるとの 見解だったのですが、残念な事に、札幌市の地下鉄設計部門は、東西線延長 完了後、1999年に解散しています。ノウハウをどの様に保管するかが問題に なっているというような記事を読んだ覚えがあります。 (2000) 地元議員の事務所には「石山までの地下鉄早期開通を!」と書いてあった。 <真駒内−>地下鉄南北線の真駒内−霊園前の地上部分は、定山渓鉄道の敷地 を利用して作られている。 <豊平駅>:唯一、駅舎が現存する。雰囲気は走っていた当時のままで、R36を 札幌方向に進むと左手にある。ホームもありますが、現在では定鉄不動産が 使用しており内部の状態は不明。国道を挟んだ駅舎の反対側の東札幌方向を 見ると、何となく軌道分が空いたような街並みになっているが、この敷地を 利用した大型マンション建設などが進んでいる。 <東札幌駅>:廃止される頃は国鉄千歳線の駅も兼ねた貨物ターミナルとなっ ており、R12の「白石跨線橋」から跡地を見ることができるが、大型マンシ ョン建設などが進んでおり、面影が失われつつある。 <苗穂駅、白石駅>:廃止当時は東札幌−定山渓、旅客は殆どが豊平−定山渓 だったのですが、開通当初は白石−東札幌−定山渓でした。北海道鉄道千歳 線(JR千歳線の旧ルート)が東札幌駅を通って苗穂に接続したり、国鉄が電化 する前に電化したりで、苗穂−東札幌−定山渓とルートが変わり、札幌駅へ 乗り入れたり、使わなくなった白石−東札幌は戦争中にレールを供出したり、 と路線変更がめまぐるしく、複雑です。どちらの駅にも跡は残っていません。 ★★ 美流渡・北星炭砿線 (調査:2000.5 by A.S, 2002.3 by H.O) ★★ 岩見沢と夕張を結ぶ道々38号沿いに美流渡(みると)という集落があります。 ここの美流渡交通センター(注:中央バスのターミナル)は国鉄万字線の美流渡 駅があったところです(5.1万字線 参照)。 この美流渡駅から南に位置する上美流渡の北星炭礦まで、約2.8kmの専用鉄 道が延びていました。上美流渡に向かって常に道路の左側です。現在でも路盤 が美流渡小学校の南から炭礦跡近くまで続いているようです。 # 北星礦は谷間ごと埋め立てられてしまったようですが。 大抵の場合、機関車は列車の先頭に立つものです。しかしこの路線は特殊で した。炭山から美流渡市街に向かう列車はSLが後ろ向きに引っ張っていたので すが、美流渡市街から炭山に向かう列車は(そのまま)SLが客車を押し上げてい ました。詳しい事情は判りませんが、機関車・客車ともに超旧型(笑)だっただ けに、万一ブレーキ故障で暴走した場合に機関車が客車を押し潰す…という惨 事を避けるためだった可能性もあります。 # ちなみに、急坂におけるSLは「上りは前向き・下りは後向き」が望まし #い…とされています。 なお、この道路沿いは栗沢町が芸術家を「誘致」(笑)したのか、○○窯、☆ ☆工房などと掲げた家がたくさんあります。 ★★ 三井砿山奈井江専用鉄道 (調査:1998.5 by A.S) ★★ 1949〜1968年に運行された専用線で、空知郡奈井江町の函館本線・奈井江 駅の北の起点から少し北に進んでから東に向きを転じて、現在の「ないえ温 泉」の南に達していた約10kmの路線です。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 砂川 −− 45-4-?? 未確認 <奈井江駅>:奈井江駅の北にあたる基線南14号の交差点から函館本線を越えた あたり。跡形もないです。 <奈井江−向ヶ丘>: 跡形もないです。 <向ヶ丘駅>:近くに炭住の廃虚や元・公園 :-)は残っていますが、駅跡には 何もありません。 <向ヶ丘〜白山>:この区間になると傾斜地であるために斜面の切り取りが続 いているため、下草が枯れている季節ならば判るかもしれません。この区間 で唯一?の鉄橋は(この路線の遺跡としては)判りやすい…かもしれません。 <白山駅>:この駅の西側に市街があった筈なのですが、駅も含めて尽く撤去 されたようで、既に「廃虚」という言葉さえ当てはまらないレベルになって います。 <白山〜東奈井江>:白山の市街を出てから「ないえ温泉」近くまでの区間は、 奈井江川に隔てられて近づけないのですが、ほぼ向ヶ丘〜白山と同じ状態 であると推定されます。あと「ないえ温泉」付近(注:東西どちら側か自信 がない)に、この路線で最大の鉄橋があります。 <東奈井江>:ここも既に広大な空地と化していて、見渡す限り廃虚さえ見当 たりません。 <ちなみに>:なお「ないえ温泉」から奥に人家はなく、バスも走っていませ ん。また、道路自体が東奈井江で行き止まりなので通行する車も殆どなく、 ヒッチハイクも期待できないと思います。 ★★ 赤平炭坑(跡) (調査1998.5 by A.S) ★★ 炭坑と赤平駅の間にはかつて鉄道が敷かれていました。 <概要>:JR根室本線を挟んで、赤平市街の反対側の赤平スキー場寄りにあり ます。沿革については判りません(_ _;)が、閉山から(比較的)時間が経っ ていないためあまり「廃虚」という感じはなく、その生々しさが逆に不気 味だったりします。1998年のGWの段階では記念館の類はありませんでした。 <行き方>:赤平の駅前から南東〜駅を背に右〜に曲がり、最初の車道の踏切 を渡ってさらに南〜左〜に進んだ一帯が炭坑跡です。この遺跡で最も目立つ 竪坑(の上に立つビル)まで、駅から1km強…だと思いました。 <ちなみに>:赤平の市街を抜けると人家はなく、また、駅近くの商店も休業 中の所が多いようなので、食料等は事前に用意しておいた方が無難です。 ★★ 三井芦別鉄道 (調査:1998.10 by A.S, 2002.11.3 by N.S) ★★ 空知川の支流である芦別川の上流にある芦別炭田の石炭の搬出のために 建設された9.9kmの路線で、1949〜1989年に運行されました。とにかくや たらと駅/停留所が多いのが特徴です。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 赤平 −− 39-15-?? 未調査 上芦別 昭36 39-16-4 <芦別>:国鉄・根室本線との接続駅ですが、未調査です。 <芦別〜高校通り〜山の手町>:文献によれば、芦別駅を出てから空知川の本流 と芦別川の合流点までは根室本線に沿って南下し、短いトンネルを経て芦別 川沿いのR452の西側に出ていたようです。この区間も未調査です。トンネル ぐらいは残っていそうなのですが…。 <山の手町>:R452から西に入った西芦別中学校の北西の隅に接していた筈で すが、未調査です。 <山の手町〜三井芦別>:R452の西側の狭い車道に沿って約600m南下していた 筈です。ここも未調査です。 <三井芦別>:R452からだと、西芦別の交番と郵便局の間を西に進んだあたり です。ホームのあとらしきものがありました。駅舎らしい建物が民間会社の 事務所に利用されており、見た感じでは半分ぐらい建て増ししたっぽいです。 (2002.11.3) <三井芦別〜入山>:西芦別市街の西側を引続きR452沿いに約1km南下してい ました。ここも未調査です。 <入山>:西芦別市街の中を南南西に進んできたR452は、市街の南でいったん 南西に向きを転じ、続いて南南東に向きを転じて芦別川の支流の炭山川を越 えていますが、この橋のすぐ北側が駅跡です。記憶がはっきりしないのです が、おそらく整地されてしまって跡形もなかった…筈です。 <入山〜中の丘>:R452の炭山川の橋の東に鉄道橋が遺されており、その上に ディーゼル機関車と貨車が保存されています # 「取り残されている」という感もありますが。 看板と、立ち入れないようフェンスが整備されていました。(2002.11.3) この橋を南に越えると、線路跡は密林に没します。 <中の丘>:R452から東に車の入れない狭い道があった(筈な)ので、その奥だ と思います。未調査です。 <中の丘〜幸町>:なおも線路跡は密林の中ですが、R452が芦別川の本流を越 える緑泉大橋の東側に、鉄道橋の橋台だけが遺されています。 緑泉大橋の南でR452は変則T字路に突き当たって南南西に向きを転じます が、このT字路のすぐ西に切通しをまたぐ幸橋というのがあります。この下 の密林 :-)が線路跡です。 <幸町>:実は現地調査の際には、この駅の存在を忘れていました。上記の幸 橋のすぐ南にあたりますが、全く記憶にない…ということは、おそらく跡形 もないと思います。 <幸町〜緑泉>:R452の西側を車道に沿った切通し(というか、細長い窪地)と して残っていた筈です。この区間は約700mです。 <緑泉>:R452をはさんで、現在の頼城中学校の向かい側あたりの筈です。跡 形もなかった…筈です。 <緑泉〜西町アパート前>:引続きR452の西側を辿っていた筈ですが、記憶に ありません(^^;。この区間は約600mです。 <西町アパート前>:どうしても「西町アパート」という固有名詞が思い出せ ないんですが、国土地理院S36.発行の1:50000「上芦別」図にある大きな建 物がH1.発行の同図には載っていない(みたい)なので、これだったのかもし れません。現地は未調査です。 #現地で筆者は、R452を隔てて反対側にある(筈の)芦別森林鉄道の遺構を #探していたので…(^^;。 <西町アパート前〜芦の湯前>:線路はR452から離れて頼城市街の西側を迂回 しているため、調査していません。この区間は約600mです。 <芦の湯前>:なんだかバス停みたいな名前ですが、実際には頼城市街の最寄 り駅です。「鉄道廃線跡を歩くII」の「全国廃線私鉄の『停車場』一覧」 でも、この名前には疑問が呈されています。現地はR452沿いの頼城郵便局 のところを西に入った場所ですが、調査していません。 <芦の湯前〜頼城>:線路は南に進路を変えて約400m進んで「公式の終点」 である頼城駅に達していました。ここも調査していません。 <頼城>:当時の頼城市街の南端にあたり、当時は数多くの引込線や貯炭施設 があった筈の場所です。今は単なる空地です。 <頼城〜玉川町>:「鉄道廃線跡を歩くII」の「全国廃線私鉄の『停車場』一 覧」によれば、この区間は法的には頼城駅の構内だった…とされています。 実際には引続きR452の西側を辿っていました。玉川町まで約800m。 #が、この区間でも筆者はR452の反対側にある(筈の)芦別森林鉄道の遺構 #を探していたので、何も覚えてなかったりします(^^;。 <玉川町>:ここも更地になっていました。 ★★ 美唄鉄道 (調査:1996.GW, 2002.3 by H.O その他大勢) ★★ 途中にOさん、Sさんが登場しますが、お二人はかつて沿線にお住まい だった方で、この記事を読まれてお便り下さいました。 1.どこを走っていた線路か 美唄 −東明 −盤ノ沢 −我路−美唄炭山 −常盤台 びばい とうめい ばんのさわ がろ びばいたんざん ときわだい (10.6km) R12沿いの美唄駅からほぼ真東の方向に道々美唄富良野線が走っています。 この道は道央自動車道の美唄インターを経て東進し、10kmほど先で北に曲が っています。これに対して線路は下図(++印)のように美唄炭山までは道路の 北側を、美唄炭山から先は東側を走っていました。現在は美鉄バスが走って います。現在の地図でも美唄以下、集落名としてほとんどが残っています。 常盤台 + +++++++++++++++++++++++++++|++++ 美唄−東明−盤ノ沢−我路−美唄炭山 2.歴史 1913(T 2).10.14 石狩石炭株式会社、美唄−沼貝(注:後の美唄炭山) 8.3km の免許を取得。 1914(T 3).11. 5 同区間の運輸開始。美唄・我路・沼貝の各駅を開業。 1915(T 4). 9.27 短期間の個人所有を経て三菱工業の所有となり、美唄鉄道 株式会社となる。 1924(T13)11. 7 美唄炭山−常盤台 2.3kmの免許を取得。 12.15 同区間の運輸開始。常盤台駅を開業。 # これは、同区間が三菱工業の専用線だったものを買収したもの。 1925(T14).12.15 盤の沢駅開業。 1971(S46). 7. 1 三菱大夕張炭砿に合併、三菱大夕張炭砿美唄鉄道となる。 1972(S47). 5.20 廃止許可 6. 1 廃止 # 東美唄信号所と東明駅の開業日は未解明 1957(S32)年当時、この鉄道には4110型7両(注:2〜4号機の3両は自社発 注。他の4両は国鉄からの払い下げ)、9600型2両の合わせて9両のSLが在籍し ていました。廃止前年には貨物列車が1日に4往復、旅客は朝の上りが1本と 夕方の下りが1本(要するに通学用)の混合列車が運行されていました。 3.4110型蒸気機関車 動輪が5軸あり、東明駅に保存されています。同類は日本では4110(4100) と後継機のE10、旧陸軍の鉄道連隊の軽便機関車ぐらいしかありません。 4110型は奥羽本線の福島−米沢の板谷峠のために作られた勾配用の機関車 で、ドイツから輸入した4100を参考にして作られたものです。国鉄は川崎製、 美唄鉄道は三菱製です。国鉄機は九州の肥薩線でも使われました。 この様にちょっと特殊な機関車なのですが、なぜか美唄鉄道では同型機を 自社発注し、戦後さらに国鉄から4110型の払下げを受けて使っていました。 最高速度こそ低いものの強力な機関車なだけに、現場から好評だったのでしょ うか。ちなみに東明駅跡に保存されている美唄2号機が、三菱の製造した最初 の機関車ということです。 (国鉄の)4110は乗務員に対する煙害を軽減するために、バック運転(注:機 関車が普通とは逆向きで、運転室がある方が前・煙突が後ろになって牽引) を基本としていたという記述が鉄道関連の本には見られます。しかし写真な どを見ると、美唄鉄道では、普通の蒸気機関車と同じように煙突を前にして 使われていたようです。東明駅跡の美唄2号機を見た限りでも、加減弁や逆転 器の構造は通常のSLと同様であり、少なくとも晩年は「前向き」に走るよう になっていた筈です。 さらに、美唄観光物産協会発行の観光ガイドブックによると 「この SL は大正 8 年に美唄鉄道が三菱造船に特注して作ったもので、4110 形式十輪連結タンク機関車 2 号といい、原型はドイツから輸入した 4100形 をモデルとしている。急勾配と曲線に強く、全部の動輪の上にタンクと機関車 の全重量がかかるため、スリップが少なく、雪にも強く設計されている。」 とのことです。 Oさんのお便り:「4110が後ろ向きになって走っていたという記憶はありま せん。ただ、閉山間際には、重連の時、次位補機が後ろ向きになって走っ ていたのを見たような気がします。」 4.調査結果 <美唄駅>:美唄鉄道の駅があったと思われるJR美唄駅の東側は、美鉄バスの 車庫になっています。(2002.10) Oさんのお便り:「美唄鉄道美唄駅は国鉄美唄駅3番線をつかっていました。 函館本線上りの2番線と島式ホームの両側を使っていました。ここ十年ほ ど行っていないのでどうなっているかわかりませんが、今も当時のまま残 っているのではないでしょうか。このホームの光珠内よりは特に切り欠き など無いのに4番線となっていて、そこには南美唄行き(編者注:函館本線 の支線)の気動車が発着していたように記憶しています。ホームの東側は 何本かの線路をはさんで美鉄の機関区がありました。」 <東明駅>:駅の設置期間は不明ですが、上記の地図通りに走ると難なく見つ けることができました。青地に白文字の道路表示板調の看板がでており、 「美唄市指定文化財4110型機関車」の表示が出ていました。道に面して旧ロ ータリー、奥10mほどのところに駅舎、その裏手にSLが保存されていました。 駅舎はコンクリ製、入り口上の「東明駅」の駅名標も残っています。物置 になっているようです。SLには説明看板が立っていましたが、バック運転に 関する記述は説明看板にも書いてありませんでした。かつての路盤は舗装さ れて自転車道になっていました。行ったときはシーズンオフで閉まっていた のですが、ここで無料で自転車を借りることができるようです。(2002.3) <東明駅周辺>:廃校になった旧・栄小学校は1階が保育園、2階が美唄出身 でイタリアを中心に活躍する国際的彫刻家 安田侃(ヤスタ゛ カン)氏の作品 を展示する芸術文化交流施設になっています。「アルテピッツア美唄」とい う名称で道道に案内板が出ています。古い木造校舎と抽象彫刻が奇妙なバラ ンスを保っています。体育館は文化ホールになっており、訪問翌日にはJリ ーグの岡田・前コンサドーレ監督の講演会が行われる予定になっていました。 (2002.3) <東明〜我路>:自転車道として整備されています。駅跡はありません。 <我路>:自転車道は「我路国設スキー場」前の「我路ファミリー公園」で終わ っています。公園は芝生や木を植えて、ブランコなどの遊び道具があり、オ ートキャンプなどもできそうです。道道の拡幅工事で昔の町並みはすっかり 消えつつあります。(2002.3) <我路〜常盤台>:駅跡はありません。我路から奥は自転車道として整備はされ ていませんが、途切れ途切れに路盤が残っていました。 町並みは我路までは普通の田舎だったのですが、奥へ進むほど廃屋が増え てきました。崩れ落ちた廃屋の間にまだ住んでいる家もあった(1996.GW) のですが、2002.3には廃屋の数も一層少なくなっていました。 <常盤台>:地図にこそ集落として残っていますが、無人に等しい所です。無 人の谷間に現れたのは巨大な立坑巻上櫓2基でした。「そうか、炭鉱がここ にあったんだ。」と改めて気がつきました。赤い錆止めがきれいに塗ってあ り、芝生と木が植えられ、「炭鉱メモリアル森林公園」として整備されてい ました。開閉所というコンクリートの建物も1つ残っていました。内部はが らんどうで綺麗に掃除され、何も置いてありません。立坑のエレベータなど をコントロールしていた建物とのことです。 ここは近代史の遺跡になっていました。古代文明の遺跡にも似て、 「かつてここには人がいた」 と物語っていました。(1996.GW、開閉所内部以外は2002.3も存在を確認) <我路・三菱美唄記念館>:入場無料。あっ、と驚いたのが盛時の美唄炭山の 谷の地形模型と、壁いっぱいの写真。谷底が炭鉱で、さっき見た立坑巻上櫓 と開閉所の他、たくさんの建物。鉄道は中心部まで引かれています。そして、 谷の斜面にも、谷を登りきった尾根筋にも住宅がびっしり立ち並んでいまし た。当時は常盤台の他にも旭台、○○台と、たくさんの集落がありました。 今は殆どが林に還っています。さらに我路から美唄寄りにも火力発電所や浄 水場など、炭鉱関係の建物がありました。これらもいくつかが廃墟になって 残っています。 写真には、仕事が終わったすすだらけの笑顔があふれています。活気に満 ちた街の様子や、運動会、スキーなどの写真もあります。 スキー場は、道路に面して我路公園と反対側に今もあります。リフトはわ ずかに1基、しかし「我路国設スキー場」です。石炭産業が日本の基幹産業 であった時代に、働く人と家族の福利厚生のために作られたものなのでしょ う(注:この予想には少し間違いがありました。Oさん、Sさんのお便りをご 覧下さい)。 他には炭礦で使われていた道具、作業着などの展示があります。「出身の 方、ご記入下さい」と書かれたノートには、いつまでどこに住んでいたか、 などの欄の他に「思い出欄」がありました。「とくに無し」と書いてある人 もいれば、びっしりと思い出を書き込んでいる人もいました。 「かつてここにはたくさんの人が住んでいた。」 のです。谷全体が、ひとつの時代が存在し、そして終わったことを物語る遺 跡でした。(1996.GW) Oさんのお便り:「我路のスキー場は閉山後にできたもので、私の住んでい た家も今はスキー場の中になっています。炭坑従業員用のスキー場は今の スキー場の一部でしたが、もっとずっと狭いものでした。今のリフトを見 たとき、あんな高いところまでリフトで行けるのかと驚きました。 蛇足ですが、今の我路の公園のあたりはグランドになっていました。も っと前は資材置き場かなんかだったらしく、炭山駅側から引き込み線があ りました。また、今の記念館のあたりまで、引き上げ線の築堤がありまし た。同じような築堤は常盤台にもあり、美鉄が駅の直前まで上り坂の連続 だったことをものがったっていました。」 Sさんのお便り:「美唄炭山の話があまりにも懐かしかったものでお便りし ました。廃虚と化した街の悲哀を感じていただけたようで、とても嬉しか ったです(嬉しかったというのも変か…)。 スキー場ですが、閉山以前は、「我路国設スキー場」の山にも長屋が建 ち並んでいました。私が7歳まで住んでいましたから確かです(笑)。引っ 越してから何年かたって自分が住んでいた場所を見に行った時に、スキー 場になっていた時はびっくりしたというか何というか。自分が通っていた 小学校が半分潰されていたのも寂しかったなぁ…。そうそう、この小学校 がとっても変わった建物でして、鉄筋コンクリート3階だてなんですが、 正6角形の棟を二つつないだものだったんです。教室は台形をしていまし た。あのスキー場の常盤台側の沢をちょっと入った辺りにありました。」 ★★ 夕張鉄道 ★★ 1.沿革 夕張鉄道は室蘭本線と直交するように、野幌−栗山−夕張を走っていま した。石炭運搬を目的に1925(大正15)年に栗山−鹿の谷、1930(昭和5)年に 全通しましたが、1975(昭和50)年に廃止になりました。 2.調査報告 <野幌駅>:野幌駅南口が建っている場所が夕張鉄道専用の3番ホームでした。 現在の2番ホームと同じ島ですから、栗山方面から夕鉄で来て札幌方面へ乗 り継ぐのは簡単でした。この鉄道が残っていれば、野幌−栗山間は札幌のベ ッドタウンとしてもっと発展していただろう、とのこと。復活計画とまでは いきませんが、何とかならないかな、みたいな話はあるようです。 南幌町は鉄道がないため、札幌から帰るのが遅れた人を救済するために、 北広島駅からの乗合タクシーを町が補助金出して運行しています。(1997.5) <野幌−栗山>:野幌−栗山間の旧線路跡地の一部は整備されて、車が走行で きる舗装道路になっています。かなり快適な走行が可能です。小学校6年の 時、廃止された直後の夕鉄の線路に沿って野幌から栗山まで自転車で走った のが思い出されます。廃止された鉄道の跡というには、なにか物悲しい、し かし惹き付けるものがあります。 (1997.5 by T.K) <栗山駅近郊の鉄橋跡>:栗山駅からほぼ真西、夕張川に鉄橋の橋脚が残って います。そばに枕木が少々散見されました。鉄橋の両側には、畑のド真ん中 に道床が少し残っています。橋を川面から高くするために勾配をとってあり、 土手状(万里の長城!)になっています。でもほとんどが壊されて整地されて 畑になっていました。 (1996.9) <栗山駅の高架跡>:夕張鉄道は栗山駅に入る際、室蘭本線を直角にまたいで いました。この高架の橋脚跡が、栗山駅すぐ南の室蘭本線の両側に残って います。それに続く道床も少々残っています。 (1996.9) <栗山公園>:JR室蘭本線・栗山駅から北東に約800m進んだR234の東側にあ り、夕張鉄道の蒸気機関車"21"が保存/展示されています。屋根はありま すが、錆はそれほどでもないものの、塗装にひっかいた落書きがありまし た。(2003.1) 園内に小さな動物園があるので、おそらく地元の子供向けの施設と思わ れます。料金/開館時間等は失念。「オオムラサキ繁殖施設」というのも隣 接しています。決して平坦ではない公園なのですが、トイレは車イス対応 になっています。駐車場の1つに面して長沼のアイスクリームの店があり ます。 <行き方>:車/バイクで行く場合、現地はR234の栗山市街の北にあたり、 R234に標識が出てます。数台分の駐車場はありますが、桜の季節は地元の 車で埋まっているかもしれません。公共交通機関で行く場合、R234を路線 バスが通っていたとは思いますが、栗山駅からのバス便は不明。(1998.5) <角田袴線橋>:R234が旧・夕張鉄道を越える場所です。R234に名称が残って います。由仁との町境に近い栗山工業団地の「木の城たいせつ」の工場の南 にあります。線路の痕は農道となって残っていますが、どこまで続いている か判りません。 <行き方>:車/バイクの場合、栗山〜由仁で唯一?の急坂なので判ると思い ます。R234は交通量が多いので路上駐車は注意しましょう。もしバスで行 くとすれば、「木の城たいせつ」バス停の南です。 ★★ 北海道炭砿汽船真谷地専用鉄道 (調査:1998.10 by A.S) ★★ 夕張川の支流のマヤチ川の谷に拓かれた北炭・真谷地砿の石炭の搬出のた めに建設され、1913〜1987年に運行された約4.4kmの専用線です。 このため一般の私鉄〜法的には「地方鉄道」〜に関する公式資料には載っ ていないことが多いんですが、SL時代の末期に珍品がいたこともあって専門 家(笑)の間では著名だったりします。 <国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 紅葉山 昭36 40-15-5 <沼ノ沢>:国鉄・夕張線(注:当時)との接続駅です。今では跡形もありません。 <沼ノ沢〜六区>:沼ノ沢から北東に出た線路は大きく右に曲がり、沼ノ沢駅の 真北にあたる塔のすぐ南あたりから先は東に進んでいます。 沼ノ沢から塔の南西までの区間は基本的に線路跡を拡張して現行の車道が 建設されたために跡形もありませんが、塔の南側は現行図でも東西方向に延 びる細長い窪地として描かれており、現地も切通しになっています。ただし この「切通し」は道路*ではなく*私有地である可能性が高いので、みだりに 入ってはいけません。 線路はそのまま東に進み、鉄塔から約1km東の六区の住宅街(注:かつての 炭住)の東で、真谷地へと通じる車道の北側に出ています。 この区間も道路ではないのでみだりに入ってはいけないのは当然ですが、 それ以前の問題として線路跡は既に密林(笑)と化しています。六区の住宅街 のある丘に登り、丘の北側に残る切通しを観察するだけにしてください。 <六区>:法的には「駅」ではなかったせいか、簡単なホームと待合室だけが 設置されていたようです。今では跡形もありません。 <六区〜五区>:この区間の線路は、約1kmにわたって現行の車道の北側を辿っ ていました。ただし、この区間は道路に沿って断続的に人家が並んでいます。 いかに寂れている(失礼(_ _;))とはいえ、中には今でも人が住んでいる家も ありますから、線路跡を歩く時には「泥棒の下見」等の疑いをかけられない ように注意しましょう。 <五区>:この停留所はホームが(半ば埋まった状態で)残っています。 <五区〜真谷地>:五区から東では、現行の車道からは市街地(笑)に遮られて 線路(跡)に近づくことはできません。そこを過ぎると現行の車道を南に越え て、真谷地のヤードになります。 <真谷地>:かつての駅の構内は、今では1字違いの「木炭」の生産工場となっ ています(注:石炭だって太古は木だった…とされている訳ですが(^^;)。 鉄道時代の機関庫には「木炭加工場」の表示がなされ、レールも全て失わ れてしまいました。それでも多くの炭礦跡のように原野→密林という途を辿 っていないだけでも、まだマシかもしれません。なお、石炭積込み用のホッ パも現存しています。また、構内に入らずに傍らの車道を少し進むと、真谷 地駅(跡)の全景を見下ろせる場所があります。 ★★ 三菱大夕張炭砿鉄道 (調査:1998.10, 一部2000.5 by A.S) ★★ 夕張川上流にある大夕張炭山からの石炭の搬出のため、1939〜1987年に運 行された路線です。路面電車を除けば「北海道最後の私鉄」でした。 # 「JR北海道も私鉄だ」という意見は却下します :-)。 <調査に用いた国土地理院の地図> 図名 発行 リスト番号 備考 石狩鹿島 昭37 40-14-5 紅葉山 昭36 40-15-5 <清水沢駅>:国鉄・夕張線(注:当時)との接続駅です。 <清水沢〜新清水沢>:清水沢からしばらくは、JRの線路の東側に空地となっ て残っています。線路は一旦南に向かった後、現在のR452を越えていました。 <新清水沢駅>:清水沢駅から400mしか離れていないんですが、ここは「開業 当初の起点」である由緒ある :-)駅です。 #おそらく、当初は「ここ」から国鉄清水沢までは貨物専用の側線だった #と推定されます。 <新清水沢〜遠幌>:線路は北東に向きを転じて、現在の清水沢ダムのあたり から東では車道に隣接していました。新清水沢を出てからしばらくは野球場 を含む「清水沢いこいの広場」の南側で整備中の並木道であり、その東では 車道の南の原野の中に路盤が残っていました。 (2000.5) <遠幌駅>:駅は、現在の夕張市住之江町と遠幌町を隔てる遠幌加別川の渡河 地点の*住之江町側*にありました。昔は両岸とも「遠幌町」だったようです。 未調査です。 <遠幌〜南大夕張>:遠幌加別川には、R452の北側に橋脚だけが遺されていま す。この区間の約3.5kmにわたって線路はR452と並行していたのですが、な んせ狭い谷の道路沿いに断続的に人家が並んでいるので、徐々に痕跡は失わ れつつあります。それでも探せば判る程度に路盤は残っています。(2000.5) <南大夕張駅>:現在は「南部」市街の中です。既にレールは残っておらず、 機関区のあった東半分には工場が建っています。その一方で西半分には旅客 ホームが残り、数両の旧型車輌が放置されています。 (2000.5) # これらの車輌については保存会があり、活動しています。詳細は10章 #の(9)を参照。 <南大夕張〜農場前>:南大夕張から約1km先のトンネルまでは、線路跡はR452 の北側に続いています。このあたりは人家が少ないので、状態は(比較的)良 いです。 (2000.5) 鉄道は現在の大夕張ダムの北側をトンネルで抜けていました。このトンネ ルは数年前から閉鎖されていましたが、2001年度にも拡幅されてシューパロ ダム建設に伴う迂回路となるようです。 トンネルから後述の明石町まではサイクリングロードに転換されたのです が、シューパロダムの建設による水没が決定して以来サイクリングロードの 整備が打ち切られたようで、「サイクリングロード跡」と化しつつあります。 <農場前駅>:この駅は1946〜1957年だけ開設されました。ということはおそ らく、戦後の緊急入植の一貫として夕張川の河川敷を開拓するため(*)に設 置されたもののの、大夕張ダムの建設→開拓の中止という経緯があったこと が推定されます。 (*) 現地は斜面が谷に迫っており、本格的な開墾が可能な平地は谷底の河 川敷ぐらいしかない。 <農場前〜明石町>:この区間もサイクリングロードに転換されたようで。 # 実際には「サイクリングロード跡」と化しつつありますが。 <明石町駅>:駅跡はR452の西側で、夕張岳への登山道の入口である白銀橋の 約500m北に当たります。今では単なる空地になっています。 <明石町〜千年町>:明石町を出て最初の谷の渡河地点では、R452の西側に鉄 道のトラス橋が残っています。他の区間は「車道の横の細長い原野」のまま です。 <千年町駅>:駅跡はR452の西側ですが、目印となる建物の殆どが撤去されて しまったために説明が困難になってしまいました。 # 古い地図では「千年町」ではなく、「千歳町」となっています。 <千年町〜大夕張>:この区間も単なる「細長い空地」となっています。 <大夕張駅>:駅跡はR452の西側で、学校(跡)の東にあたります。目印となる 建物の殆どが撤去されてしまったために説明が困難になってしまいました。 <大夕張〜大夕張炭山>:この区間は鉄道時代の幅のまま車道に転換されてい ます。 <大夕張炭山駅>:駅跡はR452の西側です。国土地理院S37.発行の1:50000 「石狩鹿島」図で見る限り、駅は鹿島の炭住街から離れています。また、 この駅は主夕張森林鉄道との接続駅でもあることから、往時から貨物駅的 な性格が強かった可能性もあります。 前記の各駅と同様に「単なる空地」になっており、目立つ建物は往時の市 街の外れにあった変電所と、その近くの1棟ぐらいしかありません(2000.5)。 # この変電所も近い内に撤去されると思われます。 ★★ 旭川電気軌道(調査:2000.5.2 by H.O) ★★ 【沿革】:現在のJR旭川四条駅付近から道々旭川大雪山層雲峡線の道路脇(大 雪山に向かって左側)を走っていました。終点の東川駅は現在の旭川電気軌 道バス(通称「あさでん」)東川行きの終点です。 また、旭川追分(現在のダイエーのあるあたり)で路線は分岐し、南端道 路脇(北側)を旭山公園まで走っていました。 【歴史】: 東川駅跡に記念碑が立っています。碑文の原文を生かしてまとめます。 1895(M28) 東川町開基 1927(S 2) 1. 8 旭川電氣軌道株式会社が軌條敷設し、電車の定期運行を 開始。 1949(S24) 3.27 追分驛の同社車庫より出火、電車一輌を残し、悉く烏有 に帰す。 (この碑文で私は初めて学んだのですが「烏有に帰す(うゆうに きす)」とは、「火災で焼失する」という意味です。碑文全体が 格調高い文章で書かれており、勉強になります:p) 再建に当たって存廃の両論誠に激しいものがあったが、時の常務豊島卯三郎 氏の英断と地域住民の絶大なる理解と協力により、電車運行で再スタート。 約半世紀、幾多の困難を克服し、地域開発進展に輝かしい業績とその使命を 果たした。 1972(S47)12.31 チンチン電車の愛称も惜しまれつつ、時代の変遷の中で 撤去となった。 1972年というと日本は高度経済成長の真っただ中。車の走行の妨げになる、 という理由で全国各地で次々に路面電車が消えていった時代です。碑文の通 り、時代の変遷に呑まれて消えたということなのでしょうね。 【遺跡】: <東川駅>:上記の通り現在のバスの終点です。碑文とホームが1つ残ってま す。チンチン電車ということですが、ちゃんとした高さのホームです。ホー ムの両側に倉庫が建ち並び、線路に面した出入り口も残っていることから、 電車を農産物(注:東川は北海道随一の米どころ)の出荷にも使ったのでは、 と思うのですが、チンチン電車で運べたのかなあ、と思ったり。 なお、ここからは天人峡行きの幌馬橇も発着した、と碑文にあります。 (編集者注:会社名に「軌道」の文字があるように、この路線は地方鉄道法に 基づく路線*ではなく*軌道法に基づく路線であり、一部区間では道路の上を 走っていた訳ですが、実際には「鉄道廃線跡を歩くIII」(P.29)にあるよう に、電車が国鉄線から乗り入れてきた貨車を牽いていました。平坦線なので 当時の電車でも2軸貨車2両〜積載量で30トン程度〜ぐらいは牽引できた筈で す。) <東川町郷土館>:車両(モハ101)が保存されているそうです。東川町役場の 裏隣りです。そんなに大きくない町なのですぐわかります。しかし、開館日 は毎週木曜と夏休み(確か7/20-8/20ぐらい)のみ。開館日以外の希望者は町 役場のなんとか課(失念)へ問い合わせるように、と郷土館の掲示板にありま した。子供の社会科勉強用なんでしょうか。よっぽど隣の町役場へ行ってカ ギを開けてもらおうかと思ったのですが、やめました。今後の課題。 <その他>:道々沿いに走っていたはずなので、上四号線ぐらいまで車で丹念 に走ってみたのですが、四半世紀以上経っていては、それより古い建物と新 しい建物の区別もつきませんし、アスファルトの継ぎ目も当時のものかどう かわからず、わからずじまいでした。 ★★ 十勝鉄道(調査:2000.1.1, 2001.1.2 by H.O)★★ 【路線】: JR帯広駅から南へ十勝平野を走っていました。札内川の右岸(東側)が国 鉄広尾線、左岸(西側)が十勝鉄道でした。線路および駅は時代によっていろ いろな支線があり、十勝平野南部を縦横に走っていたようです。 【歴史】:(とてっぽ通りの説明看板と北海道編纂の「新北海道史」より) 十勝鉄道は砂糖の原料となる甜菜の輸送を目的として企業が敷設した貨物 専用鉄道が前身です。旧川西村を中心とした山麓地帯で働く人々の足として 十勝開拓史上大きな役割を果たし、「トテッポ」と呼ばれ多くの人々から親 しまれていました。 1919(T 8) 北海道製糖(現在の日本甜菜製糖(株))、大正村に設立 1920(T 9) 専用鉄道が敷設される。 1923(T12)4 北海道製糖、専用鉄道および付属物件を譲渡し、十勝鉄道 (株)が設立される。資本金150万円。旅客輸送開始。 1924(T13)2 専用鉄道が地方鉄道に変更され、以下の路線で営業開始。 帯広村−大正村売買−大正村上売買−芽室村上美生 大正村上伏合別−大正村上帯広 1925(T14) 帯広−南太平、藤−上美生、常盤−八千代 全通 1929(S 4) 新帯広−帯広大通、南太平−戸蔦 全通 1959(S34) 営業停止。時代とともに自動車輸送が中心となったため。 1979(S57) 「とてっぽ通り」(3.参照)整備開始。 1986(H 3) 「とてっぽ通り」整備終了。全長1870m、幅18m。 1.にも8.1章のデータ編にも載ってない駅があります。時代と共に駅 の名前や場所が変更されたのだろうと思います。 3.調査結果 (1)帯広駅周辺 JR帯広駅は現在高架になっていますが、北側が古くからの商業地区で賑や かなのに比べ、南側はだだっ広い空き地が広がっています。ここ一帯は貨物 の引込み線が何筋もあり、十勝鉄道は帯広駅から一番離れた線を使用してい ました。駅隣りのホテルノースランドや正面のイトーヨーカドーなどはこの 跡地を利用して建てられていますが、それ以外は駐車場などになっており、 そのうちの1つの看板には「十勝鉄道株式会社」のものがあります。 (2)大通り駅跡 大通りと根室本線が交差する下図の■にあったことになっているのですが、 跡形もありません。 北へ \ 帯広駅 ←++++++++++++++→ 釧路方面 ■ \ 南へ (3)公園通り沿い 帯広駅南口から正面に伸びているのが公園通りです。駅から500mぐらいの 西5条通り(角に交番あり)までは線路は左(東)側を走っていました。古い地 図では大きな製材所があったことになっており、今では家具屋、林業組合、 住宅展示場などの木材関連施設が建ち並んでいます。イエローハットも線路 跡に建てられています。大型商業施設とやや古い小さな建物の並びの境界が 昔の線路の境界と考えられます。まだ鉄条網に囲まれた空地になっている所 もあります。 (4)とてっぽ通り 交番(下図x)のあるX形交差点(注:公園通りと西5条通りの交点)を左折する と、図の位置から「とてっぽ通り」と名づけられた遊歩道(下図‖)が始まり ます。車道と直交しながら売買川まで1870m続いています。 帯広駅 |/ |x /| / | /--| / ‖| / ‖| (5)SL とてっぽ通りを400mほど行って西南大通りとの交点(注:西7南20)近くにあ ります。JRよりも狭いレール幅(注:JRが1067mmであるのに対して762mm)で、 かわいいSLと箱みたいな18人乗りの客車が展示されており、写真つき説明板 がありました。展示車輛は 1920(大09) 蒸気機関車〜日本車輛会社製作 1925(大14) 客車〜楠木製作所製作 1960(昭35) 両車輛、十勝鉄道(株)より帯広市に寄附 というものだそうです。 (6)とてっぽ通りから先 とてっぽ通りは売買川に直角に突き当たっておしまいになっています。川 の向こうにも線路跡が縦長の駐車場になって少々続いていました。そのすぐ 先は地図によれば鉄道敷設の発端となった製糖工場になっています。 ★★ 北海道拓殖鉄道 (調査:2000.5 by H.O) ★★ 1.どこを走っていたか 根室本線新得駅から出発し、すぐ南の南新得を通り、十勝平野を横切って 南北に蛇行しながら東進し、屈足、鹿追、瓜幕などを通って上士幌で旧士幌 線につながっていました。 2.南新得駅跡 南新得市街の南のはずれの根室本線沿いに「拓鉄公園」があります。森と 池がある自然公園です。駐車場あり。多分、昔の駅構内を公園にしたのだと 思いますが、「拓鉄」とは何ぞや、みたいな看板もないし、全然いわれがわ からないのが残念です。この公園のさらに南のはずれに拓殖バスの南新得車 庫兼バスの終点があります。と言っても、バスが5台ほど青空駐車するスペ ースと、古くて小さな営業所兼休憩所が1棟あるのみです。長年の勘によれ ば、道路からの引っ込み具合やたたずまいからして、ここが南新得駅の駅舎 があったところと推測されます。 3.南新得跨線橋 R38を帯広から新得へ向かって走ると、新得に入る前にY字路があり、 南新得の表示があります。このY字路の手前に「南新得跨線橋」が残ってい ます。下を拓鉄が通っていました。 4.その他 最新の国土地理院地図を見ても、ところどころに軌道の土盛りが残ってい ることになっており、山の中にはトンネルも残っているようです。しかし、 鉄道は現在の碁盤目の道路に対して斜めに走っていた所が多く、敷地が払い 下げられるとすぐにならして農地にされた所が多いと聞いています。車で南 新得から屈足まで走ってみたのですが、線路をたどろうにも碁盤目の道路を ジグザグに進まねばならず、また、国道は勿論のこと、すべての農道が裏道 ですから、車がすごいスピードで走っており、土盛りは発見できずじまいで した。調査には自転車かバイクの方が機動力があって良いと思いました。 ★★ 雄別炭坑鉄道 (調査:1998.5 by A.S 補足:2000.2 by I@A) ★★ 阿寒川の支流である舌辛川の上流に雄別炭田の石炭の搬出のために建設さ れた44.1kmの路線で、1923〜1970年に運行されました。 現在、釧路市街から阿寒郡阿寒市街まで「釧路・阿寒自転車道」がありま すが、これが雄別鉄道の跡です。 蛇足ですが、阿寒町への郵便物は当時は汽車で釧路からやってきていたそ うです。 <資料館・雄鶴>:道の駅阿寒丹頂の里の向かい側にある温泉宿泊施設赤いベ レーの奥に雄別炭鉱と鉄道の資料館「雄鶴」があります。入場無料。鉄道の 写真とかはそんなになく、また切符や制服などの展示はあるもののどこを走 っていたかとかの資料も少ないので、ちょっともの足りないかもしれません。 資料館の裏には国鉄から雄別鉄道に譲渡された蒸気機関車・客車・貨車(注: C1165+オハ6295+ヨ8057)や、坑内用の電気機関車・人車(注:作業員を運 ぶ)・炭車(注:石炭を運ぶ)等が静態保存されてます。10月下旬から5月上旬 は休館。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 釧路 −− 32-11-? 未確認 大楽毛 昭43 32-10-7 徹別 昭32 32-13-6 当時は「雄別」 <釧路>:国鉄・根室本線との接続駅です。未調査ですが、きっと跡形もあり ません。 <釧路〜新釧路〜中園>:現在の「釧路環状線」と呼ばれる道路に『雄鉄線通』 という別名があり、ここを通っていました。 <新釧路駅>:道新(2000.2.1釧路版夕刊)によりますと、釧路星のまきばYH になっているそうです。今のYHの食堂のあたりが待合所とのこと。駅の建 物が取り壊された後にYHが建てられているので、駅舎がYHというわけで はありません。敷地内には改札口とホームの間に設けられていた鉄製のフェ ンスが残っているとありました。 <中園>:釧路市中園町の労災病院の北側です。未調査です。 <中園〜鳥取>:引続き釧路環状線沿いそのものです。景雲中学校のすぐ北を 鉄道が走っていたそうです。今の鶴見橋が架かる前にはまだ鉄道の橋が人道 橋として残っていたそうですが、架橋時になくなったそうです。 未調査ですが、おそらく跡形もありません。 <鳥取>:釧路環状線で新釧路川を西に越えて約1.2kmの地点に相当します。 ここから新富士への支線が分岐していました。ここも未調査です。 <鳥取〜北斗>:この区間は全てサイクリングロードに転換されてしまいまし た。ここも未調査です。 <北斗>:道道・釧路鶴居弟子屈線と道道・徹別原野釧路線の交差点(注:通称 「北斗交差点」)から阿寒市街に向かって約1.5km進んだ地点から仁々志別川 を越えたあたりと推定されます。未調査です。 <北斗〜穏禰平>:この区間も引き続きサイクリングロードに転換されました。 未調査です。 <穏禰平>:釧路市営動物園の南にある、山花温泉「リフレ」の敷地の南端に 相当します。残念ながら跡形もありません。 <穏禰平〜湯波内>:この区間も引続きサイクリングロードに転換されました。 未調査です。 <湯波内>:釧路市・桜田地区と阿寒町・東舌辛地区が隣接する近くで、サイ クリングロードが13線と交差する付近に相当します。未調査です。 <湯波内〜阿寒>:この区間も引続きサイクリングロードに転換されました。 未調査です。 <阿寒>:現在のサイクリングロードの終点の先にある中央公園が跡地のよう です。R240のすぐ東側に相当します。未調査です。 駅跡からは少し離れますが、近くに上記の「雄鶴」があります。 <阿寒〜古潭>:この区間は国土地理院H7.発行の1:50000「阿寒」図で路盤 幅と(ほぼ)一致する「幅員3.0m〜5.5mの道路」として描かれているため、 往時の線路が拡張*されずに*車道に転換されたと判断されます。したがっ て、その後に拡幅されていなければ道幅は狭いと思いますので、車での進 入の際にはご注意ください。ちなみに未調査です。 <古潭>:現在の阿寒町・布伏内の郵便局の裏に相当します。跡形もありま せん。 <古潭〜新雄別〜真澄町>:古潭〜新雄別は約1.2km、新雄別〜真澄町は約700m と、この路線にしては例外的に駅間が短くなっています。ここで歴史 :-)に 注目するとそれぞれの駅の開設が 駅名 開設 古潭 1923 新雄別 1953 真澄町 1956 であるため、社会全体としては石炭から石油への転換が目立ち始めていた1950 年代が、雄別炭砿のピークであり、このあたりまで住宅街が広がって来たこ とを示すのでしょう。 なお、この区間も国土地理院H7.発行の1:50000「阿寒」図で路盤幅と(ほぼ) 一致する「幅員3.0m〜5.5mの道路」として描かれており、車道に転換された ものと判断されます。調査した限りでは跡形もありません。 <真澄町〜雄別炭山>:真澄町から約1kmの地点までは、ここまでと同様に車道 化されていて跡形もなく、そこから舌辛川の渡河地点に向かって踏跡が続い ていました。ただし時間がないので進入しておらず、渡河地点の状態は不明 です。 舌辛川の西岸の道道・雄別釧路線を北上すると、舌辛川の支流であるベル プトナイ川を越える車道橋の東側に鉄道橋が残っており、そこから約500m北 まで線路跡が車道と並行して続きます。この遺構の尽きるあたりが学校の跡 です。 こういう超ローカル路線の場合、大抵は(通学の便宜のために)学校の前に 駅/停留所があるのですが、雄別鉄道の場合「ここ」に駅/停留所が存在した という記録は得られていません。 <雄別炭山>:ベルプトナイ川の橋から約2km進んだ付近にある煙突の付近が 往時の雄別炭砿の中心地で、駅もこのあたりにありました。 ここを中心に南北に合わせて(ほぼ)1.5kmにわたってコンクリートの廃虚 や構造物の残骸が点在しており、その数は道路から見える範囲だけで50を越 えると思われます。しかし風化も進んでいるため、無闇に廃虚に立ち入った り、壁にケリを入れたり :-)するのは危険です。また、昔からこの廃墟には (幽霊が)『出る』という噂があり、夏の夜には『肝だめし』を目的に道東各 地から暴走族が集まる場所、なんだそうです。 * この雄別の廃虚群に達するルートとしては、ここで紹介した阿寒市街から 道道・雄別釧路線を辿るのが最も安全です。しかし、このルートも舗装こそ されているものの、(道東の一般道としては)例外的な狭さの山道が続くので、 運転に慣れていない方にはお薦めできません。 逆に上記の道道で飽き足らない方のためには、雄別炭山駅跡の少し上流か ら阿寒町内の中徹別に出る道道・徹別原野雄別線があります。ただし、こち らは「道道」とは言っても実態は未舗装の林道です。付近に人家は全くなく、 交通量も殆どゼロです。 さらに難しいコースとして、雄別からシュンクシタカラ湖へ出るルートが あります。ただし、こちらは完全に「悪路」としか言いようがない道なので、 道東スーパー林道や新得のパンケニコロベツ林道ぐらいは余裕で走破できる だけの技量がない限り、入らない方が身のためです。 ★★ 雄別炭砿尺別鉄道 (調査1998.5 by A.S)★★ 1918〜1970に運行された10.8kmの専用線で、白糠郡音別町の国鉄根室本線・ 尺別駅から尺別川に沿って尺別炭砿に達していた路線です。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 音別 昭45 35-3-5 駅/停留所の記載なし <尺別>:現・尺別駅の北側ですが、単なる空地となっています。 <尺別〜社尺別>:線路跡に達する道はありません。単なる原野の一角となって います。春先にJR尺別駅の跨線橋に昇ると、原野の南側に線路跡が見てとれ ます。 <社尺別>:駅跡はR38との交差点付近の筈ですが、踏切を含めて跡形もありま せん。 <社尺別〜八幡前>:R38の北側の約1.5kmは線路跡に達する道がないため、詳 細は不明です。八幡前よりの約2kmは線路跡が道道・尺別尺別停車場線の南 西側に細長い原野として残っています。 <八幡前>:北西に進んできた道道・尺別尺別停車場線が北に向きを転じる地 点で、車道の南西側に小さな神社があります。 <八幡前〜新尺別>:線路跡は引続き北西に向かって続いていますが、私有地 だと思われるので勝手に入ってはいけません。 八幡前から道道・尺別尺別停車場線を約1.3km進んだ地点で交差する農道 を南東に進むと、山裾のところで線路跡を横切ります。 <新尺別>:八幡前から道道・尺別尺別停車場線を約4km進んだ地点に相当し、 かつては相当な規模の市街があったようです。今では尺別川の中に残る橋脚 と、車道を跨ぐコンクリートの橋だけが残っています。 <新尺別〜(旭町)〜尺別炭山>:新尺別の先から廃線跡と道路は並行している ため、橋の遺構は多く見出せます。ただし、距離から判断して旭町の駅があ った筈の場所では、何も見つけることはできませんでした。 なお、新尺別から約1km進んだ地点から先は未舗装の悪路となります。 <尺別炭山>:1998年春の時点では路肩崩壊が進んでいたため、尺別炭山駅へ の到達は断念しました。文献によれば、1996年秋の段階でコンクリート製の 選炭機や積込み用のホッパーの残骸と共に*木造の駅舎*が残っていたという ことなので、運がよければ残っているかもしれません。 ★★ 明治鉱山西庶路鉱業所・本岐炭砿専用鉄道 (正式名未確認のため仮称)(調査:1998.5 by A.S)★★ 国鉄根室本線・西庶路駅から、その北西にある西庶路鉱業所までの約2.7km の専用線と、そこから北に約6kmの地点にある本岐炭砿へ続いていた自社専 用の軽便鉄道です。 「廃虚」で有名 :-)な雄別炭礦が山深い場所にあるのに対し、こちらは国 道38号から約6.5kmの中庶路あたりまで行けば、道路脇に多数の廃虚がある… という点では「知られざる穴場」と言えるかもしれません。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 白糠 昭32 32-15-4 駅/停留所の記載なし 阿寒 昭34 32-14-8 駅/停留所の記載なし <西庶路>:国鉄根室本線との接続駅ですが、跡形もありません。 <西庶路−西庶路鉱業所>:線路は根室本線に沿っていったん北東に進み、約 400m先で北西に進路を転じてから先は(ほぼ)直線状に進んでいました。現在 の西庶路の市街になっている区間は跡形もありません。また、市街のはずれ から先は密林と化しています。 <西庶路鉱業所>:おそらく今では全域が密林と化していると思われるのです が、近くに道路もない私有地であるため未調査です。 <西庶路鉱業所−本岐炭砿>:S32.発行の「白糠」図によれば、鉱業所から北 東に約1km進んでから北に進路を変え、約1.5km先で現在の道道・上庶路停車 場線に突き当たってからは車道に沿って約3.5km先の中庶路まで進み、そこ から庶路川の支流のケトンチ川を溯って本岐炭砿に達していました。 この区間の内、西庶路市街の北で暁墓地へ通じる車道が山裾で線路跡を横 切っています。注意して見れば判るかと…。 その北の末広地区には廃虚が点在していますが、どれが鉱山由来のものか は判りません。 末広−中庶路間には石炭積込み用のホッパ、煙突等を含む遺構が集中して いて、車道からでも観察することができます。その北には石炭を掘った際に 出たズリ(注:無価値な廃石)で出来た黒い山もあります。 <本岐炭鉱>:国土地理院H7発行の1:50000「阿寒」図では何も載っていません。 調査した日にはケトンチ川沿いの車道が閉鎖されていたため、未調査です。 ★★ 根室拓殖鉄道 ★★ *(96年調査 by H.A) 北海道には道路の代用としての多くの殖民軌道がありました(注:6章を参 照)。最初は国費で敷設し、最後は各自治体で経営されましたが、根室拓殖 鉄道の場合は、それとは違い一応立派な営業路線でした。 1. 歴史 1927年 軌道開業許可 1928年 根室拓殖軌道株式会社設立 1929年 開業(1日3往復) 1944年 社名を根室拓殖鉄道株式会社に変更 1945年 地方鉄道に昇格(地方鉄道法による) 1947年 1日2往復に減少 (このころから、経営が歯舞村民に委ねられる) 1951年 蒸気機関車を全て気動車に変更(1日4往復) 1957年 根室交通が根室〜ノサップ間の路線バスを申請 1958年 歯舞村議会で廃止、バス転換を決定 1959年 廃止 2. 路線(総延長:20.5km) 拓殖鉄道根室駅(現:根室交通本社)−友知駅−沖根婦駅−婦羅理駅−歯舞 駅(現:根室市立歯舞診療所) 3. 見たもの 根室拓殖鉄道にはトンネルも目立った橋もなかったため、いかにも廃線跡 らしい「遺跡」はほとんど発見することはできません。昔の地図によれば、 現在の道道に沿って、根室半島の太平洋側の原野を走っていたことになるの ですが、その跡を探すことはとても困難になっています。地形が平坦な上に、 なんといっても廃止から40年近くの年月がたっていることを考えると仕方な いのでしょうが。 確認できたのは、歯舞駅跡の診療所だけでした、根室交通本社には行って いません。当時の5万分の1の地図を使っても、道床を探したりするのは難し いような気がします。以下に紹介した「トワイライトゾーン・マニュアル」 では、各駅の跡地や、盛土などがレポートされています。91年ころの調査に なっています。 4. 参考 根室駅前の観光案内所で拓殖鉄道のことをきいてみましたが、「根室交通」 でも資料は残っていないだろう」という返事でした。ただ、車石にある郷土 資料館に資料があるということでしたが、日曜日は閉館でしたので、まだ未 調査です。ただ、以下の資料には写真入りの特集記事がありますので、参考 になるかと思われます。 RailMagazine別冊「トワイライトゾーン・マニュアル3」 ネコ・パプリッシング社 *(97年 by Y.U) 1997年に自費出版で「根室拓殖鉄道」なる本が出版されました。 ボンネットを車体の前に出した独特の姿で、鉄道ファンに人気が高いガソ リンカー『銀竜号』で知られるこの鉄道を、大阪の鉄道ファンが中心となっ てまとめたものの様です。車両の変遷、経営状態ばかりでなく、当時の写真 や職員などの話をふんだんに盛込み、郷土史的資料としても興味深い内容と なっているようです。 同鉄道は、1929年(昭和4年)に根室〜歯舞間15.5Kmで開通し、59年にバス 転換が図られ廃止となったと言う事です。 今回の編集には、豊中市の加田芳英さんが中心となり(この方、十勝鉄道、 沖縄県営鉄道と既に2冊も自費出版されているようです)、昨年9月より約1ヵ 月間根室に滞在し、根室市の博物館開設準備室などでも丹念に調査し、やは り同鉄道を地元で調査していた公務員高橋渉氏の協力を得て共著としてまと めた様です。戦前から戦後にかけての写真150点以上を掲載している様です。 A4判 112ページ 3200円(消費税別) 札幌・旭屋書店、根室・伊沢書店のほか、直接送付もする様です。 問合せ先:06-872-9752(加田さん) (編集者注:神保町(東京)の書泉グランデに在庫がありました(1999/9ごろ)) ★★ 留萌鉄道 (調査:1997.5、 1997.10 by A.S) ★★ 幌新太刀別川の上流地域で算出される石炭の搬出のために1930年〜1970年 に運行された路線です。国鉄留萌本線・恵比島駅から北に向かっていました。 留萠から出ているのが留萌鉄道*ではなく*「天塩炭砿鉄道」で、恵比島か ら出ているのが「留萌鉄道」という、いささかややこしい関係にあります。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 恵比島 昭45 45-1-6 <恵比島>:国鉄線との接続駅です。調査時は単なる空地でしたが、1999年は NHKの朝ドラ「すずらん」の明日萌(あしもい)駅となりましたので、ロケ用 の駅舎や駅前通りがあります。 <恵比島〜本通>:恵比島駅から約1kmの区間には、道路がないので近づけませ ん。幌新太刀別川の渡河地点にはコンクリートの橋台が残っています。幌新 太刀別川の東側に移ってからは当時の車道沿いに北に向かっていたのですが、 線路跡は現在の道道・達布石狩沼田停車場線の改良工事の際に失われたもの と判断されます。 <本通>:上記の旧版地形図では「おおどおり」となっていますが、実際の地 名として『本通』だったようです。当時から人家も殆どない場所だったよう ですが、今はもっと人家がありません :-)。駅も跡形もありません。 <本通〜幌新>:この区間の線路は現在の道道・達布石狩沼田停車場線の東側 に隣接していた筈ですが、後年の送水管敷設工事で遺構は完全に破壊され、 それだけならまだしも廃線遺構と紛らわしい地形になってしまいました(--;。 <幌新>:現在の「ほろしん温泉」から約1km下流にあたりますが、これまた跡 形もありません。 <幌新〜袋地>:この区間は当時の線路と現在の道道・達布石狩沼田停車場線 が線路跡から(やや)離れているため、原野の中に遺構が遺されている可能性 はあります。 # ただし、この一帯は道内でも屈指の多雪地帯であるため、標高が低い割 #に雪解けは遅く、例年でも5月下旬にならないと地面が出ないようです。 <袋地>:沼田ダムから出た幌新太刀別川が西に向きを変えるあたりです。これ また跡形もありません。 <袋地〜新雨竜〜宝沢>:沼田ダムで出来たホロピリ湖の底にあります :-)。 <宝沢>:現行の「恵比島」図におけるホロピリ湖の北端あたりになりますが、 ここも跡形もありません。 <宝沢〜太刀別>:幌新太刀別川の西岸の斜面を切り取った跡が続いています。 ただし雪解け直後*以外*の時期に遺構を発見するのは難しいと思います。 <太刀別>:幌新太刀別川と、支流の右大股川との合流点付近です。ここは幌 新太刀別川の最上流部の佐々木沢川にあった炭坑(注:鉄道が通じていない) で掘り出された石炭を搬出するためのリフトの終点だったため、コンクリ ート製のホッパの残骸が残っています。 <太刀別〜昭和>:太刀別を出て約700mで道道・達布石狩沼田停車場線は幌新 太刀別川を離れて山を登って行きますが、線路跡は引続き幌新太刀別川沿い に約3km先まで続きます(注:この林道は一般車通行禁止)。 <昭和>:幌新太刀別川の上流の白木沢川と佐々木沢川の合流点付近です。な んせ豪雪地帯なので、木造の建物は閉山直後に倒壊してしまったと思われま すが、前述の太刀別と同様にコンクリートの構造物だけは残っている可能性 があります。 ★★ 天塩炭砿鉄道 (調査:1997.5、1997.10 by A.S) ★★ 1941〜1967年に運行された25.4kmの路線で、留萌市の国鉄留萌本線・留 萠駅と、留萌郡小平町の達布にある北海道炭砿汽船天塩砿業所を結んでいま した。 達布を基点に考えると留萠よりも国鉄羽幌線・小平駅の方が格段に近いの ですが、(わざわざ)自前のトンネルを2つも掘って留萠まで線路を通したの は、おそらく低規格路線である羽幌線の輸送容量が採掘のネックになること を恐れたため…と思われますが、詳しいことは判りません。 # 留萌まで鉄道を敷いてしまえば、直に船積みできる。 ちなみに、会社自体は鉄道線を廃止した今も「てんてつバス」として存続 していますので、現地でお年寄りに突撃取材 :-)をする際には「天塩鉄道」 と言わずに「汽車」と言わないと話が通じない場合があります。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 留萌 昭31 45-5-6 恵比島 −− 45-1-?? 未確認 達布 昭35 44-4-4 <留萠>:往時の留萠駅の構内は極端に広く、どこまでが国鉄の駅でどこからが 天塩炭砿鉄道の駅だったのか専門外の筆者には判りません。ただ旅客ホーム 同士は隣接していたようです。 <留萠〜春日町>:留萌市街の外れまで国鉄羽幌線と並行していた天塩炭砿鉄道 は、留萌川の支流のマキリベツ川に沿って東に進んでいました。西側は住宅 地の背後にあたるために、現況は判りません。その東の区間は車道から離れ ているために、これまた詳細は判りません。 <春日町>:車道に面してはいるのですが、既に単なる空地になってます。 <春日町〜桜山>:この区間は線路跡が車道に転換されたようで、跡形もありま せん。春日町駅跡から約1.5kmの地点から先は未舗装なのですが、道路自体が ゲートで閉鎖されているため、車輌での進入はできません。 <桜山>:駅の両側が長いトンネルになっているので、線路づたいの到達はおそ らく不可能です。留萌郡小平町の臼谷地区から臼谷ノ沢川に沿って続く悪路 を進むと、桜山駅の跡に谷を横切る築堤が残っています。 密林 :-)が気にならない方には、桜山駅の北側にあるトンネルの入口探し をお薦めします。 # 南側にあるもう一方のトンネルの入口は、図上でも約1.5km離れた密林 #の彼方です。 なお、臼谷ノ沢川沿いの車道は地元の車が(たまに :-))通るようなので、 駐車の際には通行の邪魔にならないようにご注意を。 <桜山〜天塩本郷>:桜山駅の北側にあるトンネルを抜けると、線路は約2km先 にあたる小平蘂川の支流の折真布川の谷まで線路は(ほぼ)直線状に北上して いるのですが、筆者は時間がなかったので、この区間に踏み込んでいません。 ただ、本郷の市街と観音寺の間にある82mの標高点を西→北に迂回する形で 線路が続いていたため、探せば斜面を切り取った跡が見付かると思います。 上記の標高点(の北側)から本郷の市街までは、この鉄道の痕跡は後年の耕 地整理の際に消滅したようです。 <天塩本郷>:現在の郵便局の西・小学校の南にあたる道道・達布小平町線の 南側ですが、はっきり言って跡形もありません。 <天塩本郷〜沖内>:天塩本郷駅の東で線路は当時の車道に隣接し、ポン沖内 川の渡河地点まで東に進んでいました。この区間は後年の道道・達布小平町 線の改良工事で道路に転換されました。ただし、ポン沖内川の橋だけは単線 用の鉄道橋では幅が狭いために北側に新たに架橋されたため、コンクリート の橋台だけが残っています。 <沖内>:ポン沖内川を東に越えた場所に相当します。跡形もありません。 <沖内〜寧楽>:沖内を出ると前方に立ち塞がる山に対して、車道は大きく西 に迂回しています。これに対して、線路は真っ直ぐ山に突っ込んでトンネル になります。こちらのトンネルは塞がれていますが、入口まで辿り着くのは 難しくありません。 トンネルを抜けてから先の線路跡は道道・達布小平町線と一致しており (というか、線路跡を拡張して道路にしたため)、跡形もありません。 <寧楽>:「鉄道廃線跡を歩くII」の「全国 廃線私鉄の『停車場』一覧」に は載っていませんが、国土地理院S.35発行の1:50000地形図「達布」には載 っている…という謎な駅です。ただし、今では跡形もありません。 現地は道道・達布小平町線と道道・小平幌加内線を結ぶ寧楽橋の南側にあ たります。 <寧楽〜天塩住吉>:この区間も線路跡は道道・達布小平町線と一致しており (というか、線路跡を拡張して道路にしたため)、跡形もありません。 <天塩住吉>:駅跡は郵便局の南側にあたるのですが、ここも跡形もありませ ん。古い地図で見ると、ここの南にあたるポン沖内川の上流にある炭坑(注: 留萌炭坑?)とケーブルで結ばれていて選砿所があったり、小平蘂川の対岸 に住吉炭坑があったりするので、積込み施設の残骸があることに期待してい たのですが…。 <天塩住吉〜達布>:住吉市街の東では、線路跡は約500mにわたって水田の一 部となっています。残りの区間も線路跡は道道・達布小平町線と一致してお り(というか、線路跡を拡張して道路にしたため)、跡形もありません。ただ し達布市街の南にあたる下記念別川の渡河地点では、道道・達布小平町線の 橋の東側にコンクリート製の橋台が残っています。 <達布>:駅跡は道道・小平幌加内線と道道・達布小平町線が合流する幸橋の 東側ですが、例によって跡形もありません。 書類上の天塩炭礦鉄道は達布で終わっていますが、実際には石炭の積込み のための構内側線は市街を抜けて東に続いていました。道道・小平幌加内線 を達布市街から東に約1km進んだ地点にコンクリート製のホッパが遺されて います。 ★★ 羽幌炭砿鉄道 (調査:1992.7 by A.S, 2002.5 by H.O 年号記載のないものは1992.7調査)★★ 築別川の上流にある築別炭山の石炭を搬出するために建設された16.6kmの 路線で、1941年〜1970年に運行されました。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 羽幌 昭35 44-6-6 天塩有明 −− 44-2-?? 未確認・当時は「築別炭砿」図 <築別>:国鉄羽幌線(廃止)との接続駅ですが、未調査です。 <築別〜五線>:築別を出た路線は羽幌線に沿って南西に向かい、約500m先で 南東に進路を転じて約2km進み、五線に達していました。 なお、国土地理院H7.発行の1:50000「羽幌」および「天塩有明」図では、 築別市街のはずれから後述の上築地区にある11線付近までの約6.2kmが「幅 員1.5m未満の道路」となっています。現地調査はしていないのですが『1.5m 未満』ということは、おそらく車輌での通り抜けはできないと思います。 <五線>:道道・築別炭鉱築別線と五線路の交差点から五線に沿って南西に約 600m進んだ用水路の南側です。跡形もなかった…と思います。 <五線〜七線沢>:この区間も、引続き道道・築別炭鉱築別線の南側を車道に 平行して南東に進んでいました。上記の「天塩有明」図では、この区間も引 続き「幅員1.5m未満の道路」として載っています。 <七線沢>:文献 :-)にあるキロ数から判断すれば、現地は七線と八線の中間 付近だった…ということになります。ここも未調査です。 道路も通じていない、こんな場所に駅が作られた事情は分かりませんが、 文献によれば当駅には列車交換の設備があったことと、ならびに開通から17 年後の開駅であることから考えて、石炭の生産/輸送量の増加に対処するた めに設置されたものと考えられます。 # なんと言っても当路線は、廃止3年前でさえ1日に3000トンもの石炭を運 #んでいましたから…。 <七線沢〜上築別>:八線路との交差までは引続いて道道・築別炭鉱築別線の南 側を車道に平行し、その東では車道と同様に(ほぼ)東南東に向きを転じて約 2km進んでいました。この区間も未調査です。上記の「天塩有明」図では、引 続き「幅員1.5m未満の道路」として載っています。 <上築別>:現在の上築地区にある神社の隣で、道道・築別炭鉱築別線から南に 入った地点です。駅跡は跡形もなかった…筈です。 <上築別〜曙光>:上築別から東では、線路は築別川の南岸に沿って約2.7km進 んでいました。この区間は上記の「天塩有明」図では上築別駅の西側の約1km が(道路ではない)築堤、残りの約1.7kmが「幅員1.5m未満の道路」として載っ ています。 <曙光>:現地を示す適当な地物がないのですが、とりあえず築別から道道・ 築別炭鉱築別線を東に向かっている場合には、築別川の本流を越える2番めの 橋の東です。 <曙光〜曙>:この区間もまた、鉄道は道道・築別炭鉱築別線の(すぐ)南側を東 に向かっていました。上記の「天塩有明」図では、この区間も「幅員1.5m未 満の道路」として載っています。車道が築別川を越える3つの橋の南には、そ れぞれ鉄道橋が残っていました。 このあたりは道道沿いにいくつか鉄橋が残っていました。(2002.5) <曙>:現在の曙市街の南側です。駅跡は神社の南西にあたる原野の中で、ホー ムだけが残っていました。 この付近で築別川の本流は「\/」型に進路を変えており、鉄道も川に沿っ て進路を変えていました。 <曙〜桜ヶ丘>:この区間は、道道・築別天塩有明線の北側を北東に進んでいま した。上記の「天塩有明」図では、この区間の殆どが(道路ではない)築堤と して描かれているのですが、調査の時点では殆どが整地されて失われていま した。 <桜ヶ丘>:曙から築別炭砿に向かって約2.2km進んだ地点なのですが、現地を 説明する適当な地物がありません :-)。 <桜ヶ丘〜古賀町>:桜ヶ丘よりの約1.5kmは車道の南側を(ほぼ)直線状に北東 に進み、煙突の下から東では道道・築別天塩有明線の北側を辿っていました。 上記の「天塩有明」図では、この区間も「幅員1.5m未満の道路」として載っ ています。 この区間で築別川本流を越える2つの橋は残っていましたが、橋を越えた 南岸は文字どおりの密林でした。 <古賀町>:道道・築別天塩有明線が築別川を離れる地点です。ここも駅は跡 形もありません。 <古賀町〜築別炭砿>:古賀町から先では、築別川の北側を辿る車道の北側を 約900m進んで終点に達していました。上記の「天塩有明」図では、この区間 も「幅員1.5m未満の道路」として載っていますが、実際には密林でした。 <築別炭砿>:駅跡は現在の「はぼろ緑の村」の奥にあたり、原野の中に石炭 積込み用のホッパ、鉄筋コンクリート4階建てのアパートを含む多数の廃虚 が点在しています。 ここは閉山後(比較的)時間が経っていないので、1999年の時点では建造物 に近寄っても差し迫った危険はないと思います。 しかし、一帯には第二次大戦中から戦後にかけて、鉱業所に無断で石炭の 盗掘を行った跡が多数あるそうです。このため、原野の中が陥没して横穴が 出ている場合があります。もしこういった穴を見つけても、絶対に中に入っ てはいけません。横穴の落磐で生き埋めになる恐れがあります。 * 上記の曙付近で築別川の本流は向きを変えているのに対し、支流の三毛別 川は引続き北西−南東方向に続いていました。この三毛別川に沿って建設さ れていた国鉄名羽線(注:工事途上で建設中止)の一部が、その上流にある羽 幌炭砿からの石炭の搬出のために羽幌炭砿鉄道によって運行されていました。 アパート群、小学校、病院や炭砿の施設がいろいろ残っていました。無人 の山中に町があったのだなあ…と栄華を偲ばせてくれます。(2002.5) <曙〜三毛別>:この区間は道道・上遠別霧立線の南側を車道沿いに続いてい ました。三毛別川を渡る7個所?の橋は、いずれも幹線並みの規格のコンクリ ート製で、国鉄名羽線が計画段階ではいかに重視されていたかを物語ってい ると言えます。 # が、これらの橋については1999年の段階で失われていた…という報告を #受けています。 上記の橋を除いた区間は整地されて失われたか、あるいは密林に没してい て判りませんでした。 <三毛別>:三毛別川の本流と、支流の稲穂川との合流点の(やや)西にあたり ます。上記の「天塩有明」図には何も載っていませんが、現地には車道から でもコンクリート製のホッパや事務所であったらしい鉄筋コンクリートの建 物、竪坑の排気筒、倒れかかった木造の住宅が見受けられました。しかし車 道から離れると一面の密林であり、遺構への到達は困難が予想されます。 <三毛別〜上羽幌>:この区間は三毛別川と羽幌川に挟まれた尾根を長いトンネ ルで抜けている上、車道に隣接していない区間が多いために未調査です。 <上羽幌>:羽幌川沿いで最奥の集落にあたります。ただ以前に「上羽幌炭砿」 という言葉を耳にしたことがあるので、このあたりにも炭砿があったのかも しれませんが、良く判りません。 ★★ 日曹炭砿専用鉄道 (調査:1997.10 by A.S) ★★ 国鉄宗谷本線・豊富駅と下エベコロベツ川の上流にある3つの炭砿を結ん でいた路線です。 昭和32(1955)年版の「専用線一覧」では18.1kmとさ れていますが、下記 の地形図では 豊富−本流 :約9km 本流−豊幌−(1):約7km 本流−日曹−(2):約7.5km (2)−(3) :約1.5km (2)−(4) :約2k の合わせて約27kmが載っているので、正確なところは謎です。ちなみに、上 記の(1)、(3)、(4)は坑口で、(2)は鉄道の分岐点です。いずれも地名は判り ません。 <調査に用いた国土地理院の地図>: 図名 発行 リスト番号 備考 豊富 昭32 43-2-5 駅/停留所の記載なし <豊富>:国鉄宗谷本線との接続駅です。未調査です。 <豊富〜本流>:鉄道跡は国鉄豊富駅の南で東に進み、山に突き当たると現在 の道道・豊富浜頓別線の北側を車道に沿って南東に進み、ガス発電所の裏で 東に進路を変えて約3.5km進み、道道・豊富浜頓別線と道道・稚内幌延線の 重複区間の北に沿って東に進んでいました。 この区間も本流(注:地名)よりの約1.5kmを除いて未調査ですが、豊富市街 から豊富温泉の北まではサイクリングロードとして整備されており、そこか ら東は国土地理院H8.発行の1:50000「豊富」図では「幅員1.5m以下の道路」 として載っています。 本流のすぐ西の下北沢川の渡河地点にはコンクリート製の橋が残っていま すが、他は密林の中でした。 <本流>:現在の道道・豊富浜頓別線と道道・稚内幌延線の北東側の分岐点(注: 重複区間の東端)付近です。駅自体は跡形もありません。 <本流−豊幌>:線路は現在の道道・稚内幌延線の東を車道に沿って続いていま した。時間の関係であまり見ていないので詳細は不明ですが、線路は数ヶ所で 下北沢川の支流の豊幌川を越えているため、橋の跡ぐらいはあると思います。 <豊幌>:S32.発行の「豊富」図では神社や学校が載っているので、駅/停留所 があったのは確かだと思うのですが、未調査です。 <豊幌−(1)>:豊幌川の支流の九線沢に沿って続いていました。線路跡が現在 の車道に転換されたものと推定されます。 * <本流−日曹−(2)>:本流から約2.5kmについては、H8.発行の「豊富」図に現 在の道道・豊富浜頓別線の北を並行して辿る「幅員1.5m未満の道路」として 載っています。そこから日曹市街を経て分岐点(注:(2))までは、線路跡が現 在の車道に転換されたものと判断されます。したがって道路脇の斜面に「そ れらしい」切取りがあっても、おそらくそれは「道路の跡」です。 なお、日曹市街(の跡(^^;)については目立った廃虚もなかった…筈です。 <(2)>:地名が判らないのですが、現在の道道・豊富浜頓別線における豊富町 と浜頓別町の境界から豊富側に約2km進んだ下エベコロベツ川の本流と支流の 合流点付近です。重い運炭列車が走る鉄道の分岐点であった以上、それなり の広さと設備があった筈ですが、調べた限り跡形もありません。 <(2)−(3)>: <(2)−(4)>: S32.発行の「豊富」図には(2)で分岐する支線が載っていますが、どちら も未調査です。なお、このあたりは無人地帯なので当然 :-)ヒグマが徘徊し ている筈です。 ★★ 根室本線・御影駅の採石場線 (調査:2000.5.4 by H.O) ★★ ○ 文献調査 現在、根室本線の新得と帯広の間には「御影」(ミカゲ)という駅がありま す。ところが、もともとこのあたり一帯は「サネンコロ」(アイヌ語で「と がった鼻」と言う意味)という地名で、「佐念頃」という漢字があてられて 駅名にも使用されていました。 ところがこの近くの山で、御影石が採れるようになり、佐念頃駅から採石 場まで7kmほどの距離に鉄道が敷かれました。やがて、御影石にちなんで駅 名、地名とも「御影」に変更されました。 明治40(1907)年 落合−帯広間開通と同時に佐念頃駅開業 大正11(1922)年 佐念頃駅、御影駅に改名 と参考資料「北海道 ふるさとの駅」には載っているのですが、国土地理院 の地形図に載ってる地名の変更は、かなり時期がずれています。最初に発行 された大正9(1920)年測図、大正11(1922)年発行のものには、明治40(1907) 年に開通したはずの根室本線(当時は旭川−釧路を結ぶ「釧路線」と呼ばれ た)が載っていないのです。次に発行されたのが、昭和3(1928)年鉄補、昭和 5(1930)年発行のものなのですが、これには根室本線は載っているものの、 1922(大正11)年に変更されたはずの駅名が「佐念頃」のままなのです。 (注:測図…測量して地図を作成、鉄補…以前の地図に鉄道を追記) 国土地理院の地図の履歴を追っていくと、採石場と御影駅を結ぶ鉄道は鉄 道、特殊鉄道(一軌、二軌以上)という3ランクのうちの一軌で、昭和初期〜 20年代にかけて存在していたようです。 現在は軌道跡は地図で見る限りないようですが、採石場はまだありますの で、現地へ行けば何かわかるかもしれません。 ○ 現地調査 残念ながら採石場へ行く時間がなく、御影駅しか調査しませんでした。 現場見取り図: 畑 畑 畑 畑 畑 畑 畑 畑 木木木木木木木木 ↑ 木 空き地 至 帯広 +++++++++++++++++++++++++至 新得 |駅舎| −− −− ロータリー となっておりまして、ロータリー側には市街地が広がっていますが、裏側は 防風林(木印)と畑です。やや離れた所に宅地が少々。新しく造成されつつあ る趣です。線路と防風林の間は線路1、2本分の空地があり、このあたりに引 込線があって、荷物の積み下ろしを行ったのだろうと思われます。 防風林の切れ目の↑印の所には線路から弧を描くように離れる未舗装の1 車線道路が通っており、これが昔の軌道跡と一致するのですが、軌道跡その ものかどうかは不明です。ちなみに道沿いに農業用水の溝も通っています。 防風林を抜けると畑です。あぜ道は矢印からまっすぐ伸びていますが、周 囲の畑に比べて特別高い土盛りでもなく、これも軌道跡かどうか不明です。 というわけで、不明だらけの調査でした。 ★★ 根室本線・帯広駅−自衛隊駐屯地(2001.1.2 調査 by H.O) ★★ 【沿革】 歴史は未調査ですが、戦前から昭和20年代にかけて存在したようです。自 衛隊は昔は陸軍第5師団でしたから、おそらく輸送用の引込み線だったもの と思われます。 【調査に使用した資料】 国土地理院5万分の1図 帯広 (発行:1949(S24)、1997(H9)) 【調査結果】 帯広駅から新得方向へ南側の線路沿いを歩いていくとウツベツ川の橋を渡 ります。橋を渡ってすぐに左へ弧を描いて延びる道路があります。これが元 の線路跡か、線路に沿っていた道路と思われます。 この道路は住宅街を通って競馬場すぐ脇の賑やかな通りと平行しています が、道路と道路の間に家が1列建っているだけで間隔が非常に狭く、やはり 線路跡と思われます。 ウツベツ川が曲がるため、線路は再度ウツベツ川をまたいでいたのですが、 鉄橋跡などはありません。南五丁目まで川の東岸を走っていましたが、ここ も跡らしき跡はありません。 線路はもう一度パール温泉の所でウツベツ川を跨ぐのですが、川の両岸に 児童公園があります。"両岸"というところが不自然なので、おそらく鉄橋が あったのでしょう。 この辺りは左が緑ヶ丘公園、右へ行けばランチョエルパソがあり、やや市 街地から森が増えてくる一帯です。鉄道はランチョの方向へ右折し、ランチョ の裏手1,2本の通りを西南西に進み、高台にある自衛隊まで序々に高度を上 げていきます。 自衛隊敷地の北の境界は木の茂った斜面で一般人の生活場所とは遮断され ていますが、この林間に通学路があります。「ここは歩道です」と書かれた 柵があり、1kmほど先の右手(左手は自衛隊)にある小学校と中学校(2校並ん でいる)につながっています。この通学路が線路跡だろうと思ったのですが、 よーーく2枚の地図を比べてみると違うかもしれません。 次は文献調査しなくちゃね。 ★★ 根室本線・利別駅の軍用路線(1995.GW調査、1999.5補足 by H.O) ★★ 池田北のコタンYHで仕入れた情報(旅人ノートに残されたある旅人の記録) です。池田町編纂、発行の「池田町思い出のアルバム」でも存在が述べられ ています。また、国土地理院S29.発行の1:50000図「十勝池田」(35-11-3)に も説明抜きで載っています。記載記号は「私鉄」と同様の「++++++」です。 <概要>:昔、利別から北の山あいに軍の弾薬庫や航空機部品庫があり、利別駅 から引込線が敷かれていました。「池田町思い出のアルバム」には、谷に散 在する建物群と鉄道の絵地図が載っています。 <地図>:以下は旅人の残した地図です。土盛りの跡(*印)は駅から90°の弧を 描き、谷の手前で再び90°の弧を描いています。谷へ曲がる所には小さな鉄 橋が残っているそうです。 --------- 山 `| / ------- / | 谷 ** `-------- ** ↑ `| * 駅から約4km ↑ 山 / * 概ね北 -------- 農家 □* * ** ←帯広 *** -------- 池田→ +++++++++++++++++++++|利別駅|+++++++++++++++++++++ -------- <調査結果>:残念ながら、駅そばの弧しか調査しませんでした。利別駅にか かってる跨線橋の上から見ると確かに土盛りの弧は見えるのですが農家への 道になっており、これが鉄道跡と推測するのは難しいです。 # 畑がこの道で不自然に分断されていると見えなくもないのですが。 地図では山は高くはないものの、海(南)から飛行機が飛来した場合、見つ かりにくい位置ではあるようです。 ★★ 小清水町の鉄道史 −北見鉄道と小清水軌道− (調査:2002.4.28 by H.O) ★★ 1.釧網線 小清水町にはJR釧網線が通っていますが、市街地とは離れた海岸沿いを通 っています。この釧網線敷設にあたって、どこを通すかは沿線自治体の死活 問題でした。大正時代当時、道路はもちろん未舗装。一般人の足はもっぱら 馬車、馬橇でしたが、雪が降れば往来もままならず、行き倒れの危険もあり ました。春は融雪で泥沼状態。馬車が立ち往生することはごく普通でした。 雪解けが終わっても砂利道に車輪がもぐってしまったり、もぐりにくいよう に轍を太くすれば車体が重くなって馬が力不足だったり、と今では想像もで きない有様であったようです。 北海道奥地の交通の便を図るために、街道筋には駅逓が設けられ、宿泊施 設と馬を提供していたのですが、(時代は遡りますが)1899(M32)年の調査で は馬は酷使の結果満足に使えるものは殆どなく、疲れ果てた牝馬は不妊にな ってしまっているといった記述も残っています。鉄道は人の往来や農作物の 安定した輸送に欠かせないものとして、どこを通すかは町の将来に大きくか かわる大問題でした。 網走側から建設が始まった釧網線に対し、小清水町(当時、小清水村)は小 清水市街を通すよう強く要望し、各方面への働きかけなどを活発に行ったよ うです。しかし事情は東隣の斜里町(当時、斜里村)も同じ。小清水市街を通 されたのでは釧網線は斜里市街を通りません。激しい陳情合戦と技術的な検 討の末、軍配は斜里町に上がり、小清水町は海沿いに浜小清水(当初、古樋 (ふるとい))、止別の2駅を誘致したに留まり、市街地は鉄道から離れてしま いました。網走−北浜(当初、涛沸)開通が1924(T13)年、北浜−斜里開通が 翌1925(T14)年のことでした。 2.北見鉄道 小清水村悲願の鉄道はようやく私設の北見鉄道によって実現しましたが… 1928(S03)6月 北見鉄道株式会社、鉄道開設の免許取得。 計画路線は止別−札弦だったが、小清水市街までに短縮される。 1929(S04)5月 起工。 1930(S05)6月3日 開通。 区間:仮止別−野坂−小清水 8.7km ・(国鉄の貨車との連絡も許可された、と記録にあるので、仮止別は 釧網線止別駅に隣接していたと思われる) ・保有車輌:当初SL2輌、4輪客車3輌、有蓋貨車1輌、無蓋貨車2輌。 1933(S08)年にSL3輌、1937(S12)年にSL2輌、ガソリン車1輌となる が、客貨車の数は廃止まで変わらず。 ・便数、所要時間:当初一日3往復。1937(S12)には7往復。25分。 ・かなりの従業員が秋田・雄勝鉄道からの転進者であったという。 ・当初は鉄道省から補助金を受けていたが、短距離であることを理由に 補助金打ち切りとなり、経営悪化。 ・小清水−東藻琴−美幌までの延伸を計画するが、用地買収などを巡る 住民との対立があり、実現せず。 1939(S14)年8月31日 経営難により廃止。 小清水駅跡には跡碑が残っています。すごくわかりにくい位置にあります。 小清水市街のR391の東側にちょっとした公園があって、その近くの民家(町 営住宅?)の庭先に碑が1本と説明板が1枚。近くに大きな石造の穀物倉庫が あり、きっと駅に面していたんだろうな、などと想像します。 3.小清水軌道 僅か9年であえなく廃止となった北見鉄道。次に名乗りをあげたのは、 北見鉄道最大の荷主、帯広の製糖会社、北海道製糖(のちの日本甜菜製糖) でした。 1940(S15) 北海道製糖、軌道計画を発表。帯広より技師が来村し、古樋 (現、浜小清水)−水上−札弦の測量を行うが、水上−札弦間は敷設 困難な個所があるとわかり、計画中止。 1941(S16)8月8日 小清水専用軌道開業。 ・区間:古樋−(約11km)−小清水−(約6km)−水上 ・小清水駅は北見鉄道の施設を転用。 ・北海道製糖の敷設目的は甜菜の輸送のためであったが、小清水村は ジャガイモ等の農作物の輸送のために、相乗りする形で協力体制を とり、水上駅に農業倉庫、集乳所を整備。 1942(S17)4月7日 認可を得て、木材、農産物、肥料などの輸送開始。 ・小清水村運行組合が組織され、旅客輸送にも便宜を図る。 1947(S22) 日本甜菜製糖に経営移管される。 1952(S27)12月14日 トラック輸送に押され、廃止。 「専用軌道跡」の碑と「水上駅跡」の碑の写真が、新小清水町史に載っ ています。「専用軌道跡」の碑はどこにあるのかわかりませんでしたが、 「水上駅跡」の碑は水上地区のR391沿いの東側の道路脇にあります。碑が 1本と説明板が1枚。一度倒れたのでしょうか、碑は深く埋められて文字 も一部が地面の下です。付近はじゃがいも畑が広がるのみで、倉庫も集乳 所もありませんでした。 # ちなみに、数100m川湯寄りに「水上駅逓跡」碑もあります。 「困難」とされた所には低い丘があります。現在車道は通っており、直 登ではなく斜めに回り込むような感じで通っています。これを登るのは大 変、ってことだったんでしょうか。いまにしてみると、これがねえ…とい う低さですが。 軌道跡ですが、南三号線と十六線の交差点付近で意味のない土盛りが斜 めに交差しており、昔の地図と一致するので多分軌道跡だと思います。 感想:最初は道路よりも鉄道が優れていたけど、後に道路の方が鉄道より 優れるようになったんですね。 4.参考資料 小清水町史(1955(S30)) 新小清水町史(2001(H12)) 斜里町史(1955(S30)) 網走市史(1971(S46)) ★★ 小清水の軍用飛行場用鉄道 (調査:2002.4 by H.O 補足by A.S)★★ 小清水町史には何も触れられていませんが、国土地理院の1/5万図「小清 水」(S24年発行)に載っています。 小清水駅(当時の駅名は古樋)からほぼまっすぐ南に約6kmの鉄道があり、 滑走路のような地形があります。恐らく、ソ連の侵攻に備えて猿払から中標 津のオホーツク沿岸に沢山建設が進められた飛行場の中の1つだと思います。 (補足:出典不明ですが、小清水にあったのは美幌にあった「北東海軍航空隊」 の飛行場だそうです。ちなみに、今の女満別空港も北東海軍航空隊の所属だ ったそうです。小清水のは不時着用の「補助飛行場」ではなく、正規の飛行 場なので、鉄道は建設工事だけでなく燃料や弾薬の輸送にも使われ続けた筈 です。) 飛行場跡は地図が更新されてもしばらく残っていたのですが、H3(1991) 年発行の現在の地図では全く痕跡がなく、一帯は綺麗に碁盤目に道路の通 る農地になっています。 で、現地へ行ってみましたが、全く何も見つかりませんでした。 ★★★★★ 9 博物館、資料館、保存SL ★★★★★ 博物館、資料館はここまでの章で収録できなかったものを中心に、SLは一部 重複するものもありますが、SLファンの皆様の為に一括して集めました。 ★★ 室蘭駅旧駅舎[1-2-2] (調査:2000.GW by H.O) ★★ 現在の室蘭駅からR36を白鳥大橋寄りに約300m行ったところにあります。 レールは外されていますが、駅舎は1912(M45)年建築で、「北海道最古の駅舎」 として国の有形文化財に指定され、観光案内所として利用されています。明治 の和洋折衷建築として価値があるとか。車寄せの天井の漆喰細工が見事です。 写真や道具などの資料も少々展示されています。見学無料。 # 最古の駅舎は室蘭本線の由仁駅だと聞いたこともあるのですが…。 ★★ 追分鉄道資料館[1-2-2](調査:1998.GW by A.S, 1999.8.13 by H.O) ★★ <概要>: 室蘭本線追分駅から跨線橋を西に越えた所で、ホームからは数百m離れていま す。R234や付近の道道に案内板が出ています。 駅と資料館の間には真新しい住宅が建ち並んでいます。しかし昔はここにはす べて引込み線が敷かれ、12両分もの機関庫が扇形に並んだ、北海道有数の追分機 関区でした。往時の写真には圧倒されます。 ただしこの資料館、開館日が限られています。閉館日は閉まった機関庫と焼失 したSLのレリーフ、軌道自転車、雨ざらしの客車(スハ4525)、貨車(ワム184336 +ワム186833+ワム186959)、車掌車(ヨ4647)の外観が見られるのみです。 <開館日>: 基本的には5〜10月の第2,4金曜日、時間も13〜15時だけです。 これ以外の見学希望の場合は追分町教育委員会(注:01452-5-2083)に連絡 してください。なお、土、日、祝日の9〜17時なら、すぐ近くの鹿公園の管 理人に申し出れば案内して貰えます。 この他にも、お盆などに臨時開館することがあるようです。 <追分町の鉄道のあゆみ>: 立て看板と無料パンフレットからご紹介します。 1889(明22) 北海道炭鉱鉄道会社の室蘭−岩見沢、夕張線の鉄道敷設が認可 され、追分(注:当時アビラ)は、夕張線の分岐点となる。 1892(明25) 岩見沢−輪西間、追分−夕張間の鉄道が開通する。追分機関庫、 追分駅が開設される。 1906(明39) 鉄道国有化法が公布され、国に買収される。 1918(大07) 追分機関庫全焼。 1936(昭11) 追分機関庫が札幌鉄道局追分機関区となる。 1965(昭40) 追分線(注:後の石勝線の一環、追分−千歳17km)の建設工事開始。 1975(昭50) 夕張−追分間にわが国で最後のSL定期列車が走る。ここで使用 されたのは追分機関区所属のD51241。 1976(昭51) 追分機関区扇形車庫全焼。永久保存が計画されていたD51241も 他の数両のSLと共に焼失してしまう。 鉄道記念館開設。D51241、主動輪とプレート入りの煙室扉がレ リーフになって展示。 1977(昭52) 追分機関区扇形新車庫完成。 1981(昭56) 石勝線開通。 石炭搬出の拠点として作られ、交通の要衝として発展し、日本最後のSLの運 転を行なう…といった歴史と由緒のある町だということがわかります。 <開館日の風景>: 開館日、機関庫の扉が開きます。客車もカギが開けられて中へ入れます。 機関庫の中にはD51320。晴れていれば機関庫の外へ出されます。残念ながら 自力ではなく、このSLの牽引のためだけに1両のディーゼル機関車がSLの背 後に連結されているのです。 機関庫の底には下から点検するための細長い穴(ピット)が開いており、壁 には保守用品や写真が並べられています。外の客車の中にもたくさんの写真 が飾ってあります。 そして説明員を務めるのは国鉄OBの方々によるボランティアです。昔の制 帽をかぶったOBの方々の姿を見ていると、この追分機関庫に限りない愛着を 持っていることがよくわかります。手入れも行き届いています。SLは細部が いろいろ動くようになっており、子供相手にいろいろ説明したりいじらせた りしています。小うるさい大人のマニアの質問にも丁寧に答えています。 腕木式信号機の切り替えなどもいじることができます。スピーカーからは SLの走る音、汽笛の音が流され、ムード満点。見学者の応対の合間にペンキ 塗りなどの補修に精を出し、また、皆で集まって昔話をするのが楽しみの様 子で、とても雰囲気の良い資料館でした。 ★★ 勇払郡鵡川町・汐見の資材置場?[1-2-2] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:勇払郡鵡川町・汐見のR235沿いに国鉄D5125とD5126が放置されてい ます。ただし、両機とも戦後すぐにサハリンに送られ、近年に返還されたので 「国鉄」に車籍があった時期があるのかどうか判りませんけど(^^;。 <行き方>:R235が鵡川の橋を東に越えたあたりです。近くに井戸目地蔵尊とい うのがあるらしいのですが、詳しい位置関係は失念(_ _;)。 ↑穂別 鵡川市街←−橋−−−−−−−+−−−→富川 ★ このへん <ちなみに>:屋根がなく野晒しで、残念なことにかなり荒廃しています。せっか くサハリンから還った4両の内の2両がこういう状態であるのは、残念と言う 他ありません。 # が、車輌があるのは私有地だと思われるので勝手に入ったり、ましてや部 #品を盗んだりしてはいけません。 ★★ 岩見沢市・みなみ公園[1-2-3] (調査:1998.GW by A.S) ★★ <概要>:岩見沢市街・九条東にある公園です。国鉄C57144とD5147が保存さ れています。隣の温水プールと共用の無料駐車場はありますが、特に遊戯施 設はありません。したがって入場無料。 <行き方>:車/バイクの場合、R12を進むと岩見沢警察署の向かい側、栗山方 面への分岐よりも旭川寄りにあります。バスでの場合は…失念しました(_ _;)。 <ちなみに>:どうも地元での知名度は低いようで、「みなみ公園」と言っても 通じませんでした(^^;。バスに乗る場合、あるいは道を聞く場合は「警察署」 を問えば間違いないと思います。 ★★ 岩見沢市・朝日駅跡[1-2-3] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:岩見沢市の東部・空知郡栗沢町との境界付近にある旧国鉄万字線・朝日 駅跡に国鉄B201が展示されています。 # 万字線については5.1を参照 文献によっては同機の保存場所として「岩見沢市 東山総合公園」が挙げられ ていますので、近年に移設されたものと考えられます。 <行き方>:現地は岩見沢と夕張を結ぶ道道・夕張岩見沢線に沿っており、岩見沢 市街と幌向ダムの(ほぼ)中間地点にあたります。 ★駅跡 岩見沢市街←−−−−−−→幌向ダム・夕張 <ちなみに>:東山総合公園から移設の際に補修されたようで、少なくとも塗装は 良好です。キチンと屋根が架けられています。駅跡自体も記念館として整備中な ようです。 ★★ 三笠市・三笠鉄道記念館[1-2-3] (調査:2000.5 by A.S) 三笠駅(跡)から3kmです。屋外展示(無料)と、記念館展示(有料)の2つがあ ります。 屋外では、本物のSLが客車を引いて場内を往復していました。カマは室蘭 の「鐵原コークス」で使われていたS-304で、客車は国鉄時代の貨車を改造 したものです。450m(公称)の区間を1往復して料金は200円でした。運転され るのはGWの最初から10月最後の週末までで、時刻は 土曜 :1200 1230 1300 1330 1400 1430 1500 1530 1600 その他の運転日:1000 1030 1100 1130 1200 1230 1300 1330 1400 1430 1500 1530 1600 となっています。「その他の運転日」とは、日曜日と道央地区の小中学校の 夏休み期間の毎日(ただし月曜を除く)です。 その他に、ミニ新幹線の乗り物もあって、場内を回っていました。こち らも200円でしたが、ダイヤは決まっていないようです。 あと、道路を隔てた駐車場では、住友赤平?から来た坑内用のバッテリー 機関車が、同じく坑内用の客車〜「人車」と呼ぶ〜を引いて往復していまし た。料金等は失念。 展示車両は、ディーゼル機関車(DD13353、DD141、DD1517、DD1615、 DD51610、DE101702)、電気機関車(ED76505)、蒸気機関車(59609、C122) があり、運転室等の中に入れました。 他にも屋外に国鉄客車(オハフ33451、スハ4520、スハフ4412、オハフ 46504、スユニ50505、スエ3041、スエ321)、国鉄ディーゼルカー(キハ2252、 キロ26104、キハ2723、キハ5616、キシ8031)、国鉄除雪車(キ274、キ756)、 国鉄貨車(セキ6657、ソ81、チキ6147、トラ72568、ワム66172)、片隅に北 炭真谷地のモーターカーや除雪車、太平洋炭礦の電気機関車が並んでいます。 # 数といいバリエーションといい、「車輌派」の鉄人にとっては小樽交通 #記念館と並ぶ『聖地』であることは間違いありません :-)。 記念館は大人520円・小中学生210円で、開館時間は9時〜17時。毎週月曜 と12/1〜GW直前まで休館。ただし月曜が祝日の場合は開館して、翌日に休館 となります。館内には道内の鉄道の沿革を示すパネル、蒸気機関車のパネル、 幌内線の歴史のビデオ上映、各種工具、用具などが展示されていました。2 階には、大型のジオラマ模型の様なものがあり、別料金(300円?この料金の み1996年調査)で、操作が出来たと思います。 ★★ 美唄鉄道・東明駅跡[1-2-3] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:美唄市の東部にある旧美唄鉄道の東明駅跡に美唄鉄道の2号機が展示 されています。ちなみに国鉄4110と同型の自社発注機です。 # 美唄鉄道および同機については8.3を参照。 <行き方>:道道・美唄富良野線で道央道の美唄インターの東に進むと東明公園へ の分岐があり、その東にあたる東明市街の中です。この道道には路線バスが通っ ていますが、おそらく学校が休みの日には運行されないと思います(未確認)。 東明公園 ↑ ★駅跡 美唄インター←−+−−−−−−−−→盤の沢 <ちなみに>: 屋根こそありませんが、キチンと補修されて、案内板もあります。 ★★ 小樽交通記念館[1-3-3] ★★ ホームページ:http://www.otarukoutsukinenkan.com/ 現在の小樽市・手宮は北海道の鉄道発祥の地です。昔この位置にあった北 海道鉄道記念館が小樽交通記念館として生まれ変わりました。 展示されているのは以下の車両であり、これらからも北海道の鉄道の歴史 を知ることができます。 国鉄SL : 7106 7150 C126 C5550 国鉄DL : DD13611 DD13323 DD1537 DD1617 DD51615 DE10503 国鉄EL : ED75501 ED76509 国鉄PC : オハ36125 オハフ33364 スハ4514 スハフ441 スユニ50501 オエ61309 スエ785 国鉄DC : キハ031 キハ2256 キハユニ251 キロ26107 キハ2711 キハ5623 キハ821 キシ8012 キシ8034 国鉄FC : ヨ7904 ワフ29984 セキ7342 チキ6141 トラ57964 ホキ2226 ワム82506 キ270 キ1567 キ601 キ718 キ752 キ800 ソ34 輸入SL : UFC・I.horse3 北炭PC : い1 (注:SL=蒸気機関車、DL=ディーゼル機関車、EL=電気機関車、 PC=客車、DC=ディーゼルカー、FC=貨車) 広い敷地にたくさんの車輌が展示してあり、鉄道好きの子供には大人気の ようです(鉄道マニアの大人にも大人気ですが :-))。 改装を機に名前が「鉄道記念館」から「交通記念館」に変わったように、 鉄道以外の乗り物についての展示もあります。 年中無休で開館時間は9:00-17:00、夏は18:00まで。大人940円(冬は560 円)、小人は大人の半額。 # 運河プラザに2割引の割引券が置いてあったので、運河を見学したとき # に割引券をもらって、それから行った方がいいですね。 場所は観光地からちょっと離れているので、普通の人はバスを利用してく ださい。 # 編集者A.Sは勢い :-)でJR小樽駅から歩いてしまいましたが、とっても #疲れました。 バスは、中央バスのマリン号・ろまん号で「交通記念館前」下車。または、 「手宮」か、「高島3丁目」行きの市内バスに乗り「手宮」で下車してくだ さい。駐車場もありますが、あまり広くないので行楽シーズンには長時間待 たされる恐れがあります。 ★★ 赤平市・赤平山スキー場[1-2-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:赤平市外から少し離れた赤平山スキー場に、国鉄D51566が保存されて います。 # 保存地を「赤平公園」と書いてある文献もありますが、地元で「赤平公園」 #と言うと道道・赤平歌志内線に沿ったあたりになりますので、スキー場とは2km #ぐらい離れてしまいます。 <行き方>:現地は赤平駅から少々離れていますが、R38を芦別側に抜ければスキ ー場のリフトが目印になります。赤平駅からだと(正確には判りませんが)1.5km 弱だと思われます。 ★★ 深川市・桜山公園[1-2-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:深川市街からR233を北竜・留萌方面に向かう途中にある桜山公園に、 国鉄C5898と国鉄D51312が保存されています。 <行き方>:R233の深川市街と北竜市街の間に「桜山公園」という巨大な看板が あります。その看板を頼りに1kmほど丘を登って行くと頂上近くの南斜面の右 側にD51312が、その先の左側にある駐車場にC5898があります。 # この道路は丘の頂上付近にゲートがあるので、恐らく反対側からは入れまん。 JRでは留萠本線の北一已が「最寄り駅」ということになりますが、歩いて行 くのは大変だと思います。 ★★ 滝川市・郷土館[1-2-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:滝川市街の新町3丁目にある郷土館に、国鉄D51297が保存されています。 # 文献によっては所在地を「新町郷土館」と書いてあるものもありますが、滝 #川市で『郷土館』というと、ここしかありません。 <行き方>:郷土館自体に駐車場はありません。近くの文化会館、または図書館の駐 車場を使うようにしてください。JR滝川駅からだと(ほぼ)東南東に1.5kmの位置 にあるのですが、バスだと赤平方面行きの「文化センター入口」でも岩見沢方面 行きの「開発局前」でも同程度に不便〜バス停から500mほど歩き〜となります。 ★★ 美瑛・中町公園[1-4-2] (調査:1997.秋 by A.S) ★★ <概要>:美瑛町立病院の向かい側の中町公園に国鉄49600が展示されています。 <行き方>:駅から真っ直ぐ進むと役場の横に出るので、そこから左に進むと「町 立病院」があります。その向かい側です。 −−−美瑛駅−−− | −−−+−− | | 病院 −−−+−−−−−−− |役場 ★ | <ちなみに>:きちんと屋根が架けられているのは望ましいのですが、手入れする 人がいないようで汚れてます。 ★★ 富良野市・文化会館[1-4-2] (調査:1997.秋 by A.S) ★★ <概要>:富良野市役所の隣の文化会館の横に国鉄D51954が展示されています。 <行き方>:交差点の名前は判りません(^^;。地元で『市役所』を問えば、間違え る人はいないと思いますが… ↑上富良野 | | +−−+−−R38−→南富良野 | ★|市役所の駐車場 文化| 会館|市役所(庁舎) <ちなみに>:「それなり」に手入れされているようですが、欲を言えばもっと 広い場所に置いて欲しいものです(^^;。 ★★ 沙流郡平取町・R237沿い[1-5-1] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:沙流郡平取町内の額平橋の南西にあたるR237沿いに正体不明のSLの廃 車体があります。 # 発見 :-)した時には、「なんだ。(珍しくもない)C58か…」と思って遠く #から撮っただけで通り過ぎてしまったのですが、後で考えれば現地にSLが保 #存されているという情報自体がなかったという…。 <行き方>:現地はR237の額平橋から南西に約1.5kmで、沙流川の支流である額 平川の谷から段丘の上に登りきったあたりです。 二風谷・平取市街←−−−−−−−−額平橋−→荷負・振内 ★ このへん <ちなみに>:炭水車のない機関部分だけが元・畑と思われる平坦地にあり、野晒 しであるせいもあって相当に荒廃しています。 # が、車輌があるのは私有地だと思われるので勝手に入ったり、ましてや部 #品を盗んだりしてはいけません。 ★★ 勇払郡平取町・振内鉄道記念館[1-5-1] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:勇払郡平取町内の国鉄富内線・振内駅跡に、国鉄D5123が展示されてい ます。ただし、本機は戦後すぐにサハリンに送られ、近年に返還されたので 「国鉄」に車籍があった時期があるのかどうか判りませんけど(^^;。 # 富内線については5.1を参照 <行き方>:鉄道記念館は振内市街にあるバスターミナルに隣接しています。 R237からは僅かに奥まった場所で、巨大な駐車場が完備 :-)してます。 ★記念館 穂別・平取市街←−−−−−−−−→日高 <ちなみに>:屋根はありませんが、程度は良い方です。 ★★ 沙流郡日高町・ひだか高原荘[1-5-1] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:沙流郡日高町のひだか高原荘に国鉄79616が展示されています。 # 保存場所を「ひだか高原荘SLホテル」とか「日高山岳ビラパーク」と書い #てある文献もありますが、要するに同じ場所です。 <行き方>:R274の日高市街から南に向かって名称不明の道道を僅かに進み、 沙流川を越えたあたりです。キャンプ場の向かい側がひだか高原荘であり、 機関車は道路から建物に行く途中に展示されています。 夕張・札幌←−−+−−−−→清水 ===|=沙流川== | キャンプ場| | ホテル | ★このへん <ちなみに>:キチンと屋根は掛けられているのですが、補修されていないようで 錆が目立つのは残念です。 ★★ 帯広市愛国町・愛国鉄道記念館[1-5-3] (調査:1997.7 by H.O) ★★ <概要>:広尾線愛国駅がそのまま残され、駅舎は資料室になっています。駅舎か らホームに出ると国鉄19671が展示されています。 # 広尾線については5.1を参照 <行き方>:R236が札内川を渡って2度直角にカーブしていますが、そこの突き 当たりです。 帯広市街 ↑ |‖ 川西−−− ★ここ ‖| ‖|R236 ‖| 札内川↓ 広尾 <ちなみに>:車輌派^^;じゃないもんで保存状態も何もわかりませんが、SLに 屋根はついてませんでした。 ★★ 広尾郡大樹町・柏林公園[1-5-4] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:広尾郡大樹町の国鉄広尾線・大樹駅跡*ではなく*、大樹町役場近くの柏 林公園に国鉄59611が展示されています。 # 広尾線については5.1を参照 <行き方>:公園自体はR236に面していますが、SLは車道から見えません。駐車 場完備。 ↑忠類 | | ★このへん | |■町役場 | ↓広尾 ★★ 河東郡鹿追町・鹿追駅跡[1-5-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:河東郡鹿追町の鹿追市街にある公園に、北海道拓殖鉄道の8622および 貨車が保存されています。 <行き方>:現地は鹿追市街の中心に近い駅跡(の一角)なのですが、少々判りにく いかもしれません。まず探すべきは(やたら広い)拓殖バスの車庫です。その東 側に町営(orJA)の研修施設?があり、そのまた東に芝生の公園があります。 機関車と貨車は、その公園にあります。 # 実を言うと、編者はバスの車庫まで行っていながら自力では機関車の在処 # に辿り着けませんでした。 ★★ 河東郡音更町・大通交通公園(音更駅跡)[1-5-4] <概要>:蒸気機関車(48624)と除雪車(キ704)と車掌車(ヨ4730)を展示。 <行き方>:記憶によれば看板がない。車/バイクの場合は音更市街で通行人を つかまえて「農協はどこだ」と尋ねれば判ると思う。何も考えずに運転し ていると、バイパスに誘導されてしまって音更市街を通らない。バスの場 合は「大通5丁目」のバス停が地図の×なので、そこから帯広寄りの交差 点を東(注:帯広に向かって左)に入れば着く。 地図: ↑士幌 || × || JA || 交通公園 || || ↓帯広 (1998.5) ★★ 幸町公園[1-6-2] (調査:1998.GW by A.S) ★★ <概要>:釧路を訪れた観光客なら、誰でも名前ぐらいは :-)知っている「和商市 場」の裏にある幸町公園に、国鉄C58106が保存されています。 <行き方>:和商市場の場所さえ間違えなければ :-)、その裏手です。 \ \ −+−−−−釧路駅 |和商 \ |市場 \ −+−−−− 幸| 町| 公| 園| <ちなみに>:この公園にはISDN公衆電話があります。 ★★ 阿寒郡阿寒町・雄鶴[1-6-2] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:阿寒郡阿寒町にある自然休養村にある炭礦と鉄道館・雄鶴の裏手に、 国鉄から雄別鉄道に譲渡されたC1165が展示されています。 # 雄別鉄道については8.3を参照 <行き方>:雄鶴はR240で阿寒市街の北にある道の駅の向かい側にあたります。 道の駅からでは200mほど歩くことになります。 ↑阿寒湖 このへん | ★ | |道の駅 自然休養村| ↓阿寒市街 <ちなみに>:キチンと屋根は掛けられているのですが、塗装の痛みは相当に進行 してます。 ★★ 標津郡中標津町・郷土館[1-6-3] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:標津郡中標津町の国鉄標津線・中標津駅跡*ではなく*、同地の郷土館に 国鉄C11209が展示されています。 # 標津線については5.1を参照 <行き方>:中標津市街から空港に向かう途中にある丸山公園の一角です。 # 郷土館に入らなくても見学できます :-)。 ↑空港 | | ★ | このへん ■郷土館 | ↓市街 ★★ 標津郡標津町・文化ホール[1-6-3] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:標津郡標津町の国鉄標津線・標津駅跡*ではなく*、同地の文化ホールに 国鉄C11224が展示されています。 # 標津線については5.1を参照 <行き方>:標津市街から、道道・川北茶志骨線を町内最大の観光施設 :-)である サーモンパークに向かう途中にあります。 # が、サーモンパークへの標識はあちこちに出ているので、標津市街で通行 #人に「公民館」を尋ねた方が判りやすいと思います。 斜里・羅臼←−+−−−−−→別海・厚床 | |★このへん | ■文化ホール ↓ サーモンパーク ★★ 野付郡別海町・別海町鉄道記念館[1-6-3] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:野付郡別海町にある国鉄標津線・西春別駅跡にある鉄道記念館に国 鉄D5127が展示されています。しかし、同機は戦後すぐにサハリンに送られ、 近年に返還されたので「国鉄」に車籍があった時期があるのかどうか判りま せんけど(^^;。 # 標津線については5.1を参照 <行き方>:西春別市街にあるバスターミナルの一角にあります。道路に標識は 出ていますが少々判りにくい場所なので、迷う前に尋ねた方が無難です。 ★★ 紋別郡丸瀬布町・いこいの森[1-6-4] (調査:2001.5.2 by H.O) ★★ 軽便鉄道とかナローゲージとか呼ばれる、レール幅が通常(JR線など)より狭 い鉄道の車輌を集めた鉄道公園です。キャンプ場、温泉、昆虫館、郷土資料館 などもあります(注:屋外展示車輌の見学だけなら無料)。 ここでSLの牽く列車に乗れる、というので行ってみました。私はSLが走って いるのは2度見たことがあるのですが、乗るのは初めて。 丸瀬布は林業の町で、かつてはJR石北線丸瀬布駅から幾つかの森林鉄道があ りました。「いこいの森」で動態保存されて走っているSL「雨宮21号」は、こ の森林鉄道で走っていたものです。運行はGW頃から秋にかけての夏休みと休日 ですが、詳細日程はホームページで確認した方がよいでしょう。大人500円。 # ただし、現地は丸瀬布市街から6kmほど離れている上、人口希薄な地なの #でバスもアテになりません。車・バイク・自転車・気合(笑)等を用意するか、 #さらに奥地にある丸瀬布温泉や国民宿舎に相談されるのが良いと思います。 園内の駅には、黒くてピカピカの雨宮21号と岡山県の井笠鉄道を走っていた レトロな客車が1輌。大人も子供もわくわくどきどきで乗り込みます。 パオーッ… という汽笛が谷にこだましました。もうこれだけで私の頭の中は「鉄道員・ぽ っぽや」の風景。 ジュッ……ジュッ… と動き始めた汽車に、感極まってうるうるしてしまいました。沿道には写真を 撮る家族連れ。汽車はゆっくり園内のコースを走ります。踏み切りあり、鉄橋 あり、キャンプ場を周回し、機関庫を通り、ところどころで汽笛を鳴らしてサ ービスしてくれました。郷愁たっぷりの旅は10分ほどで終わり、元の駅に戻っ てきました。 次の運行は1時間後。走る汽車を撮る前に園内の保存車輌の見学と郷土資料 館へ行きました。 ここには保存されている(ただし動かない)SLが他に2輌。台湾で使われた後 に埼玉の西武山口線に移った532号と、旧陸軍の鉄道連隊から西武鉄道に移っ たE103号。どちらも昭和初期に遠くドイツから輸入されたシロモノです。 SLに比べると目立たない存在ですが、緑のディーゼル機関車も釧路市と阿寒 郡鶴居村を結んでいた鶴居村営軌道で使われていた由緒あるもので、雨宮号の 代役を務めることもあるようです。 動態保存されている機関車は雨宮号と、このディーゼル機関車のみ。他にも 客車や鉱山で使われていた車輌などいろいろありましたが、概して説明が少な いのが残念です。 # ものの本によれば、いこいの森で保存されているのは長野県の木曽森林鉄 #道から来た客車B14・貨車1359・貨車1372、住友鴻之舞鉱から来たディーゼ #ル機関車である3005と客車や貨車…とされています。 郷土資料館は大人100円。開拓の始まった明治以降の生活用具の展示が主で すが、森林鉄道の写真展示もありました。最初は馬力で、やがてSLが使われる ようになったそうです。 今度は走るSLを追っかけながら場所を移動して写真をパチパチ(実際は追い つけるはずがなく、周回軌道の数ヶ所で先回りした訳ですが:p)。 というわけで、しばし童心に返って無邪気に夢中になった2時間でした。 ★★ [1-6-4]北見市・SL公園 (調査:2003.4) ★★ 国鉄D51444があります。 北見駅から結構遠く、石北通りと北見ポスフール のある通りとの交点付近にあります。行った時はカバーがかけられていて、状態 は確認できませんでした。 ★★ るべしべユース(YH)前[1-6-4] (調査:1998.GW by A.S) ★★ <概要>:留辺蕊市街の南、YHの前に、国鉄D51311が保存されています。 <行き方>:車/バイクでR39を石北峠から北見に向かうと、留部蕊市街の南で陸 別方面へのR242が分かれた直後の南側(注:北見に向かって左側)に「ユースホ ステル」の看板が出ていますので、そこが目印です。JRの場合は駅を出てから 右に曲がり、約300m進んで再び右に曲がると車道が線路を潜っており、さらに 約400m進むとR39に出るので、その反対側です。 # ちなみに、上記のJR利用の場合のルートは地形図(だけ :-))を見て書い #ているため、もしかすると「徒歩のみ可」な近道があるかもしれません。 ★★ 紋別郡湧別町・計呂地交通公園[1-6-4] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:紋別郡湧別町にある、国鉄湧網線・計呂地駅跡にある計呂地交通公園に 国鉄C58139が展示されています。 # 湧網線については5.1を参照 <行き方>:計呂地市街の中で、R238に面してます。 ★このへん 中湧別←−−−−−−−−→佐呂間 <ちなみに>:屋根はありませんが、近年に再塗装されたようで程度は良いです。 ★★ 常呂郡佐呂間町・佐呂間交通公園[1-6-4] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:常呂郡佐呂間町にある国鉄湧網線・佐呂間駅跡にある佐呂間交通公園に 国鉄D51565が展示されています。 # 湧網線については5.1を参照 <行き方>:R238沿いの浜佐呂間市街*ではなく*、佐呂間市街にあるバスターミ ナルの西側にあります。バスターミナル自体が道道・留辺蕊浜佐呂間線には面 しておらず、道道には案内が出ていない(筈な)ので、気を付けてください。 #佐呂間市街で通行人に「バスターミナルはどこだ?」と聞けば、判ると思 #いますけど。 ★このへん 遠軽・留辺蕊←−−−−−−−−→浜佐呂間 <ちなみに>:きちんと屋根が掛けられていますが、手入れが行き届いていないよ うでロッドにサビが出てます。 ★★ 網走市・卯原内鉄道資料館[1-6-4] (調査:2000.5 by A.S) ★★ <概要>:網走市の東部・能取湖の南岸にある国鉄湧網線・卯原内駅跡にある鉄道 資料館に国鉄49643が展示されています。 # 湧網線については5.1を参照 <行き方>:R238に面しています。 ★このへん 常呂←−−−−−−−−→網走市街 <ちなみに>:ここも野晒しなので劣化が心配です。 ★★ 紋別市・紋別運動公園[1-6-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:紋別市街の南端近く(南ヶ丘町7)にある運動公園内に、国鉄69644が保 存されています。 <行き方>:紋別運動公園は幾つものグラウンドがあるため、正面(北側)*以外*の 外周道路から見ただけでは(おそらく)機関車の所在は判りません。北側の道路 (あるいは駐車場)に立てば、サッカーグラウンドの反対側に機関車が見えます。 バスで行く場合には「紋別南高」が至近だった筈です。運動公園には数10台分 の駐車場がありますが、運動公園で何らかのイベントが行われる際には確保は 難しいかもしれません。 ★★ 紋別郡遠軽町・遠軽公園?[1-6-4] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:紋別郡遠軽町の遠軽市街(西町1)にある公園に、国鉄D51859とラッセ ル車が保存されています。 #文献によっては保存場所として「遠軽公園」が挙げられていますが、現地で #遠軽公園と言うと巌望岩を含む丘の上の一帯を指す場合が多いようです。ち #なみ展示されている場所は巌望岩の足元にあたるJR石北本線の線路脇です。 <行き方>:現地は遠軽神社?を挟んで駅と反対側にあり、列車が遠軽駅に到着す る直前(または発車直後)に巌望岩の方を見ていればSLが見つかると思います。 遠軽駅からだと歩いて数分かかります。現地に駐車場はありませんが、交通量 が少ないので短時間なら路上駐車でも問題ないと思います。 ***番外・遠軽駅の転車台(2002.GW)*** 公園は遠軽駅に隣接していますが、駅構内には転車台が残っています。 遠軽駅の裏手の住宅街を抜けると駅構内に入ることができます。門も柵もな く、いきなり原っぱになり、枕木が少々積んであります。立入禁止とも何とも 書いてありません。原っぱからは線路内やホームに立ち入ることもできてしま います。駅のホームには駅員と運転手がおり、こちらは丸見えのはずなのです が、とがめられることはありませんでした。 # テロには全く無防備です^^; で、その原っぱの中に転車台があります。 操縦席がついているので、手動ではなく何かの動力で回転させるようです。 非電化区間ですから電動じゃなくてディーゼルなのかな。操縦席内部にはレバ ーのついた操作機があり、外壁には、何に使ったのか知りませんが、つるはし が当時のまま?に取りつけられています。回転部分のレールに立ち入らないよ う、「歩行禁止」と書かれたプレートもありましたので、尊守です。錆び付い てはいますが、引き込み線も含めてすべてが当時のままに残っているように思 われます。 ★★ 苫前郡羽幌町・勤労青少年ホーム[1-7-1] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:苫前郡羽幌町の羽幌市街の中(南6条3)にある「勤労青少年ホーム」 に、国鉄から羽幌炭坑鉄道に譲渡された58629が展示されています。 <行き方>:現地は(たぶん)駅跡なのでR232には面していませんし、バスターミ ナルからも少々離れています。R232から行く場合、羽幌川の渡河地点の南側で 内陸(注:南東)に向かう車道を500mほど進むと中央公民館があるので、その横 にあたります。 #上記のように中央公民館が目印となるのですが、羽幌市街で若くない :-)人 #に現地を尋ねる場合は「駅の跡」を聞いた方が間違いないかもしれません。 <ちなみに>:冬季は保護のために全体がシートで覆われ、見学できません。 # 2001.5.5にもシートで覆われていました。 ★★ 留萌市・見晴公園[1-7-1] (調査:2001.GW by A.S.) ★★ <概要>:留萌市街にある「見晴公園」の北東の隅に、国鉄D613が展示されてい ます。見晴公園は市民センターや野球場を含む相当に大きな施設なのですが、 保存機があるのは「文化センター」のバス停に近い崖?下です。 <行き方>:上記のとおり、バス+徒歩の場合は文化センター(または旭町2丁目) が最寄りです。数台分ですが、保存機のすぐ下に駐車場もあります。 <ちなみに>:D61というのはD51の改造で作られた羽幌線・留萌本線専用?の機 関車で、現存するのはこの1輌だけです。 ★★ 枝幸郡中頓別町・寿公園[1-7-2] (調査:1998.GW by A.S) ★★ <概要>:枝幸郡中頓別町にある寿公園に旧国鉄の49648が展示されています。 公園と国鉄天北線・寿駅との関係については未調査。 # 天北線については5.1を参照 <行き方>:中頓別と浜頓別の町境にある寿トンネルの南側にあり、R275に面し ています。駐車場完備の大きな公園ですので、公園そのものを見落とすことは ないでしょう。公園の入口にバス停があった筈ですが、ダイヤ等は不明。 中頓別←−−−−−−−トンネル−→浜頓別 ★このへん ★★ 名寄公園&北国博物館[1-7-4] (調査:1998.GW by A.S) ★★ <概要>:「名寄公園」はJR名寄駅から見て南東にあたり、「北国博物館」は公 園の南の隅にあります。公園自体はグラウンドを主にした「地元の人のため」 の場所なのですが、公園の南の隅にあたる宗谷本線の線路近くに、往年の除雪 列車を再現した車両群(*1)が展示されています。また、この展示場所自体が名 寄本線の跡であるようです。 (*1)専門的 :-)には59601+キ911+キ604+D51398+ヨ4456 という「キマロ キ」編成で、現存するものとしては唯一(の筈(^^;)です。 <行き方>:車/バイクの場合、R40号の「西4南10」の交差点(注:名寄市街の 士別寄りの端近く)を東(注:市街に向かって右)に曲がって線路を越えた南〜右 〜の一帯が公園です。下川から到達した場合、R239の「名寄商業高校」の北〜 名寄市街〜側の交差点を西に曲がって進むと公園の北の端に出ます。 # R239の高校の斜め向かいに「モダ石油」があり、やたら目立つので公園 #そのものや高校より目印になります。 JRの場合、名寄駅〜の西口?〜を出てすぐの「アカシヤ通り」を左に曲がっ て300mほど進むと交差点の反対側に「長崎屋」があるので、そこを再び左折 すると、上記の跨線橋で宗谷本線を越えます。ちなみに、長崎屋の前から公 園まで(さらに)約300mありますので、悪天候の日は「駅から歩く」のは結構 ツラいかもしれません。バス便があるかどうか…は不明です。 ↑美深 || || | + || | 駅 || | + || -- --- ---=-------------- || |長 + 高| || | + 公園 || || + || || + 列車 || || + 博物館 | ↓士別 ↓下川 <料金等>:ネタ帳 :-)には博物館の開館時間は9時〜17時。ただし入館は16時30 分まで…とだけ書いてあり、休館日/料金等は不明です(_ _;) 博物館の建物は平屋で、玄関前に駐車場完備。地面との間に段差はないので 車イスでの入館に(とりあえず)支障はなさそうです。公園自体は無料で、駐車 場完備です。公園内のトイレの車イス対応の有無は未確認です。 <ちなみに>:博物館の前の道を西に進むと、宗谷本線を越えた先で旧・深名線の 跡(注:専門的 :-)には路盤)が現われます。深名線の跡は車道に並行して進んで おり、「名寄中学校」まで車で辿れます。 ★★ 未確認だが、健在であることが予想されるもの ★★ <夕張市・夕張石炭の歴史村SL館[1-2-3](夕張市高松7-1)> 三菱大夕張No.4、夕張14 <雨竜郡沼田町・農業資料館[1-2-4](沼田町南1条1-9-26)> 国鉄(後に明治鉱業)15 <札幌市東区・JR北海道苗穂工場[1-3-1](東区北4条東15)> 国鉄C623、国鉄D51237 <旭川市・神居古潭公園[1-4-1](旭川市神居町神居古潭)> 国鉄29638、国鉄C57201、国鉄D516 ★★ 安否不明 ★★ 以下は下記の文献(7)に載っている保存SLの内、MLメンバが安否を確認でき ていないものの一覧です。皆様からの情報をお待ちしています(_ _;) [1-1-2]亀田郡七飯町・函館グリーンランド(七飯町大中山958-1) 国鉄D51947 [1-2-1]虻田郡倶知安町・文化福祉センター(倶知安町南3条東4) 国鉄79615 [1-2-1]岩内郡岩内町・運動公園(岩内町宮園297) 国鉄D51159 [1-2-2]苫小牧市・科学センター(苫小牧市旭町3-1-12) 国鉄C11133 [1-2-2]白老郡白老町・ポロト公園 国鉄D51333 [1-2-2]室蘭市・青少年科学館(室蘭市本町2-2-1) 国鉄D51560 [1-2-2]虻田郡豊浦町・中央公民館前広場(豊浦町66-2) 国鉄D51953 [1-2-4]深川市・多度志農場(深川市上多度志) 国鉄9645(北炭真谷地24) [1-3-1]札幌市東区・サッポロビール園(東区北7東9) 国鉄(日曹天塩)9643 [1-3-1]札幌市西区・農試公園(西区八軒西6丁目) 国鉄D5111 [1-3-2]千歳市・キリンビール千歳工場(千歳市上長都949-1) 国鉄D511052 [1-3-2]夕張郡長沼町・ながぬまコミュニティー公園 夕張25(国鉄49649) [1-3-3]小樽市・北海道ワイン工場前(小樽市朝里川温泉毛無山) 国鉄59614、国鉄D51286 [1-4-1]上川郡上川町・錦峡公園 国鉄D51157 [1-4-1]旭川市・ニュー温泉(旭川市高砂台) 三井芦別C58-2 [1-6-2]釧路市・釧路製作所(株)釧路工場内(釧路市川北) 国鉄(雄別)8722 [1-6-4]紋別郡滝上町・滝上町郷土館(渓谷公園?)(滝上町元町) 国鉄39628 [1-6-4]斜里郡斜里町・町民公園 国鉄59683 [1-6-4]斜里郡清里町・児童公園(羽衣公園?) 国鉄C5833 [1-6-4]網走郡美幌町・スポーツセンター(相丘公園?) 国鉄C5882 [1-6-4]北見市・SL広場(美芳広場?)(北見市栄町) 国鉄C58119 [1-6-4]北見市・三治公園 国鉄D5025 [1-7-3]天塩郡豊富町・森林自然公園 国鉄(日曹天塩)49678 [1-7-4]上川郡和寒町・郷土資料館(和寒町字北町) 国鉄D51337 [1-7-4]士別市・つくも水郷公園(士別市大通) 国鉄D51397 ★★★★★ 10 参考図書 ★★★★★ (1)宮脇俊三編:鉄道廃線跡を歩くI〜VIII、JTB キャンブックス とりあえずの入門書としては妥当でしょう。道外の情報の方が格段に多く、 取り上げられて*いない*路線も多いのですが、現役時代の貴重な写真を交え た解説の他、巻末にデータも色々ついています。 ただし、このシリーズの記事には、必ずしも正確ではない点が幾つか見出 されています。 # が、文句を付けながら読むのは良い勉強になります :-)。 (2)岡本憲之:全国軽便鉄道、JTB キャンブックス、1999年 (ISBN4-553-03198-6 C2026) 民営鉄道の内、特に軽便鉄道に関する入門書です。これも道外の情報の方 が圧倒的に多いのですが、「鉄道廃線跡を歩く」シリーズでは名前しか載っ ていない幾つかの軽便路線の沿革を知るには、手軽だと思います。 (3)湯口徹:私鉄紀行 北線路−never again(レイルNo.21/No.22)、 プレス・アイゼンバーン、1988年 4-87112-171-2 C1065 4-87112-171-0 C1065 とっても高価な本〜それぞれ税別4500円〜ですが、昭和30年代における道 内のローカル私鉄を語る上での定本だと思います。 (4)今井理・森川幸一:簡易軌道写真帖、モデルワーゲン、1997年 (ISBN4-87366-151-X C0065) 殖民軌道/簡易軌道に関する専門書です。文字どおり写真集ですが、史料 としての価値もあります。 (5)小熊米雄:日本の森林鉄道(上)、プレスアイゼンバーン、1989年 (ISBN4-87112-412-5 C1065) 道内に限らず、日本の森林鉄道で使われた蒸気機関車についての定本です。 ただし同書では蒸気機関車が使われなかった路線には言及されていないので、 注意が必要です。 (6)白川淳:全国保存鉄道II、JTB キャンプックス、1994年 (ISBN4-533-02091-7 C2026) SLに限らず保存車輌全般を網羅していますし、値段もお手頃なのですが、 肝心のデータが古いのであまりお薦めできません。 (7)鉄道友の会:RAILFAN No.155 別冊:保存車・廃車体一覧3、1999年 (ISSN0289-9388) 保存車両の型式、場所、など現時点で最も確度が高いと考えられる資料で す。はっきり言って(6)より有用ですが、既に専門書店でしか入手できない かもしれません。 (8)加藤達也:北海道北部地方 蒸気機関車変遷史1897-1975、空知古書館、 1996年 現役時代のSLについての本です。 (9)三菱大夕張鉄道に関する関連ホームページ 三菱大夕張鉄道保存会: http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5963/index.html 夕張の産業遺産: http://plaza6.mbn.or.jp/~Noritax_World/ 大夕張鉄道 蒸機百景: http://www.yo.rim.or.jp/~slnet/main/yubari.html 三浦綾子氏の「塩狩峠」のロケ現場となった…という話題: http://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/tetudo9.htm http://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/kasima.htm (10)三菱大夕張*以外*を含む蒸気機関車の写真: SLNET時の旅人: http://www.yo.rim.or.jp/~slnet/ 鉄道趣味の部屋: http://www2.plala.or.jp/railphoto/index.html (11)細田恒美:北海道ふるさとの駅、北海道新聞社、1994年 (ISBN4-89363-726-6 C0071) 専門書ではありませんが、国鉄/JRの駅(現役路線を含む)のスケッチ集です。 各線の歴史や駅名由来も簡潔に記され、写真集にはない味わいがあります。 (12)堀淳一:北海道 鉄道跡を紀行する、北海道新聞社、1991年 (ISBN4-89363-606-5) 続・北海道 鉄道跡を紀行する、北海道新聞社、1999年 (ISBN4-89453-038-4) 筆者が友人、家族と廃線を歩いた紀行文。資料にはなりませんが、鉄道考古 学の草分けとしての氏に敬意を…という意味で挙げておきます。 (13)西野保行・淵上龍雄:レールの趣味的研究序説(上)(中)(下)、鉄道ピクト リアル、1977年1〜3月 (道内に限らず)日本における輸入レールについての基本文献だと思います。 (14)北海道大学鉄道研究会 取り上げられているのは廃線に限った訳ではありませんけど、道内の鉄道を 考える場合にはチェックしておく価値のあるページだと思います。 http://cen7.ec.hokudai.ac.jp/~k970007/railfan/ (15)田中和夫:北海道の鉄道、北海道新聞社、2001年、定価\1900 (ISBN4-89453-136-4) この本がすごいのは、守備範囲としている鉄道が、森林鉄道および専用線 を除き、道内の国鉄、私鉄、植民軌道のほぼすべてであることに加え(抜け ている路線があればごめんなさい)、各路線についての記載の深さ、そして、 貴重な当時の写真を豊富に収録している点です。北海道の物資輸送にどれだ け鉄道が重要な役割を果たしてきたかあらためて理解して、開拓時の苦労が 想像でき泣けてきます。 ただ、1つだけ編者が気になったのは、参考文献に偏りが見られる点です。 公的刊行物ではあっても一次史料そのままではない市町村史や、一般向けの 通史の類にはデータの誤記や欠落がある場合が珍しくなく、相互に矛盾して いる場合もあります。これらの点は一次史料まで辿らなくても紀要や専門誌 を丹念に追って行けば判ることなのですが、本書では言及されていません。 こういう点に限界があるのを承知の上で、初心者向けの通史として考える ならば良い本だと思います。 (16)星良助:北国の汽笛1 ないねん出版、2000年、税別\4600 (ISBN4-931374-26-3) 北国の汽笛2 ないねん出版、2001年、税別\4600 (ISBN4-931374-30-1) "1"は1956〜1959年に、"2"は1960〜1961年に、それぞれ星氏が撮影した列 車(あるいは車輌)の写真集です。 「汽笛」と付いているのでSL専門の写真集に思えるかもしれませんが、著 者が『レールのうえに乗っているものは残さず写してきたつもり』(注:"2"の 「はじめに」より)というだけあって、史料価値の高い写真が多いです。 # が、欲を言えば値段を何とかして欲しいです :-( (17)和久田康雄:私鉄史ハンドブック (株)電気車研究会、1993年、税別\2524 (ISBN4-88548-065-3) 本書も取り上げられている路線は道外のものが殆どなのですが、鉄道に関 する法律面での規定の変遷や統計資料の読み方といた解説があるので、本格 的な研究をされる方には一読の価値があると思います。